群れの嵐《ホルデンシュトゥルム》
湾港都市レネウスで、リーベに魔法を教えてもらっていたユリウス。
悪戦苦闘しながらも、徐々に魔法の制御を覚えていく。
訓練中、エーレとシュトルツがやってきて、近日中に群れの嵐がやってくるという事実を教えられる。
面倒ごとに巻き込まれる前に、街を出るという彼らにユリウスは激怒し、街に向かおうとしたが、シュトルツに気絶させられてしまった。
空が赤黒い。視界に入る全てが橙に染まっている。辺り一面、火の海だ。
――ここは、どこなんだ?
あらゆる動物たちが、逃げ場を求めて走り去る。
僕もその列を追う。ここは森の中だ。
どうしてこんなところにいて、どうして逃げ惑っているのか……
視線が低い。走り方がおかしい。
嗅覚が効きすぎて、煙が苦しい。
木が燃えて弾け、激しく倒れる音、動物たちの鳴き声と足音、風の音――
全てのものが耳を劈き、痛くて痛くて仕方ない。
帰らないと……早く帰らないと。
子供たちの元へ帰らないと――
胸の底から突き上げてきた感情……それはあまりにも自然で僕の一部で。これは……
――子供……?
街で子供たちが、お腹を空かせて待ってる。私が帰らないと、あの子たちは飢えて死んでしまう。
憎い、人間が憎い。悲しい。寂しい。苦しい。
――誰だ、誰の声なんだ。
視界を埋め尽くす火と燃える木々、動物たち。
動物たちと同じ目線。灰色の手足で、僕は駆けている。
頭の芯を揺さぶられる轟音で、ユリウスは目が覚めた。
どこかからか鐘のような音が、けたたましく鳴り響いている。
まだ肌寒い季節だというのに、全身汗でびっしょり濡れていた。
辺りを見渡す――森ではない。
レギオンの宿の一室だ。外を見るに陽はとっくに暮れていて闇は深く降り立っている。
一体、何が……
ユリウスはコートを引っかけて、すぐに一階へと駆け下りた。
いつもなら深夜でも賑わいを見せているエントランスホールは閑散としていて、すべての席が宴の途中のように投げ出されていた。
残っている人の中に、顔見知りはいない。
右往左往していると、奥から頑丈そうな軽鎧を身に纏った女性が出てきた。
普段と恰好が違うから、すぐには気づかなかった。ダリアの姉――メリアだ。
「一体、何があったんですか?」
ユリウスは駆け寄って尋ねた。
彼女の手には、短剣が握られている。
「魔物よ。魔物の集団が、もう街の近くまできてる」
メリアの表情は強張っていて、焦りが滲み出ていた。
「あの三人は……カロンはどこですか?」
この事態だ。まだ街も出ていない。
ああは言っていたけど、さすがに防衛に参加しているだろう。
しかし、メリアは首を振った。
「わからない。非常鐘が鳴ったときに、あの人たちはいなかったから……
もしかしたら感づいて、先に防衛に行ってくれてるならいいんだけど」
ユリウスは、嫌な予感がした。
彼らが優先しようとしているのは、この街の防衛ではない。
「メリアさん。僕も連れて行ってください」
メリアは躊躇うように、言葉を渋った。
どう見ても、戦闘要員ではないユリウスを連れていくには、危険と判断したのだろう。
「お願いします。どうしてもいかなきゃいけないんです」
言葉を重ねたユリウスに、彼が引き下がる意思がないことが伝わったのか、メリアは頷いた。
「わかったわ。でも、危険だと思ったらすぐに退避すること」
ユリウスも強く頷き返して、レギオンを飛び出た。
さっきの夢は夢なんかじゃない。
ユリウスは確信していた。
――森と動物に、同調していたのだ。
ユリウスはその中にいた。とある動物と同化していた。
◇◇◇
街中が、逃げ惑う人や避難指示をする人、防衛へと向かおうとする人で、ごった返していた。
森側の防壁はここ二日、海へ行くために通った東側である。
いつもなら街を出るまで、さほど時間はかからないのに、溢れかえる人々で思うように進めない。
どうにか、門の近くまでたどり着こうとしたときには、ユリウスはメリアと逸れてしまっていた。
レギオンに所属するクランの人たちが大勢いる。
近くに海軍の拠点もあるはずなのに、まだ到着していない。
すでに門の外では、戦闘が始まっているらしい。
魔物の咆哮と、迎え撃つ人たちの剣戟の音に紛れて、あらゆる魔法の波動が体に伝わってきた。
門の向こう側で交戦している人たちが視界に入った途端、背中に激しい怖気が走った。
膨大な数の魔物たち――そのすべてに穢れが漂い、今もまだ増幅しているように見える。
穢れは、負の感情によって増幅する。
この世界の、生きとし生けるものたちの負のエネルギーを吸収して、自我を失くし、堕ちてしまった精霊の成れ果て。
動物たちだけではもうこれ以上、増幅できなくなった穢れが、新たなエネルギーを求めてやってきたのだ。
魔物を一匹浄化したと思えば、レギオンの人が数人、負傷し後退を余儀なくされる。
どちらが優勢でどちらが劣勢なのか、ユリウスには判断できない。
それほど状況は入り乱れていて、把握しようがなかった。
あの中に、飛び込めるはずがない。
――お前に何ができる――
エーレの言葉が、脳裏によぎった。
駆けだしていけば、たちまち魔物の餌食になってしまうだろう。
そんな最悪を想像した途端――頭の芯が揺らいだ。
同時に酷い吐き気がこみあげてくる。
波動酔いだ。
あらゆる力の波動が混ざり合って、生まれる波長や振動数に体がついていかずに、起こる現象。
