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調和の王〜影から継がれたもの〜  作者: 俐月
1章

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群れの嵐《ホルデンシュトゥルム》

湾港都市レネウスで、リーベに魔法を教えてもらっていたユリウス。

悪戦苦闘しながらも、徐々に魔法の制御を覚えていく。

訓練中、エーレとシュトルツがやってきて、近日中に群れの嵐がやってくるという事実を教えられる。

面倒ごとに巻き込まれる前に、街を出るという彼らにユリウスは激怒し、街に向かおうとしたが、シュトルツに気絶させられてしまった。

 




 空が赤黒い。視界に入る全てが橙に染まっている。辺り一面、火の海だ。



 ――ここは、どこなんだ?



 あらゆる動物たちが、逃げ場を求めて走り去る。

 僕もその列を追う。ここは森の中だ。

 どうしてこんなところにいて、どうして逃げ惑っているのか……



 視線が低い。走り方がおかしい。

 嗅覚が効きすぎて、煙が苦しい。

 木が燃えて弾け、激しく倒れる音、動物たちの鳴き声と足音、風の音――


 全てのものが耳を劈き、痛くて痛くて仕方ない。



 帰らないと……早く帰らないと。

 子供たちの元へ帰らないと――



 胸の底から突き上げてきた感情……それはあまりにも自然で僕の一部で。これは……



 ――子供……?



