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調和の王〜影から継がれたもの〜  作者: 俐月
3章

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188/233

過去番外編「白紙の祈りの果てに」

3度目の回帰から4度目に移行した日の話。エーレ視点です。

 




「ルシウスッッッ!!!」





 自分の叫び声が、鼓膜の奥の更に奥――頭の中で反響して鳴りやまない。


 耳鳴りが酷くて辺りの音が聞こえない。視界が揺らぐ。


 それが、生命力が尽きかけているせいでも、体中が裂傷だらけのせいでもないことをエーレは知っていた。



 陽を完全に遮っている曇天の下、視界が曇っていく。


 どうして――思考はそれだけに張り付き、自分の両腕を強く掴んでいた仲間の手を強く振り払った。



「ルシウス……」



 前へと進む体が重い。


 そのまま彼は重力に引きずられるように、動かなくなった仲間の前へ両膝を落とした。



 右手が自然と幼い少年の頬へと伸びる。

 それが血で真っ赤に染まっていることに気が付いたエーレは指先が掠める前に引き、強く瞑目した。


 あらゆる雑音が頭の中で渦巻いている。悲鳴が、ルシウスの叫びが。暴走した風の音が、自分の声が。



 ――何を間違った……?



 誰に問うべきかわからない問いが、ぽつんと浮かんだ。


 空白の中で響いたのは、今一番彼が求めていないところからの応え――空高くで風が呻くような金切り音だった。



 俺が風の精霊を信用したせいだ。もっと慎重になっていれば、そうすればこんなことには――


 空を仰いだエーレは湧き上がってくる怒りに身を震わせながら、それでも口から旋律を奏でていた。



 ――ルシウス(こいつ)の一番好きだった場所につれていけ。お前なら……知ってるだろ……――



 風の精霊は言葉を返してくることはなかった。

 代わりにどこからともなくエーレと息絶えたルシウス、二人の体を風が包んでいく。


 後方でシュトルツとリーベがエーレを呼ぶ声がした。


 しかしエーレは振り返ることもなく、ルシウスを抱えると風の導きに従った。










 朱く焼けた陽が海へと溶けていく。



 その景色を見たエーレは湧き上がってきた様々な感情に呑みこまれそうになりなった。


 視界を埋めるそれが大きく歪み、掠れる。

 底をつきかけていた生命力のことなど忘れて(うた)ったのだ。


 目眩や吐き気、立っていられないほどの倦怠感がエーレの思考をさらに奪っていく。



 それでも彼は目を精一杯開き、その景色が一番綺麗に見える場所を探した。



 腕の中の少年はもう二度と目を覚まさない。


 近くにいた誰かが死ぬのは初めてではない。なのに――



 深く掘った穴の前でルシウスを横たえたエーレはその場に腰を下ろし、しばらくそうしていた。


 あらゆる記憶が走馬灯のように想起される。



 俺たちが不甲斐ないせいで、ルシウスが魔法を暴走させた。


 風の精霊がルシウスを贔屓にしていることなんてわかり切っていたのに、危険性を感じながらも俺はそれを止めなかった。


 ルシウスを信用していた。あいつを隣で見守りながら、大丈夫だと思った。それを後悔はしていない。

 それでも、それでも――もっと他に方法はあったはずだった。



 どこから間違っていた? 風の精霊がルシウスに接触してきた時から? 