まるで、酷い乗り物酔いのような不快感だった。
ユリウスは、ぐっとと堪えて前を見た。
浄化を使える光の魔法――その同調者は、多くない。
このままでは、街は飲み込まれてしまうかもしれない。
ユリウスは、あの三人――カロンの姿を探した。
どこかできっと、この状況を見ているはずだ。
門付近、門の外、魔物とそれを迎え撃つ人々――
どこを見ても、あまりにも軽装で目立つだろう彼らは見当たらなかった。
冷や汗が頬を伝っていく感覚が、更に怖気を湧き上がらせた。
何もできない。たった一歩すら踏み出せない。
今までだって、何度も無力感を感じてきたことはあった。
けれど、これはわけが違う。
迫りくる魔物。
人々の命の危機をここまで感じているのに、立ち向かう気力は削がれていた。
心が折れてしまいそうな自分の弱さ。視界の色が失われていくような絶望感。
――独善だったんですね……――
失望と共にエーレに向けて吐き出した、自分の言葉が頭から離れない。
何を勘違いしていたのだろう。
城しか知らない無知な自分に、一体何を期待していたのだろう。
今ここにいるのは皇太子ではなく、ただのユリウスでしかないのに……
絶望が視界をぐらり、と揺らし、酔いを悪化させていく。
防壁までたどり着いたというのに、もう足に力が入らない。
耐えられない。視界を閉ざして、ユリウスが思い座り込もうとしたときだった――
息が止まるほどの鼓動が、心臓から全身へと大きく脈うち、同時に頭が割れんばかりの耳鳴りが響いた。
――痛い、痛い、痛い。助けて。帰りたい。助けて――
感情が、イメージが、頭に駆け巡る。
目先の情けにも、生きるために必死で縋りついた人々。
お腹を空かせて待っているだろう街に残した子供のために、あの母犬は危険を冒して森へ出て行ったのだ。
飢えて体力もない状態で、森に向かうなんて無謀な真似までして。
途中に森に炎が上がり、穢れで溢れかえった。そして、母犬自身も穢れに侵食された。
その母犬が、助けを求めている。
頭の中に心の奥に、悲鳴にも似た痛哭な叫びが響いて止まらない。
ユリウスは唇を強く噛んだ。血の味が彼の意識を引き上げていく。
――独善だ。独りよがりで、自己満足だ。
それでもいい。たった一匹の犬の命かもしれない。
それでも自分がかけた情けだ。それくらいの責任すらとれなくて、どうしてあの父の支配から逃れられるのか。
ユリウスは崩れ落ちてしまいそうな足に、今出来る最大の力を入れて踏ん張った。
そのまま防壁に勢いよく胃液を吐き出すと、少しだけすっきりした。
胃液と一緒に、恐れも吐き出せたような感覚だった。
門の先へ、あの目まぐるしく恐ろしい先へ――足を踏み出す。
門を守るレギオンの女性に「危ないから下がりなさい」と、忠告されたような気もした。
ユリウスは前しか見ていなかった。
外に出てみると、先ほどよりもほんの少しだけ魔物の数が、減っているように思えた。
血の匂いが充満している。目と鼻が痛い。
――苦しい、助けて――
ユリウスは辺りを見渡した。
この中のどこかにいる。
目を閉じて神経を研ぎ澄ませる。同調してはいけない。
この中で同調しすぎてしまうと、呆気なく呑み込まれてしまうだろう。
剣戟の音、力の波動と風の音、炎の爆ぜる音。違う、これじゃない。
足音、咆哮、唸り声。荒い呼吸――
ハッと目を開いたときには、ユリウスは走り出していた。
炎が近くで、燃え上がる。風が刃のようにすぐ近くを通り過ぎる。
靴は魔物と人の血で濡れ、足元を掬われそうになる。
乱闘の中を駆け抜ける――走って走って、走った先で、ようやく見つけた。
人を襲うではなく、後ろでただただ唸り声をあげて、威嚇している魔物。
穢れに侵食され大きさこそ違うものの、すぐに襲ってこないところを見ると、自我をすべて侵食されていように見える。
その時になって、ようやくユリウスは、生命力を練り上げた。
そのまま穢れを纏う、巨大化した母犬を抱きしめる。
穢れが体を侵食していく、視界が黒く染まっていく――母犬の感情が流れ込んでくる。
人間に捨てられ、虐げられ、それでも懸命に生きようとした記憶と共に……
辛い、辛い、苦しい。飢えて飢えて、それでも子供たちだけは守りたい。
人間は嫌いだけど、あの人間は一瞬だけでも助けてくれた。
だから、だからもう一度だけ助けてほしい。子供たちだけでも助けてほしい。
流れ込んでくる感情を聞いて、ユリウスは理解した。
あの夢は、ユリウスが無意識に同調したのではない。
この世界に生きるものたちは、精霊の力を借りることが出来る。
動物も例外ではない。
この母犬の祈りが、同調という形になってユリウスに伝わってきたのだ。
水の魔法は、共感と支配の力――
浄化は出来なくても、このまま呑みこまれるわけにはいかない。
同化してしまいそうな自分を諫め、唇を強く噛むことで意識を留めた。
意を決して魔法を発動しようとした時、すぐ近くから身を震わせるような咆哮が鳴り響いた。
空気を震わせる衝撃に、ユリウスの集中が途切れる。
その咆哮に促されるように、近くにいた魔物たちがこちらへと一斉に牙を向いた。
気付いた時には、もう遅かった――
眼前に迫った鋭い牙。死を覚悟して目をぎゅっと閉じた。
しかし、ユリウスの耳に届いたのは、自らの肉を割く音でも、悲鳴でもない――氷の砕けるような音だった。




