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調和の王〜影から継がれたもの〜  作者: 俐月
3章

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170/233

シュトルツ外伝「彼の愛した人」 下

 





 あと四日。

 それで彼女との恋は終わる。

 夢のような日々だった。まさか俺に、こんな日が恵まれるなんて思ってもみなかった。

 彼女を納得させるために始めたごっこ遊びのつもりが、気が付けば溺れているのは俺の方だった。




 シュトルツは認めざるを得ない愛情を抱えて、レギオンへの道を歩いていた。

 過去に面識があったとはいえ、こんな短期間でこんなに人を好きになるなんてこと、出来るものなんだろうか?

 ふと彼の脳裏に、貴族院でのことが頭に過った。



 エーレの隣にばかり張り付いていたシュトルツを、父が半ば無理やり学院に編入させた。

 もう少し広い知見と、出来れば伴侶を見つけてこいとの名目で。


 けれど学院での生活が、シュトルツに与えたものがほとんどなかった。

 誰に媚びを売られても、そのころの彼は見向きもしなかった。


 そんな中、同級生に袋叩きにされていたところで助けに入り、怒るでもなく笑うでもなく、理由を聞いては納得し、そっと手を伸ばしてくれたのがアメリだった。

 他とは少しだけ違った彼女を見て、シュトルツは興味を覚えたのだ。



 昼休みや学院での訓練や座学の授業が終わった後に、人目を避けて共にしたほんの少しの時間。

 そんな時間を積み重ねたのもたった三か月。

 すぐにそれどころではなくなって、彼女のことはすっかり忘れていた。


 当時のヴィンセント(自分)が彼女のことをどう思っていたのかなんてことは、シュトルツはもう覚えてなかった。



「人を愛する、ねぇ」



 未だにわかり切っていない。けれど、前よりは確実にわかってきた感覚。

 白昼夢の中を彷徨っているような感覚でたどり着いたレギオン支部の前には、よく知る姿があった。



「エーレさん?」



 呼びかけると、壁に預けていた体を起こして、「ん」と小さく頷いたのが見えた。



「え、どうしたの? 俺のこと待ってたの?」



 彼がシュトルツをわざわざ待っていることなんて珍しすぎる。

 その上、レギオンの前まで来て待っていたことなんて今まで一度もなかった。

 その様子から、彼がすでに何かを察していることがわかる。まさかリーベが何か言ったのか?



「なかなか帰ってこねぇから待ってたんだよ」



 もう日付が変わってかなり経つ。けれど、彼女と会いだす前から――今までだってそんなこと毎日のようにあった。

 彼はそのままレギオンの扉へと向かって、ドアノブへと手をかけると半身を逸らした。



「五日後には首都(ここ)を出る。お前、それでいいんだろうな?」



 暗闇の中で光った奈落色の瞳が、真っすぐシュトルツを貫いた。

 数秒にさえ思えたその一瞬は、すぐに扉の開けられた音で遮られた。


 エーレがそれ以上何も言わずに、中へ入っていくのをシュトルツはぼんやりと眺めていた。








「……の? ねぇ、シュトルツ」



 半歩前で呼びかけるアメリの声にシュトルツはハッと我に返った。



「なんかあったの?」



 振り返って顔を覗き込んでくる可愛らしい顔に、思わず頬が緩みそうになるのを堪えて、唇を引き締める。



「いや~、今日も君は天使のように可愛らしいなぁって見てただけ」



 いつものように軽口で誤魔化そうとしたけれど、彼女には通用しなかったらしい。

 ぐいっと一歩踏み出してきて、不満げに眉を寄せた。



「なんかあったんでしょ」



 ジッと見つめてくる大きな瞳から逃れるために、目を逸らしてつい顔を顰めていた。


 最近、特に表情管理が出来なくなってきている。

 アメリを見ればエーレが思い浮かぶし、エーレを見ればアメリが思い浮かぶ。

 心の天秤がずっとぐらぐらしていて、落ち着かない。

 それはもう、本心を覆い隠すのが困難なくらいに。


 それもこれも全てアメリと再会してからだった。



「まぁ、もうあと四日じゃん? そう思うとなんかねぇ」



 ちらり、と彼女の顔を盗み見ると、アメリはさっと踵を返して、小さな駆け足で先へ進んだ。

 そんな彼女の様子に、失言だったか? と思ったのも束の間――くるりと明るい色のスカートを翻した彼女は、ふんわりと微笑む。



「なーんだ。そんなこと? シュトルツは本当に馬鹿だね!