 違う。二度目から風はルシウスを贔屓していたけど、こうはならなかった。


 ルシウスの感情に風の精霊が同調した結果だ。つまり――




 一つの答えにたどり着いたエーレは、幾度か力なく乾いた笑いをこぼした。



「ルシウス……俺が、お前に背負わせすぎた。悪い。これは……」



 俺の弱さだ。


 ひとりで抱えきれず、全てをルシウスに明かして荷を分けた自分の弱さが招いた結果だ。



 エーレは目の前にいるルシウスを見て、耐えきれず瞼を手のひらで強く抑えた。


 深い悲しみ、喪失感を押し上げて、全身を焼くような自責の念とその罪悪感が止めどなく湧き上がってくる。


 もう前の少年は、大切な仲間は、二度と自分の名前を呼ぶことはない。

 もう二度とあの幼い笑顔を向けてくることも、怒って正面からぶつかってくることもない。


 それを知った時にエーレは再び小さな笑いをあげた。



 今更気が付いたのだ。これほどルシウスの存在が自分にとって大切になっていたことを。


 どうして今更。今になって。もっと早くに知っていれば、もっと……もっと言えることも、出来ることもあったはずだったのに。



「……本当はわかっていた。わかっていたんだ。なのに俺はひたすら見ないふりをしてた。

 お前に偉そうにしておきながら……俺はもう、大切なものを抱えたくなかった」



 エーレは視界を開いて、ルシウスを見つめた。


 利害の一致であると。ただそれだけだと――


 二度目の時点でもう気づいていた。

 そうではないということを。この少年は大切な仲間になっているということを。


 失いたくない、守り通したいと思う存在に。



「笑ってくれ。お前に守られて、お前がいなくなって初めて自分の弱さに向き合った俺を……」


 散々ルシウスに向き合えと言っておきながら、避けてきた自分を。



 ――頼むから笑ってくれ。

 それは言葉にならず、掠れた息として潮風に攫われていった。








 いつしか陽は完全に落ちていた。


 エーレはルシウスの頬へと手を当て、そっと頭を撫でたのを最後に、彼を埋めることにした。



 それからはただひたすらその前に座って、エーレは時間を過ごした。


 何も考えられなかった。考えたくなかった。


 どうするべきなのか、自分がどうしたいのかもわからなかった。



 そうしているうちに闇は深く深くなっていき、気が付いた時には海の向こう側から陽が顔を出し始めた。

 それはエーレにとって最大の皮肉にしか見えなかった。


 どれほど感情を闇の奥底に落としても、こうして陽は昇る。


 何も始まらなければいいと――時間が止まって動かなければいいと、どんなに強く思っても、あらゆることが勝手に進んでいく。


 ルシウスを失った世界は、そんなこと大したことではないと言わんばかりに、今も平常に動き続ける。



 明るく目を焼く陽からエーレが顔を逸らした時――

 背後からよく知る生命力の渦を感知した。


 しかし彼は気づきたくなくて、知らないふりを貫き通すが、



「エーレ」



 不安で揺らいだ遠慮げな仲間の声が背からはっきりと聞こえた。


 それはエーレの意識を無理やり現実に引き戻した。

 歩み寄ってくる気配。伸ばされようとしている手をエーレは反射的に振り払い、咄嗟に立ちあがった。



「エーレ……」



 振り返った先には、困惑を露わにしたシュトルツ。

 半歩後ろで眉を寄せながらも何かを言う様子はないリーベ。


 そんな仲間を見た途端、胸の奥で沈んでいた怒りが急激に湧き上がってくるのを止められなかった、

 いや、止めようとは思わなかった。その怒りはそのまま喉を裂くように突き出してきた。



「どうして――どうして、あの時俺を止めた!?」



 波の音だけが微かに聞こえる丘陵に、自分の声がヤケに大きく木霊した。


 その余韻がエーレに思い出したくない数時間前を想起させる。



 満身創痍だった彼ら。ルシウスが風の精霊に同調して生命力を暴走させた。

 それをエーレは止めに行こうとした。しかし、前の二人がそれを許さなかった。


 理由なんてわかっていた。わかっていたからこそ、尚更わからなかった。


 口を噤んだシュトルツとリーベを見て、エーレは畳みかけるように言う。



「俺が……俺たちが死ぬことなんて今更だろうが!

