エーレさんの決定は絶対
翌日も、同じ時刻に迎えにきたリーベと共に、海岸沿いに向かった。
勿論、昨日に引き続き、魔法の制御を教えてもらうためだ。
その前にユリウスの希望で、路地裏を少し覗いてみた二人だったが、例の野良犬の姿を見つけることは出来なかった。
昨日と同じ道を辿り、海へ着くと早速、本格的に水の魔法の練習を始めることにした。
たった一日で習得できるとは思っていないユリウスではあったが、やはり満足のいく段階まで、水の魔法を制御することは叶わなかった。
そもそも水の魔法というものは、対象物に干渉し、同調してこそ力を発揮する。
戦闘向きではない――どちらかと言えば、サポート向きの力だ。
ユリウスはリーベの指導の下、手始めとして近くにいたカモメを対象とした。
水の魔法――共感と支配。
基礎的な使い方は、相手の思考や感情を読み取り、または共有する能力。
最初は自力で行使してみたものの、瞑想とは少し勝手が違うせいか、やはりいつもの癖で同調しすぎてしまう。
昨日と同じくリーベが、氷の魔法による断絶で線引きをしてくれ、それを繰り返し、自力で成功することが出来た。
カモメは穢れを纏った魔物ではないし、あらゆる思考や感情が交差する人間でもない。
けれど、対象物がいないのだから、どうしようもなかった。
近くにいる人間はリーベしかいない。
遠慮げに彼への水魔法の行使を提案したユリウスに、リーベは返答を渋らせた。
やはり、心のうちを覗かれるのは、本人としてもいい気はしないだろう。
是とも非とも言わず、しばらくの逡巡の末――
「まぁ一度は経験しておいた方がいいか」
という、含みのある言葉の後で、リーベはそれを許可した。
ユリウスは彼が渋った理由を、中断せざるを得なくなった段になって理解することになる。
失敗したわけではない。
失敗にすら、到達できなかったが正しい。
リーベへと水の魔法を行使する以前の段階。同調をした途端、一瞬の出来事だった――
頭の中に大量の情報が、刹那的に流れ込んできたユリウスは悲鳴をあげる羽目になった。
同時に、強く弾かれるような衝撃に、その場に蹲ってしまった。
リーベはこれを知っていたのだろう――だから、渋ったのだ。
想像以上に、ユリウスへのダメージが大きく映ったのか、慌てて駆け寄り謝罪をしてきたリーベ。
彼はこう言った。
「自分より、圧倒的に”上位の存在”に、水の力を使うべきではない。
呑まれる以前に、相手の存在そのものによって、自我へと損傷を受ける場合がある」
ユリウスはしばらくして落ち着きと冷静さを取り戻したが、隣で申し訳なさそうにするリーベを見て、思わず文句が、口から飛び出してしまった。
「昨日も今日もそうですけど、たしかに経験することは、大切だと思います。
でも、その前に説明してください」
リーベの教え方は、少し力技がすぎる。
説明してわからないなら、身をもって体験させるしかない。そういう教え方をする。
昨日だってそうだ。
思ってもみなかった衝撃で、未だに恐怖が胸の片隅から離れなかった。
リーベに水の魔法を行使しようとした瞬間、膨大な量の情報が頭の中に一瞬で流れ込んできた。
それは情報として頭で処理できる量ではなく、ただの苦痛でしかなかった。
例えるなら、百冊の本の情報を一瞬のうちに、頭に詰め込まれるような感覚。
あまりにも瞬間的で、量も多すぎて読み取れたのかも定かではないし、ほとんど記憶すらできなかった。
その上、苦痛の後に、何か強大な力による反発。
苦痛も辛かったが、何よりも初めての感覚にショックの方が大きかった。
ユリウスの意気消沈ぶりを見たリーベが、早めの休憩と昼食を摂ろうと提案したとき、そこへ意外な来訪客が現れた――エーレとシュトルツである。
シュトルツの手には、ウィッカーバスケットが握られてあった。
黒いロングコートを着た長身の男が、それを持つ姿はユリウスには異様に映った。
少し遅れて付いてきているエーレは穢れのような真っ黒いオーラを纏っているようかのようだった。
それにユリウスは、顔を引きつるのを抑えられないでいた。
顔を合わせていない一日半の間に、一体何があって、あんなに不機嫌そうなんだ。
双方が何か口にする前に、シュトルツがどこからか取り出した大きな敷物を地面に敷くと、バスケットの中身を広げて、食事の準備を始めた。
エーレはそれには目もくれずに、海の方へと進んでいく。
まるで、ユリウスとリーベが見えていないように、その隣を通り過ぎて行った。
ユリウスはそんな彼から、出来るだけ距離をとるためにシュトルツの方へと駆け寄る。
「なんかあったんですか?」
彼に勧められるまま、靴を脱いで、敷物の上で座る。
隣には、リーベもやってきた。
「色々あったらしくて、明日時間を繰り上げて早朝に出発するんだってさ」
他人事のように、サンドイッチをかぶり付き、咀嚼しがならシュトルツは答えた。
「また"ズレ"でも生じたのか?」
「どうだろう。もしそうなら、足止めを食らう羽目になるから、先手を打っておきたいんじゃない?」
短く交わされた会話。
何のことなのか、さっぱりわからない――ユリウスは、シュトルツに渡されたサンドイッチを受け取った。