 あと四日、沢山楽しむしかないでしょ?」



 彼女の言動に、シュトルツは呆気に取られて眉を下げた。



「そうだよねぇ、俺って本当に馬鹿だよねぇ」



 そう笑って見せる。



「ほら、早く! 時間に間に合わないから!」



 今日から公開の演劇。その特等席のチケットを彼女の商会のコネで手に入れたらしい。

 時間までそんなにない。

 彼女の言う通り、あと四日。精一杯満喫するしかない。


 遠ざかる彼女の背を見て、シュトルツはいつの間にか上げていた手をそっと下ろして、足を速めた。





 演劇は大衆受けするだろう、大恋愛もので、演者も有名どころばかり。

 特等席での観劇は特に壮観だった。


 こんなに没頭して何かを見たのはいつぶりだろう。

 隣で感動して泣いている彼女の頭を、シュトルツは自然と抱き寄せていた。



 全てに裏切られて人生に絶望した男性と、全てに恵まれて朗らかに生きていた女性が、とある運命に引き寄せられて再会するという始まりだった。

 衝突しながらも徐々に心の距離を縮めていった二人に襲い掛かった悲劇。それを二人はどうにか乗り越え、幸せを築くというありきたりな物語。


 それも演者の表現の仕方でこんなにも壮大な話になるのかと、シュトルツは舌を巻いていた。

 そして――


 アメリとこうなれたらいいのに、という淡い希望が沸いていた。



 これはきっと今、湧きだしたものではない。

 ずっとずっと底に押し付けて浮かび上がらないようにしていた想いが、観劇した内容のせいで、一時的に表まで浮き出してしまったのだ。


 彼女髪から漂ってくる、花のような香りを嗅いで、アメリと花の咲く公園にいる想像が頭に過った。


 彼女が汚れないように、きちんとシートを敷いて、彼女の好物ばかりを詰めた弁当箱を用意しよう。

 もうある程度彼女の好物は把握している。

 あと彼女は紅茶だとかハーブティーは苦手だから、体に良いお茶を持っていこう。

 日焼けをしないように傘も必要かもしれない。



「ねぇ、アメリ」



 呼びかけに応えて、僅かに首を回した彼女へと今の想いを伝えたいと思った。



「俺さ。このまま――」



 その時、視界の端に銀髪が通り過ぎて行った気がして、それ以上の言葉を飲み込んだ。


 ――これ以上、私が言う必要はないな?――


 無機質で冷たい彼の言葉が頭に反響する。



 俺は今……何を言おうとした?

 自分の口から出かけた言葉を思い出して、唖然とする。

 俺は今、エーレではなくてアメリとの将来を望んでいた?