 俺たちには環命(かんめい)がある。だけどな……あいつは――ルシウスは死んだらお終いなんだよ!」



 シュトルツの瞳が後悔の色を宿していく。その間エーレはずっと彼を睨んでいた。


 耐えきれずというように目の前の瞳がそっと逸らされ、地に落ちた。

 同時に大きく揺らいだのをエーレは知って、その先――ルシウスを埋めたところへと振り返る。


 背中で「ごめん」と力ない呟きが聞こえた気がした。



 潮風が前から後方へと吹き抜けていく間の沈黙。それさえも胸が痛かった。



 ルシウスが一番好きだった場所。

 それが、自分たちと出会って初めて訪れた、この湾港都市の海辺であるから尚更だった。


 この景色を見て、彼は何を思っていたのだろうか。

 それを聞くことすらもうできない。



 足元の少しだけ盛り上がった土を見たエーレは呟くように言った。



「俺はあいつの墓を立ててやることもできない」



 名を持たない自分が、追われている彼の墓を立ててやることは出来ない。


 当たり前のことすら当たり前にやってやれない。

 そんな俺たちが、本当に目的を達することが――


 朝陽で照らされているはずの視界が翳っていく。

 エーレはそれに気づきながらも、沈み込んでいく思考を止められなかった。



 存在意義であるはずの目的すら輪郭をなくしていく。

 思考の渦に溺れていき、そのまま大切なものすら見失うことを許してしまいそうになった、その時だった。


 鼻腔を掠めたのは気づかないほどの僅かな香り。

 それはよく知っているものだった。


 ――水の香り。


 明るい水面に跳ねる雫が、陽と柑橘のような花の香りを内包し、空気の中で踊っているような、そんな水の生命力の匂い。



 次いで耳に届いた雨が跳ねような音に驚いたエーレは、目を見開いて顔を上げた。

 そこには――


 吸い込んだ息が肺で溜まって、内から鳥肌が全身へと駆け巡る。



 橙の陽が海一面を照らしている。それだけじゃない。


 激しく輝く水面から多くの雫が湧き立ち、それは宙へと舞って海へ沈むと、再び跳ねていく。

 陽を受けた雫たちが、あまりにも眩く視界を照らしていた。


 予想だにしなかった景色に呆然とした瞬間、駆け抜けていったのは、生命力の残滓の気配。


 声のない声が耳の奥で響いた気がした。



 エーレは眉を寄せて、歯を食いしばる。

 鼓膜の奥から全身に感じた――言葉にはできない何かが、彼に‘’次‘’を呟かせていた。



「悠久神クロノスに告ぐ……」



 背後から制止を呼びかける仲間の声が、一枚の幕を隔てたように遠くから聞こえた。

 それでもエーレは止まらなかった。


 何故それを言おうとしているのか、自分でもわからなかった。


 もうここにはいられない。いたくない。

 そんな気持ちが先行しながらも、最後の最後まで美しく輝く海を目に焼き付けるように見つめる。



「シオン・ルクリツィア・アルバ・ディ・エーベルシュタインは、その権能の行使をすることを――

 ここに‘’宣言‘’する」










 ルシウスに謝りたい。


 目が覚めてすぐにエーレは思った。



 隣にはまだ何も知らない従者がいた。

 三度そうしたように、今回も飽きるほどしてきた説明をヴィンセントに告げる。


 その場に彼を留め置き、ゼファが迎えに来る前にエーレは部屋から出た。



 やせ細った体では一歩を進むのすら辛かった。

 頭の中でぶつかり合う対極の思考が、更にそれを悪化させていく。


 土の中に埋めた彼と、この世界にいるだろうユリウスは別人だと知っていても、それでも謝りたいと思った。


 同時に――



「もう俺が謝罪と感謝を言いたいあいつは、どこにもいない」



 どうして自分はまたこの場に戻ってきたのだろうか。


 ユリウスを最初から巻き込まないのが正解なのではないだろうか・

 しかしそうすれば彼自身は皇帝の器として死んでしまう。なら――逃がすだけ逃がしてあとは自分たちで……


 そこまで考えたエーレは酷い頭痛と胸の痛みを感じて、四方八方真っ白な廊下の途中で足を止めた。


 その段になって、権能の行使により、自我同一性の一部が失われたという事実を思い出す。

 その認識が更に彼の視界を暗くした。



 何をどこまで忘れたのか思い出せない。忘れたことすら忘れている。


 回帰ごとに、覚えている全てをノートに書きなぐって記憶を繋いできた。

 ただの悪あがきであるそれの必要性も、もう感じない。



 どれだけ文字として記憶や感情を繋いでも、自分はいつかすぐ隣にいたルシウスの声も言葉も笑顔も――全てを忘れてしまう。


 笑いにもならない途切れた息が数度、口からこぼれ出た。



「もう……」



 漏れ出した言葉。それを遮るようにカツンっと床を叩く靴の音が頭に響いた。


 そこには忌々しいほどによく知る緑の衣装。特徴的な尖った耳。普段なら本能がすぐに警戒を示す相手。

 けれど今はそんなことすらどうでもよくて、エーレはただただぼんやりと目の前のゼファを視界に映した。



 彼女は何かを言うことはなく、廊下の先を目で示す。

 あの先は大聖堂。リクサのもとへ行けとのことなのだろう。


 顔も見たくない神の化身。それでもエーレの足は何故かそちらへ向かった。



 大聖堂についた時には息は切れていた。

 立っているのも辛い。どうにかその場に足をとどめたエーレは、植物の蔦で覆われた玉座に座るリクサを見上げる。



 顔を隠しているヴェールの奥の瞳が、真っすぐこちらを捉えているのを感じた。

 しかしその口が何かを声を発することはない。


 エーレも何も言わなかった。


 目の前の彼女はおそらく全てを知っているだろう。

 どうしてエーレがここに来たのかも、エーレ以上に知っているのかもしれない。


 そんな確信めいたものがあった彼は、ただただ前の神の化身が口を開くのを待っていた。



 照明ではない輝きが、天井から淡く舞い降りるだけの白い空間。

 耳が痛くなるような静寂の中、唯一人間らしさを残した声色が溶け入るように響いた。



「ここで、終わりにしますか?」



 予想していなかった問いに、沈黙したエーレへリクサは静かに続ける。



「全てを諦め、自らが信念を()たす。その選択(それ)もまた悪くありません。

 そうすれば貴方に帰依し付き従う従者も、愛するひとに救われたその婚約者も同じ道を選ぶでしょう」



 淡々と告げられた言葉は、エーレの頭の芯を痺れさせた。


 甘美でありながら残酷な提示。その言葉を頭の中で反芻させたエーレは自らを疑う。



 俺はこの女に何を求めてここまで来た……?


 今並べられたものの全てをエーレは予想していなかった。では自分は一体、何を期待して彼女を訪ねたのか。


 葛藤と混乱に視線を落としたエーレの前で、



「私は貴方の選択を止めません」



 と、リクサが重ねるように言った。


 自らへ問いかけた疑問の答えを探すように、一度は落とした視線を上げた時、小さな体が佇まいを正すように揺れた。



「貴方の自由です。選びなさい」



 投げ出された自由という名の選択。

 その言葉は鼓膜から脳の中心へとやたらと反響し、張り付く。


 ――自由?

