虹瞳に見た理屈なき痛み
ミレイユの言葉通り、遊戯室から一枚扉を隔てた部屋には沢山の本棚があった。
子供が地べたに座っても、足を痛めないようにラグが敷かれていて、その上で数人が熱心に本を読んでいる。少し大きな児童は机で勉強をしたりもしていた。
彼が部屋に入っても、誰一人としてこちらを振り返らない。
それほど集中している児童の邪魔をするのは憚られ、声をかけるのを躊躇ってしまったルシウスは、その中でも声をかけてもよさそうな子を探すために、部屋全体へ首を回した。
左から右へ。熱心に本を見つめる児童を数人目に留め、最後に右奥が視界へ映った。
その時――
ふわり、と風が頬を撫でた。
蒸し暑いはずの風が、甘く軽やかに花のような香りを運んできた。
誘われるようにしてそちらを見た瞬間。
ルシウスは目を見開く。吸い込んだ息が、肺に溜まって沈んでいった。
本を手に取ることも、誰かと話すこともせず、ただ窓から外を眺めている幼い少女の姿。それはあまりにも奇特だった。
真っ白な長い髪が、風に揺れている。
夏だというのに、腕も脚も隠した服の先からは、陶器のように真っ白な肌が見えていた。
少女が視線に気づいたようにこちらを見る。陽を受けたその瞳は、空に浮かぶ虹のように、あらゆる色彩を纏っていた。
目が合う瞬間――ルシウスはマントのフードで顔を隠して、さっと背を向けた。姿を隠すためだった。
咄嗟には思い出せなかった。でも知っている。僕はあの少女を見たことがある。
でも、どこで……
記憶の中を必死で探した。少しずつ記憶を遡っていくにつれ、少女の輪郭がどんどんはっきりしていく。あの子は――
「どうした? 何かあったのか?」
フードを両手で引いて伏せた視界に、黒の靴が映った。顔をあげると、丁度扉のところからリーベが心配そうな表情でこちらを見ていた。
――思い出した。彼女は、あの地下牢にいた兄妹の一人だ。
彼らが僕を罵倒している時、彼女だけは牢の隅でただじっとこちらを見ていただけだった。
その上、生まれ持ったあの奇抜すぎる容姿が、ヤケに目について覚えていたのだ。
「リーベ、僕……」
とっくに乗り越えたと思っていた過去の記憶と感情が、今まさに起きているように蘇ってくる。
前の仲間を認識して、今の立ち位置を頭でわかっているはずなのに、もうそれは理屈ではなかった。
リーベは状況から、ルシウスの動揺の原因が後ろにいる少女だとすぐに気づいたらしい。
後方に視線をやると、彼の手の中から本をそっと持ち上げて、そちらへと歩み寄っていく。
ルシウスはそれを目で追いながらも、振り向けずにいた。
体の底からやってくる震えと、わけのわからない恐れに、頭がくらくらして、耳の奥まで痛かった。
痛みの奥、膜一枚隔てた先からは、リーベがそっと床に膝をついたような衣擦れ音。
「私はリーベと言うんだ。よければ、お名前を教えてもらえないか?」
次いで彼にしては、随分砕けた優しい口調が聞こえた。
「十三番。エレニ、ヌール。他にも何個かあったよ。でもどれがわたしの名前かわかんない」
「そうか。歳はいくつになるんだ? これはもう読めるだろうか?」
「うん、読めるよ。でもいくつかもわかんない。先生は七つくらいだって」
そうか、とだけ応えたリーベの視線を、ルシウスは背に受けたことを知った。
振り向きたいと思うのに、体が固まって動けない。
どうして彼女がここにいるかなんてことよりも、ただただ目の前の彼女を見るのが怖かった。
「またあとでお話をしにきてもいいだろうか?」
「うん、このご本読んで待ってる」
背で交わされたその会話を最後に、リーベが隣に並ぶまでルシウスは呼吸がうまくできなかった。
とんっと小さく肩を叩かれて、ようやく彼は詰まった息を吐きだす。
「あちらで話そう。必要ならミレイユを呼んでくる」
◇◇◇
部屋の隅にいた少女の名前を、ここではヘレナと呼んでいた。
彼女はほんの二か月ほど前に、孤児院にやってきたらしい。
応接室に戻ってきたルシウスは、出された冷たいお茶を飲み、少し落ち着きを取り戻ししていた。
その時になって、ようやく一つ思い出せたことがある。
地下牢で冷たく告げられた皇帝の言葉。
「光の本質を持つ者は聖国に売り渡せって……父上はそう言ってました」
シスターは退室してもらい、部屋にはミレイユとリーベしかいなかった。
「ああ、なるほどね。だから帝国領にいたのね」
その口ぶりからミレイユが、自分が思っている以上にあらゆることを知っていると事実を知ったルシウスではあったが、今はそれどころではなかった。
彼女は、沈黙したルシウスに知っている情報を話しだした。
ヘレナを保護したのは、帝国首都から聖国へ繋がる、一番大きな街道を随分と南下したところの小さな村だったらしい。
そこで彼女は、神の子として崇めたてられていたそうだ。
その村は流行り病で冒されていた最中だったらしく、たまたま満身創痍で迷い込んできた彼女を最初こそ警戒したものの、光の魔法で病を治す姿を見て、神が授けてくれた贈り物だと認識したらしい。
どうやってヘレナが、帝国から聖国への輸送中に逃げ出したのかは今もわかっていない。
ヘレナ自身が話したがらなかったそうだ。
レヒト教会の神徒たちは、定期的に各地を巡礼している。雨に降られて立ち寄った先が、その村だった。
そしてその神徒が聖律派であったこと、更に、密護衛の時に行動を共にしたイレーネと付き合いがあるものだったことが幸いした。
村人を説得するのには、随分な時間と根気を要したらしい。
しかし、この村にいると彼女自身の能力の有用性を見い出した何者かによって、連れ去られる危険性が高い。
それがレヒト教会の新啓派だとは限らない。小さな村では彼女を守り切れないだろうし、彼女自身もあまりに幼く、自分の身を守ることは出来ない。
最終的に、定期的にこの村に神徒が立ち寄るという約束の下、ヘレナの保護に成功した。
と、ミレイユは説明した。
「まさかあんたの妹だなんて思ってもみなかったけど。ここにいる限りは余程のことがない限り安全よ」
「そう……ですね」
ルシウスはコップを両手に持ったまま、揺れる液体をただただ見ていた。
感情はやはりついていかなくて、飲み込み切れないような言葉だけが口からこぼれる。
「あんたねぇ、シャキッとしなさいよ! ちょっと昔のこと思い出したのがなんなのよ」
ミレイユの厳しい発言を受けても、ルシウスは頷くこともできない。
自分でも、どうしてこんな感情に陥っているのかわからなかった。
今、目の前に迫った危険があるわけでも、昔のように本当に目の前で罵倒されているわけでもない。なのに、足元が大きく揺らいで真っすぐ立てないような、そんな感覚。
見かねたらしいリーベが隣へやってきて、肩に手を触れた――その手から流れてきた何かが、浮き上がった心を、ほんの少し沈めていく感じがした。
「乱れている生命力を安定させておいた。だが、自分で解決しないことには、すぐにまた同じようになる」
土の魔法かもしれない。気持ちはそれどころではないのに、どうしてそんな思考だけがルシウスの頭にぽつりと浮かぶ。
隣でリーベが続けた。
「貴方を傷つけるものはここにはいない。冷静に考えてみるといい」




