朝霧に霞む平穏
ミレイユから伝達が来たのが、翌日の早朝。
昨夜なかなか寝付けなかったルシウスは、返答があるまでしつこく送られてくる伝達に、叩き起こされる羽目になった。
夏の陽の出が早いとは言うが、それでもまだ陽が昇り出したばかり。
何度目かわからない伝達にルシウスが返答した時点で、ミレイユはすでに怒り心頭の様子だった。
そこから二度寝をしたばかりに、長い金髪を振り乱す鬼に、追いかけられるという悪夢まで見てしまった。
朝からどっと疲れたルシウスは、エントランスホールの一角に座り、少しでも頭をはっきりさせようと、普段飲まない冷たいコーヒーを口に運ぶ。深い溜息とともに。
「随分と疲れてるみたいだな」
リーベがカップを片手に、ルシウスの前に腰掛けた。
彼は夏でも熱いコーヒーを飲むらしい。前で湯気立つそれを見ているだけで暑苦しくて、ルシウスはストローを嚙みながら黒い液体を吸い上げた。
「朝からミレイユさんの伝達があって……」
事の成り行きを話すついでに悪夢のことも話すと、リーベは小さく苦笑する。
「それは朝から災難だったな」
「災難どころじゃありませんよ。想像してみてくださいよ。
あのミレイユさんが鬼になって、すごい顔で髪を振り乱しながら、延々と追いかけてくるんですよ!?」
自分で言いながら夢を思い出して身震いしたルシウスは、再びため息を吐きだす。
「それは私でも逃げるだろうな」
ストローに口をつけたままルシウスは、正面のリーベを眺める。
何度見てもカップを口に運ぶ姿は絵になるなぁ。でも彼ならきっと鬼のミレイユ相手でも打ち負かしてしまいそうだ。
そんな想像をしてみると悪夢の影が少し遠のいた気がして、更にその想像にエーレとシュトルツを加えてみた。
すると逆に地獄絵図のようになりかけて、慌てて頭を振り、その想像をかき消す。
「それより」 リーベがカップを置き、足を組んだ。「孤児院だが、ついて行かなくて平気か?」
カップに伏せられていた目線がこちらへやってきたのを見て、ルシウスはストローから一旦口を離すと、小さく頷いた。
「大丈夫です。ミレイユさんもいますし。これくらい自分でなんとかしなきゃ」
一晩考えたけれど結局何も変わらないまま、気が付いたら思考を閉じるように眠ってしまっていた。
自分でなんとかしなければいけないというのは本音であったけれど、どうすればいいのか未だにわからない。
僅かに視線を落とした先で、リーベが幾度か小さく頷いた。
「頼もしくなったようで何よりだ」
いつもより少しだけ抑揚のある声に、ルシウスは小さく目を見開く。
「そう見えます?」
「ああ、最初の頃とは比べ物にならない」
本当にそうだろうか?
彼がそう言うのだから、そう見えるのは確かなのかもしれない。
それに小さな勇気をもらえた気はしたけれど、どうしても彼はその言葉を素直に受け入れることも出来ずにいた。
ルシウスは落とした視線を更に落とし、黒い液体を見つめる。
その時ふと嫌な予感が背筋を走って、顔をあげた。
今しがた見つめてい黒と似た色――視界の端にエーレが映ったような気がして、しっかり階段の方を見ると、本当にエーレが下りてきていた。
嫌な予感は彼のせいにしておこう。ルシウスはそう思って、やたらと目立つ彼から目を逸らす。
「珍しくいたんですね」
ルシウスの目線の先を知ったらしいリーベが、「ああ」と声を漏らす。
「あとは職人を訪ねるだけだし、休んでいたんだろう」
そうか、彼らは自分の知らないところで、依頼のために様々な準備を整えていたのだった。
現状、ルシウスは未だにそれについていくだけの形だ。そう思えば自分のことくらい自分でやらなきゃいけない。
ルシウスは三度目になるその言葉を深く心に落とし込んだ。
丁度同じタイミングで、二人の視線を感じ取ったらしいエーレがこちらを見た気配があった。
それにしても……
ルシウスは顔を前に突き出して、小声で尋ねる。
「前から思ってたんですけど、エーレってあれでよく体もってますよね」
「言わなかったか? 私たちの体の造りは普通とは違うんだ。
常人ほど睡眠や食事を摂らなくても、動けるようになっている」
「初耳なんですけど……」
だからエーレはあれだけ飲み食いもせず、まともに眠らなくても平気そうにしていたのか。
でもシュトルツは? ふと大量の料理の前で喜々として両手に食器を持つ彼が浮かんだ。
「それはすまなかった。まぁ、私たちの人間離れしていると思うところは、基本的にそんなものだと思っておいてほしい」
「じゃあ、エーレの地獄耳も……」
「あれはあいつ特有のものだ」
「そうですか……」
神の権能の影響で、彼らが常人とかけ離れているということは理解したルシウスだったが、やはりどこまでがその影響なのか、わからないまま苦笑する。
その時遠ざかっていた嫌な予感が再浮上して、前に寄せた体を起こした先には――