 口の中で呟いた単語に、彼は呆れともつかぬ息を吐きだし、鼻で笑った。



「よく言う……お前が俺たちに選択の自由なんて、与えたことがなかったくせに」



 リクサはすぐに反駁した。



「それは誤解です。私は常に‘’提案‘’をしてきたではありませんか」



 提案? その単語にエーレは再び嘲笑を飛ばした。

 稀に示される提案という名の選択余地のない命令。そのおかげでここまで来れたのは事実だった。



 そうか。俺はこの女に再びその提案をしてほしかったのか。


 諦めるなと、しがみつけと。それが利害の一致であり、お互いのすべきことなのだと。

 それなのにこんな時に限ってこの女は、本当の選択の自由を自分に与えた。



 エーレの思考はそこで止まった。

 目に見えるものの全てが色をなくしていく中で、ただただ淡々とした声色だけが再び響いた。



「諦め絶望するのは容易い。今までのルシウスに託された想いを抱えたまま、世界の底に沈むのもまたいいでしょう」



 大聖堂に溶け込んでいく声がエーレの思考を攫って行く。



「もう――」



 誰も犠牲にしたくない。犠牲になりたくない。

 疲れた……疲れたんだ、全てに。もう――



 終わりにしたい。



「悠久神クロノスに告ぐ」



 ぼんやりと霞む視界。自らの口から呟かれる言葉は誰か違う人間が発しているように遠くて、現実感がなかった。



「シオン・ルクリツィア・アルバ・ディ・エーベルシュタインは……」



 淡々と口から告げられる定型文。あと一節を言い終えるだけで全てが終わる。



「その権能の放棄を――」



 そこで言葉が途切れた。喉が詰まる。宣言を言葉にするだけで、全てを終わらせられる。


 なのに、声が喉に引っかかって出てこない。

 ……どうしても最後まで言えない。


 絞り出そうとした声は掠れた音を漏らしただけだった。



 エーレはそんな自分が信じられず、また理解も出来ず、小さく口を開いたまま、激しく眉を寄せた。



 ――痛い。

 何か痛いのかなんてわからない。


 ――苦しい。

 進むことはおろか後ろに引くことも、全てを投げ出すことすら出来ない今の自分を知って、途端息が苦しくなった。



「貴方は」 前から落ちてきた声に、霞んだ視界を少しでも晴らせようと目を開く。


「何故ルシウスが息絶えた時点で、権能の放棄をせず、行使を選んだのでしょうか?」



 僅かに思考を回復させたエーレの視界に、事切れたルシウスの姿が揺れ掠めた。


 しかしそれは一瞬で――エーレは喉元に引っかかる息を吸い込む。


 残酷なほどに冷たい仲間の死体は、陽に照らされたあの輝かしい海に塗りつぶされていた。

 それは今まさに、目の前に見えているほどに美しい錯覚だった。



 命を終えてなお残ったルシウスの生命力の残滓が見せた、あの奇跡。

 海馬に刻まれた彼の生命力の香りが鼻腔に漂ったのを知ったエーレは息を呑んだ。



「よくよく考えてみなさい。貴方はその幼い身で何を選び、掴み取りたいのかを」



 想起された海の景色が薄れゆく中で、淡々と並べられるリクサの声がエーレの意識を徐々に引き上げていく。


 悲願を遂げたい。でもルシウスを苦しめたくない。もう二度とあんな思いをしたくない。



「私は貴方に教えてきたはずです。

 利害を共にするものは、堕とし合うこともできれば救い合うことも出来るということを」



 ぐるぐると出口を見つけられない思考を先読みするように響いた言葉。

 しかしそれを受け入れることは出来ず、エーレは気が付けばリクサを睨んでいた。



「――お前に何がわかる。そこに座って人を駒のように扱うお前に何が……!」



 俺だって望んでこんな結末を招いたわけではない。


 全てを見透かしたような神の化身が言ったように、救い合うことを望んでいた。

 なのに、思い通りになることなんて何一つない。


 それでも進むしかない。自分の心はそれを望んでいるとはっきりとわかる。