 街で子供たちが、お腹を空かせて待ってる。私が帰らないと、あの子たちは飢えて死んでしまう。

 憎い、人間が憎い。悲しい。寂しい。苦しい。



 ――誰だ、誰の声なんだ。



 視界を埋め尽くす火と燃える木々、動物たち。

 動物たちと同じ目線。灰色の手足で、僕は駆けている。









 頭の芯を揺さぶられる轟音で、ユリウスは目が覚めた。


 どこかからか鐘のような音が、けたたましく鳴り響いている。

 まだ肌寒い季節だというのに、全身汗でびっしょり濡れていた。


 辺りを見渡す――森ではない。

 レギオンの宿の一室だ。外を見るに陽はとっくに暮れていて闇は深く降り立っている。




 一体、何が……


 ユリウスはコートを引っかけて、すぐに一階へと駆け下りた。

 いつもなら深夜でも賑わいを見せているエントランスホールは閑散としていて、すべての席が宴の途中のように投げ出されていた。

 残っている人の中に、顔見知りはいない。



 右往左往していると、奥から頑丈そうな軽鎧を身に纏った女性が出てきた。

 普段と恰好が違うから、すぐには気づかなかった。ダリアの姉――メリアだ。



「一体、何があったんですか?」



 ユリウスは駆け寄って尋ねた。

 彼女の手には、短剣が握られている。



「魔物よ。魔物の集団が、もう街の近くまできてる」



 メリアの表情は強張っていて、焦りが滲み出ていた。



「あの三人は……カロンはどこですか?」



 この事態だ。まだ街も出ていない。

 ああは言っていたけど、さすがに防衛に参加しているだろう。

 しかし、メリアは首を振った。



「わからない。非常鐘が鳴ったときに、あの人たちはいなかったから……

 もしかしたら感づいて、先に防衛に行ってくれてるならいいんだけど」



 ユリウスは、嫌な予感がした。

 彼らが優先しようとしているのは、この街の防衛ではない。



「メリアさん。僕も連れて行ってください」



 メリアは躊躇うように、言葉を渋った。

 どう見ても、戦闘要員ではないユリウスを連れていくには、危険と判断したのだろう。



「お願いします。どうしてもいかなきゃいけないんです」



 言葉を重ねたユリウスに、彼が引き下がる意思がないことが伝わったのか、メリアは頷いた。



「わかったわ。でも、危険だと思ったらすぐに退避すること」



 ユリウスも強く頷き返して、レギオンを飛び出た。

 さっきの夢は夢なんかじゃない。

 ユリウスは確信していた。


 ――森と動物に、同調していたのだ。


 ユリウスはその中にいた。とある動物と同化していた。





 ◇◇◇





 街中が、逃げ惑う人や避難指示をする人、防衛へと向かおうとする人で、ごった返していた。


 森側の防壁はここ二日、海へ行くために通った東側である。

 いつもなら街を出るまで、さほど時間はかからないのに、溢れかえる人々で思うように進めない。

 どうにか、門の近くまでたどり着こうとしたときには、ユリウスはメリアと逸れてしまっていた。




 レギオンに所属するクランの人たちが大勢いる。

 近くに海軍の拠点もあるはずなのに、まだ到着していない。


 すでに門の外では、戦闘が始まっているらしい。

 魔物の咆哮と、迎え撃つ人たちの剣戟の音に紛れて、あらゆる魔法の波動が体に伝わってきた。



 門の向こう側で交戦している人たちが視界に入った途端、背中に激しい怖気が走った。



 膨大な数の魔物たち――そのすべてに穢れが漂い、今もまだ増幅しているように見える。

 穢れは、負の感情によって増幅する。

 この世界の、生きとし生けるものたちの負のエネルギーを吸収して、自我を失くし、堕ちてしまった精霊の成れ果て。


 動物たちだけではもうこれ以上、増幅できなくなった穢れが、新たなエネルギーを求めてやってきたのだ。


 魔物を一匹浄化したと思えば、レギオンの人が数人、負傷し後退を余儀なくされる。

 どちらが優勢でどちらが劣勢なのか、ユリウスには判断できない。

 それほど状況は入り乱れていて、把握しようがなかった。

 あの中に、飛び込めるはずがない。



 ――お前に何ができる――



 エーレの言葉が、脳裏によぎった。

 駆けだしていけば、たちまち魔物の餌食になってしまうだろう。

 そんな最悪を想像した途端――頭の芯が揺らいだ。

 同時に酷い吐き気がこみあげてくる。



 波動酔いだ。

 あらゆる力の波動が混ざり合って、生まれる波長や振動数に体がついていかずに、起こる現象。


 まるで、酷い乗り物酔いのような不快感だった。

 ユリウスは、ぐっとと堪えて前を見た。


 浄化を使える光の魔法――その同調者は、多くない。

 このままでは、街は飲み込まれてしまうかもしれない。




 ユリウスは、あの三人――カロンの姿を探した。


 どこかできっと、この状況を見ているはずだ。

 門付近、門の外、魔物とそれを迎え撃つ人々――

 どこを見ても、あまりにも軽装で目立つだろう彼らは見当たらなかった。


 冷や汗が頬を伝っていく感覚が、更に怖気を湧き上がらせた。

 何もできない。たった一歩すら踏み出せない。

