精霊に近き者の嘆き
ゼファの霊奏で移動した先……
そこには晴れ渡った空の下に海があるだけだった。
けれど彼女が一言囁いた途端、目の前にぼんやりとした道筋が開き、その先は――海を割るよな狭い道が島へと繋がっていた。
彼女は口にしたのは、リクサに会うときに異空間に繋げた言葉ではない。
ルシウスが小さな違和感を胸に抱きながらたどり着いた場所は、想像以上に大きな島だった。
海辺に人の気配はない。
人工物に汚された気配のない、澄んだ砂浜と海が広がっている。
ゼファを先頭にエーレが続き、その少し後ろをルシウスたち三人は歩く。
ほどなくしてたどり着いたのは、小さな森の中――大きく開けた広場に広がる自然の要塞。
木々を組まれて作られた塀があり、その手前には堀があった。
ゼファの存在を感知したらしい住人によって、既に橋は下ろされていた。
その先から見覚えのある少女が駆けだしてきた。
「ゼファ様!」
聖国から逃げ出してきたあの少女だった。
飛び込んできた少女をゼファは腰を屈めて受け入れると、その頭をそっと撫でる。
背を向けているから表情こそわからないものの、そこには慈愛の雰囲気が漏れ出ていた。
「アルノ老は?」
その声も先ほどとは打って変わって、優しく敬意すらにじみ出ている。
「老様はいつものところにいらっしゃいます! ご案内します!」
ゼファから数歩離れた少女が、顔を輝かせたのがちらり、と見えた。
その視線がこちらへ投げられ、同時に瞳が小さく揺れた。
しかしそれも一瞬で、半身を逸らしてさっと道を開くと、少女の先導でルシウスたちは森の要塞へと足を踏み入れた。
そこには――
「すごい」
木々をそのまま利用したエルフが住んでいるのだろう家屋が、あらゆるところにあった。
大木をくり抜いて空間を作ったり、その上に更に木材を組み立てたり、木と木の間には移動用のいくつもの桟橋が繋げられていた。
地上に木材で組み立てられた建造物がいくつか見える。
木や藁といった材料のみで、人工物のようなものは何ひとつ見当たらない。
――これが自然と共に暮らすエルフの生活。
ルシウスは感嘆の声を禁じえなかった。
要塞の中は思った以上に広かった。途中、小川が村の中心に流れており、先には小さな池も見えた。
その周りには、見たことのない花たちが凛と咲いている。
小川に架かる橋を越えた先には、一層高い木々に囲まれた住居が見えてきた。
そこにはゼファを待ちかねていたように、その広場にはたくさんのエルフたちの姿があった。
お伽噺の存在だと思っていたエルフたちが、こんなにたくさんいる。
感動と衝撃に胸を打たれたのも束の間――ゼファの周りに集まってきたエルフを見て、ルシウスはぴたりと足を止めた。
簡素は服装。色はそれぞれだが、くすんだの髪色。特徴的な尖った耳。
しかしそれだけではなかった。
服の先から見える腕や足、首元、そして顔に至るまで、穢れにも見た真っ黒な墨のようなものが浮き出ている。
彼の瞳が、徐々に見開かれ大きく揺れる。
――エルフ伝統の入れ墨?
そうであればいいと思いながらも困惑を隠しきれずに、隣のシュトルツと一歩後ろにいるリーベを見た。
「あれは――」
「穢れだ」
端的なリーベの声にルシウスは、「え」と声が漏らした。
「穢れって、でもどうして……」
穢れ? でも彼の知っているそれとは似ていて、どこか違う。
「エルフは俺たちより精霊に近いからねぇ」
飄々としたシュトルツが一歩前に進み出た。声に誘われて見た先では、小さく目を細める彼。
「ま、俺たちもこんなにはっきりと見るのは初めてだけど――」
「穢れなら浄化できるんじゃないんですか? どうして放置してるんですか?」
「エルフと動物とではわけが違ってくる」
リーベはルシウスに説明してくれた。
エルフはどの存在よりも精霊に近しい。
堕ちた精霊の負のエネルギーを取り込み、本人が望むまいが、自分の一部として受け入れてしまう。
体の一部となった穢れを浄化するというのは、本人の命ごと削り取るのと同義である。
体にも生命力にも深く浸透してしまった穢れを切り離す術はない。
それは穢れに侵されていないエルフにもうつる。
だからここにいるエルフたちは、他のエルフたちがいる異空間には身をおかずに地上で隠れて暮らしている。
やがて穢れに自我を食い破られ死に至る――エルフ特有の不治の病だった。
それを聞いたルシウスは言葉を無くしたまま、もう一度前にいるエルフたちを見た。
ゼファは全てのエルフから余程慕われているのだろう。
彼女を見て、嬉しそうに笑顔で接するエルフたち。
穢れに侵されているとは到底思えないような明るい表情だった。
穢れを身に抱えて、体と心を侵され続けている人たちとは思えない。でもいつか……
その時――
「くだらねぇことで落ちてんなよ」
正面で状況を見守っていたエーレの声が聞こえた。
半身を逸らして、こちらを向いた彼の表情は険しい。
「くだらないことって……」
その言いぐさにルシウスは咄嗟に首を振る。