「足止めって、何かあるんですか?」
「近々、群れの嵐がくる」
ユリウスの問いに答えたのは、後方からの声だった。
そこにはエーレしかいない。彼は相変わらず、海の方を見ていた。
「群れの嵐?」
「魔物が増えすぎて、街や村に押し寄せてくることだよ」
相変わらず勢いよく食べながら説明してくれたシュトルツの手元を見ていたユリウス。
そんな大変なことが……と言おうとしたとき――何かの力の波動を感じた。
水の魔法ではない。もっと深くて、体の奥底が震えあがるような……そんな果てしない、力の片鱗だ。
ユリウスは、その何かが伝わってきている後方を見た。しかし、何一つ変化は見当たらない。
光り輝く海があって、風が穏やかに流れ、鳥たちは楽しそうに戯れている。
悪いものではない気はする。けれど、あまりにも慣れない強大な波動にユリウスは瞠目した。
その間に、エーレは険しい表情のままこちらへとやってきた。
「こちら側は問題ない。
森側も今すぐ何かが起こるほどではないが、予想より穢れの拡大速度が速い。数日は持つだろうが」
そう言って土足のまま勢いよく座り込み、シュトルツの用意した水を喉に流し込んだ。
「今のは……」
もう力の波動は感じない。
なのに、体の奥底に残った余韻が消えない。
「初めてだからびっくりしちゃったか。エーレさんの闇の力だよ。
穢れの有無をある程度の範囲までは、把握できるんだ」
お腹が満たされたらしいシュトルツは、バスケットを前に押して、エーレとユリウスに勧めた。
闇の力とは、何をどこまでできるのだろうか。
いや、今はそんなことを気にしている場合ではない。
ダリアも近隣の村で、魔物の報告があったと言っていた。
「じゃなくて……そんな大事が起きるなら、街を出るどころじゃないんじゃないですか?」
「大事が起きるから出るんだよ」
サンドイッチを不味そうに食べながら、エーレが吐き捨てるように言った。
「俺たちがいなくても、この街のやつらがどうにかする。この街にはダリアもいる」
サンドイッチを半分食べたところで、彼は顔を顰め、それをシュトルツに差し出す。
「お行儀が悪いでちゅよ~、エーレさん」
「黙れ」
茶化すシュトルツに、エーレは有無を言わせず、食べかけのサンドイッチを彼の口へ詰め込んだ。
「でもダリアさん、近くの村に行ってるんじゃ……」
昨晩そんな話をしていたのを、彼らも聞いていたはずだ。
「そういや、ダリア嬢いなかったね」
シュトルツの口調は相変わらず軽く、大したことではないという風だった。
エーレは、そんな会話が聞こえていなかったように続ける。
「明日、ヘカテ第一刻五十五の時(5時55分)に、出航の貨物船に乗り合う。
十五分前には集合しておけ」
業務連絡でもするかのように淡々と告げた声。ユリウスは首を縦には振ることが出来なかった。
「納得できません。貴方たちが防衛に参加すれば、被害は最小限に抑えられるんじゃないんですか?」
「決定事項だ」
ぴしゃりと突っぱねて、聞く耳を持たないエーレに、ユリウスは「でも」と食い下がる。
「くどい。俺たちの最優先事項は、まずこの国を出ることだ。
それに俺は、この街がどうなろうと知ったことじゃない」
「そんな言い方――」
あまりにも薄情な物言いに、ユリウスは一瞬、言葉を失った。
同時に路地裏での二人がしていた行為が想起される。
彼らは……どうして。巡った思考とは裏腹に、口から飛び出したのは違った言葉だった。
「やっぱりリーベの言うように、独善だったんですね……
目の前の人は助けておいて、街が危険に晒されるのを知っているのに、何もしないんですから」
その言葉が一体、何を指して言われたことなのか――エーレはすぐに察したらしい。
しかし、顔色一つ変えることなく「だったらどうした」とだけ低く返してきた。
彼らのことを、少し知ったような気になっていた自分にも腹が立った。
意外な一面を垣間見て、期待と希望を持ちかけていた。
けれど、結局は彼らの印象は、最初と何も変わらない。
ユリウスは突如として胸に湧き上がった失望に、いてもたってもいられなくなった。
――この人たちの言う通りになんてしてられない!
気付けば、勢いよく立ち上がっていた。
「もういいです。貴方たちが動かないなら、僕が行きます」
「お前に何ができる」
エーレの刺すような言葉も、気にならなかった。
「群れの嵐が迫ってきているって、訴えることくらいできます!」
ユリウスは声を張り上げながら、靴を履く時間も惜しくて、駆け出そうとした。
しかし――それは叶わず、ぐいっと後ろから、強く襟首を掴まれた。
そこには、いつの間にか立ち上がっていたシュトルツがいた。
「エーレさんの決定は絶対。たとえそれが君でも、邪魔することは許さないよ」
先ほどの飄々とした口調とは一変、静まり返った水面のように静かな声色。
途端、何かの波動を感じ取った時には、すでに意識が遠のき始めていた。
それは抗うことすら許されないほどの無慈悲な力だった――
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