 けれど、そうだとしても、もう二度と……



 言語化できないあらゆる感情を持て余したままエーレは更にリクサを激しく睨んだ。

 目の前の神の化身には、人間だった自分のこの気持ちは到底理解できるわけがない。


 ただただ淡々と当たり前のように、達観したような事実を並べるだけの人間ではない存在に、自分の何がわかるというのか。


 それが悔しくて、苦しくて、噛み締めた歯が嫌な音を立てる。



 僅かな沈黙が呼び寄せた痛いほどの静寂――

 その中で彼女の肩が脱力するように落ちた。


 ヴェールの奥の口がおもむろに開かれ、躊躇うように閉じられるのがはっきりと見えた。


 エーレは音にされなかった言葉の真意は読み取れないまま、一度瞑目して自分の感情を鎮め、それ以上はもう何も言わなかった。


 踵を返す。‘’次‘’に向かうべくそうする他はなかった。







 ◇◇◇






 暑くなってきた日差しが、レギオン本部四階の部屋に差し込む。



 今しがた目を覚ましたエーレは寝起きには強すぎる光をあえて視界に留めながら、小さな嘆息を吐き出した。

 抱えたまま眠ってしまったらしいノートを手に取って、何も書かれていない表紙をそっと撫でる。


 一度は書くことをやめた日記。どうにか覚えている事実と感情を書き記した自分の分身。



「夢なんて久しぶりに見たな」



 このタイミングであの頃を夢に見るなんて、嫌がらせのようにしか思えない。


 仲間に当たり散らすように怒鳴った自分に、あの頃の自分が想起されたのかもしれないな、とエーレは冷静に分析した。



 同時に数時間前にルシウスが自分に向けてきた



 ――僕はここにいるじゃないですか!――



 そんな表情と強い言葉を思い出して、エーレは苦笑した。


 前のルシウスと今回のルシウスは似ているけれど、やはり違う。

 それでもまた彼は自分にとって失いたくない大切な仲間になった。



 前回のあの一件で慎重になりすぎていることは自覚していた。

 全て彼の選択に任せようと思った。しかしそうも出来ない自分もいた。


 王国に渡る船の中、思わず彼を煽ってしまった自分。

 彼の成長を望みながらも、事細かく教えることは前回を想起させてうまく伝えられない自分。


 全てが全て、彼が隣にいてほしいと自分自身が望んでいるということ。


 そんな自分の感情を再確認したエーレは、腹の底から深くため息を吐きだした。



「ルシウスのことを子供扱いできないくらいには、俺も……」



 何年生きてきたからと言って、こんな葛藤を抱いているのか。


 あまりの自分の幼さにエーレは諦念にも似た笑いを一度飛ばす。

 そして再び手の中のノートに視線を落とした。



 回帰を繰り返せば繰り返すほど、抱えるものの重さがどんどん増していき、その度に幻想のような願いを抱いた。


 何も知らないところから始まるルシウスのように、白紙から始める物語があればいい。


 何も知らず、何も持たず、何者でもない。

 そんなところから、もう一度始めてしまえたら――



 そう強く望んでいたはずなのに、今ではもうこのノートを手放したくないと思う。



 眠る前はあれだけ荒ぶっていた感情が静かに心に落ちている。

 その代わりに小さな温もりが心の奥底で灯った感覚があった。


 それを知ったエーレは誰の気配も感じない扉を見た。


 同時に仲間の顔を思い浮かべる。


 大いに自分に非があったとは言え、謝るのは億劫だった。



 機会があれば謝ろう。そう思ったエーレは夢の余韻で覚めきれていない思考を叩き起こし、自分とそれぞれの仲間の立ち位置、関係性を含むあらゆる計画を立て直すことにした。







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成長/革命/復讐/残酷/皇族/王族/主従/加護/権能/回帰/ダーク/異世界ファンタジー
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