 今までだって、何度も無力感を感じてきたことはあった。

 けれど、これはわけが違う。



 迫りくる魔物。

 人々の命の危機をここまで感じているのに、立ち向かう気力は削がれていた。

 心が折れてしまいそうな自分の弱さ。視界の色が失われていくような絶望感。



 ――独善だったんですね……――



 失望と共にエーレに向けて吐き出した、自分の言葉が頭から離れない。


 何を勘違いしていたのだろう。

 城しか知らない無知な自分に、一体何を期待していたのだろう。

 今ここにいるのは皇太子ではなく、ただのユリウスでしかないのに……



 絶望が視界をぐらり、と揺らし、酔いを悪化させていく。

 防壁までたどり着いたというのに、もう足に力が入らない。

 耐えられない。視界を閉ざして、ユリウスが思い座り込もうとしたときだった――



 息が止まるほどの鼓動が、心臓から全身へと大きく脈うち、同時に頭が割れんばかりの耳鳴りが響いた。



 ――痛い、痛い、痛い。助けて。帰りたい。助けて――



 感情が、イメージが、頭に駆け巡る。

 目先の情けにも、生きるために必死で縋りついた人々。

 お腹を空かせて待っているだろう街に残した子供のために、あの母犬は危険を冒して森へ出て行ったのだ。

 飢えて体力もない状態で、森に向かうなんて無謀な真似までして。



 途中に森に炎が上がり、穢れで溢れかえった。そして、母犬自身も穢れに侵食された。

 その母犬が、助けを求めている。

 頭の中に心の奥に、悲鳴にも似た痛哭な叫びが響いて止まらない。

 ユリウスは唇を強く噛んだ。血の味が彼の意識を引き上げていく。



 ――独善だ。独りよがりで、自己満足だ。

 それでもいい。たった一匹の犬の命かもしれない。

 それでも自分がかけた情けだ。それくらいの責任すらとれなくて、どうしてあの父の支配から逃れられるのか。



 ユリウスは崩れ落ちてしまいそうな足に、今出来る最大の力を入れて踏ん張った。

 そのまま防壁に勢いよく胃液を吐き出すと、少しだけすっきりした。

 胃液と一緒に、恐れも吐き出せたような感覚だった。




 門の先へ、あの目まぐるしく恐ろしい先へ――足を踏み出す。

 門を守るレギオンの女性に「危ないから下がりなさい」と、忠告されたような気もした。

 ユリウスは前しか見ていなかった。



 外に出てみると、先ほどよりもほんの少しだけ魔物の数が、減っているように思えた。

 血の匂いが充満している。目と鼻が痛い。



 ――苦しい、助けて――



 ユリウスは辺りを見渡した。

 この中のどこかにいる。

 目を閉じて神経を研ぎ澄ませる。同調してはいけない。

 この中で同調しすぎてしまうと、呆気なく呑み込まれてしまうだろう。



 剣戟の音、力の波動と風の音、炎の爆ぜる音。違う、これじゃない。

 足音、咆哮、唸り声。荒い呼吸――

 ハッと目を開いたときには、ユリウスは走り出していた。



 炎が近くで、燃え上がる。風が刃のようにすぐ近くを通り過ぎる。

 靴は魔物と人の血で濡れ、足元を掬われそうになる。



 乱闘の中を駆け抜ける――走って走って、走った先で、ようやく見つけた。



 人を襲うではなく、後ろでただただ唸り声をあげて、威嚇している魔物。

 穢れに侵食され大きさこそ違うものの、すぐに襲ってこないところを見ると、自我をすべて侵食されていように見える。


 その時になって、ようやくユリウスは、生命力を練り上げた。

 そのまま穢れを纏う、巨大化した母犬を抱きしめる。


 穢れが体を侵食していく、視界が黒く染まっていく――母犬の感情が流れ込んでくる。



 人間に捨てられ、虐げられ、それでも懸命に生きようとした記憶と共に……

 辛い、辛い、苦しい。飢えて飢えて、それでも子供たちだけは守りたい。

 人間は嫌いだけど、あの人間は一瞬だけでも助けてくれた。

 だから、だからもう一度だけ助けてほしい。子供たちだけでも助けてほしい。



 流れ込んでくる感情を聞いて、ユリウスは理解した。

 あの夢は、ユリウスが無意識に同調したのではない。

 この世界に生きるものたちは、精霊の力を借りることが出来る。

 動物も例外ではない。


 この母犬の祈りが、同調という形になってユリウスに伝わってきたのだ。


 水の魔法は、共感と支配の力――


 浄化は出来なくても、このまま呑みこまれるわけにはいかない。

 同化してしまいそうな自分を諫め、唇を強く噛むことで意識を留めた。


 意を決して魔法を発動しようとした時、すぐ近くから身を震わせるような咆哮が鳴り響いた。

 空気を震わせる衝撃に、ユリウスの集中が途切れる。


 その咆哮に促されるように、近くにいた魔物たちがこちらへと一斉に牙を向いた。

 気付いた時には、もう遅かった――


 眼前に迫った鋭い牙。死を覚悟して目をぎゅっと閉じた。



 しかし、ユリウスの耳に届いたのは、自らの肉を割く音でも、悲鳴でもない――氷の砕けるような音だった。







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