くだらなくなんてない。
これは彼らの命と尊厳に関わる話なのだ。
「お前、ここに何しにきたのか忘れてねぇだろうな?」
厳しい口調に、ルシウスはグッと言葉を呑み込んで頷く。
「ちゃんと覚えてますよ」
「ならいい。これはこいつらの問題だ。俺たちの知ったことじゃない」
あまりにも冷たく吐き捨てるような言葉を置いて、彼はゼファへと歩み寄る。
その背を見て、胸に何かが渦巻いたのをルシウスは感じた。
「エーレさんの言う通り、俺たちがやるべきことは防衛だから」
少し前のシュトルツはエーレを追って、歩を進めた。
その時、トンっと肩を軽く叩かれたと同時に「いくぞ、ルシウス」とリーベが隣を通りすぎていった。
そうだ、とりあえず防衛をしないと何も始まらない。
感情に呑まれて目的を見失うわけにはいかない。
突き放すような厳しく冷たい言葉が、今は有難かった。
彼らは広場を抜け、奥深くに進んだ。
木々に囲まれた一本道。
少女は未だに先頭を歩いていて、嬉しそうにゼファにたびたび声をかけていた。
混乱して泣いていた少女が、今ではこうして楽しそうにして目の前にいる。
それがルシウスにとっては救いにも思えた。
エルフの存在、その造りは人間とはあまりにも違うのかもしれない。
精霊に一番近しい種族――
ふと隣を歩いていたリーベが足を迷わせるように歩を緩めたことに、ルシウスは気が付いた。
怪訝に思って、ほんの少し遅れた分だけ首を回すと、彼は難しそうな顔をして前方の誰かを見ていた。
「リーベ?」
何か考え事をしているような彼は歩を緩めていたことに気が付いたらしく、歩く速度を戻すと、
「どうにも気にかかっているんだが」
と、前へ声を投げた。
「この事態をあえて招いたのではないだろうな? 貴方なら事前に把握できたのではないか?」
その視線がゼファに向けられていることを知ったルシウスの脳裏に、リクサが掠めた。
彼女は一度、やってくるだろう危機を知らせずに、ルシウスたちやミレイユを危険に晒した経緯がある。
二人の関係は知らなくても、リクサとゼファは深い繋がりを持っていることはわかる。
リーベの言葉の意味は掴めなかったものの、ルシウスは思わず疑いの視線をゼファの背に投げた。
その問いかけにゼファはほんの一瞬だけこちらへと視線を投げたあと、小さな沈黙を置いて吐き出すように答えた。
「何を指しているのか理解できない」
その声色は冷たく、少女に向けるものとはまるで違う。
ただただ呟かれた一言に、ルシウスはゾッとしたものを感じた。
「なら言い直そう。
貴方は他の時間軸、もしくは世界軸の自分と記憶をある程度共有できるだろう?
精霊に近しいエルフなら、精霊に求めてそれを実現することは可能なはずだ」
咄嗟に隣のリーベを見た。
その瞳は真剣そのもので、冗談を言っているわけではない。
「他の世界軸? そんなことが可能なんですか?」
つい、口をついて出ていた。
「前に言ったと思うが。精霊はどこにでも同時に存在している。
あらゆる可能性の過去、現在、未来に至るどこにでもだ。
人間には不可能であっても、エルフなら精霊を通して意図的に、そこにいる自己の記憶や感情を共有することは理論的に可能だ」
淡々と自らの理論を確かめるような言葉――
すぐさま前から嘲笑にも似た高笑いが聞こえてきた。
一瞬、それが誰のものなのかわからなかった。
ゼファが心底軽蔑するような視線をリーベに投げて、初めて彼女のものだと知った。
「……可能だとして、どうして我らが当然のようにそれを求めると思う?
我らが精霊に近しい種族だからか? いかにも人間が思いつきそうな浅はかな考えだ」
切り捨てるような冷たい口調に、リーベがぐっと何かを飲み込むような気配を感じた。
気まずい沈黙が訪れることを覚悟したときだった。
「はー」と、天高くに舞い上がるようなシュトルツの軽やかで大きな声が挟まれる。
彼は呆れたように大きく首を振りながら。両腕を頭の後ろで組み、いかにも楽しそうに歩を早めた。
そしてエーレの側までいくと、
「さっき俺たちに頭を上げてまで頼み事しておきながら、当たり前に見下してくるなんて……さすがエルフ様?」
そう、飄々として言って見せた。
ルシウスは息を呑んで、視線を彷徨わせる。
両者ともが堂々と敵意を向けている。
腹の探り合いなんてものではなく、あまりにも直接的に。
今から共に協力して、防衛をしようとは到底思えない空気感。
もはやここで殺し合いが始まるのではないか。
そんな緊迫感に、「エーレ」と助けを求めるようなルシウスの小さく掠れた声が、木々のざわめきに消されていく。
一陣の風が彼らの背後から吹き抜けていく中で、彼の視線を受けた肩が、重いものを吐き出したように一度沈んだ。
「もう着くだろう。無駄口叩いてねぇで切り替えろ」
この状況でも変わらないぶっきら棒な声と同時に、先頭を歩く少女の足がぴたり、と止まった。
その先からは――、空へと貫くように伸びるひときわと大きな木がが見えてきた。