 立ち上がらずにはいられなかった。ジッとしてなんていられなかった。

 突然立ち上がったシュトルツにアメリは驚いたように、彼を見上げる。



「ごめん、俺ちょっと……」



 それ以上は言葉にできずに、口ごもると隣のアメリがゆっくり立ち上がる。



「うん、私は大丈夫」


「ごめん」



 それだけ言って、劇場に彼女だけを残して、シュトルツは出ていった。





 まだ陽は暮れたばかりのエーレの部屋の前で、シュトルツは扉に手を当てていた。

 ノックをするのが何故か躊躇われて、彼の声がかかるのを待っていたのだ。


 扉一枚隔てただけのシュトルツの気配をエーレはすでに感じ取っているだろう。

 けれど、なかなか声はかけてくれない。

 何かに集中したくて放置しているのか、それともただただ面倒なのか。



 扉に当てた手をそっと握って、小さく叩いた。

 中から返答はない。もう一度ノックしようとしたとき、



「いつまでもそうしてねぇで、さっさと入れ」



 そんな返答があった。

 なんだか懐かしい声だな、と思って息が漏れ出た。


 部屋の中は薄暗かった。

 机の上のテーブルランプだけが、エーレの手元を照らしていた。



「お前、やってることがどっかのお子様みたいだぞ」



 顔をあげずに言われた言葉。

 どっかのお子様。ふとユリウス()のことを思い出して、苦笑が漏れ出る。



「そんなに俺、おこちゃまと似てるかな?」


「元のお前はあんな感じだろ」



 一瞥もくれようとしない彼の言葉を聞いて、リーベとのやり取りが思い出された。



「俺の()()、そんなに似合ってない?」


「は?」



 その時になってようやく怪訝そうな顔でシュトルツへと顔をあげたエーレ。



「なに今更なこと言ってんだ。頭でも打ったのか?」



 そんな皮肉を漏らしたあとすぐに「まぁ」と彼は言葉を繋げて、手元に視線を戻した。



「お前はお前だろ。それ以上でもそれ以下でもない」



 無関心のような口調。けれどその真意を苦なく汲み取れるほど、シュトルツは長年彼の傍にいた。


 一歩進み出る。近くでエーレの顔を見れば、何かわかるかもしれない。

 恋をして愛を知った。穏やかで平凡な日常を夢想した。

 恋と敬愛の間で揺れる未熟な自分に何か一言、この恋を切り捨てるキッカケを与えてほしいと願った。



「風と炎の本質」



 ぽつり、とエーレが呟く。



「どんな人なのか知らんが、珍しいこともあるもんなんだな」



 シュトルツは、もう一歩進みだそうとした足を咄嗟に止めた。



「いつから気づいてたの?」


「いつからも何も、そんだけ毎回残滓を抱えて帰ってくりゃ嫌でも気づく」


「ああ……」



 そういえば、体を重ねると一時的に相手の生命力が体内に残滓として留まる、ということをすっかり忘れていた。

 今まで前の彼がそんなことを指摘してきたことはなかったし、残滓といっても数時間で体内から吐き出されるものだった。

 彼は気づいていながら、今の今まで確信に触れることば言わなかったのか。



 シュトルツがエーレを見守り支えているようで、いつだってエーレはシュトルツを見守り、彼自身を尊重しようと心がけてくれる。

 言葉は少なく、態度も曖昧で、彼を知らない人なら気づけないほどの小さな思いやり。



「エーレ、俺――」


「残りたいなら残ればいい」



 シュトルツの言葉を遮って、視線を手元に落としたままのエーレの声が、薄暗い部屋にやけに鮮明に響いた。



「え?」



 想像とは全く違う――期待していた言葉とも違うそれに、シュトルツは言葉を失った。

 ゆっくりとした動作で再び顔を上げたエーレ。その瞳からは何も読み取れない。



「お前が残りたいならそうすればいいって言ってるんだ」



 淡々とした口調。何を思っているのか全く見せようとはしない表情。



「いやでも俺は――エーレのためにここにいるんだから、そうじゃないでしょ?」



 そうじゃないはずだ。そうじゃない。

 彼の口から聞きたい言葉はそれじゃない。なのに。



「たしかに」彼は持っていたペンを置くと、椅子に背を預けた。


「俺はお前についてきてほしいと望んだ。

 けれど、その望み(それ)はお前の意思を縛る枷になるためじゃない」


「そうじゃなくて、エーレはどう思ってるのかってことだよ」



 冷静で客観的な、模範解答を聞きたいわけじゃなかった。

 目の前の彼は、俺の敬愛を一身に傾ける彼は、何をどう思っているのか?

 それが聞きたいのに。



「あのなぁ。俺がどう思ってようが、それは俺が決めることじゃないって言っているんだ。

 お前のやりたいようにやれば――」


「それはもう聞き飽きたんだよ!」



 気が付けば大きな声をあげてきた。

 こちらを見上げて眉を寄せた彼。いつもならすぐに取り繕う表情も言動も、今はそんな余裕はなかった。



「あんたはいつもそうだ。いつだって、俺のやりたいようにやればいいって、それだけで……俺はあんたについていくって、あの時決めたのに。

 あんたの望む道が俺の道なのに。どうして……どうしてそうしてくれないんだよ!」



 どうして道を指し示してくれないのか。

 どうして「そばにいろ」と言ってくれないのか。

 ただその一言、そう命令してくれれば――


 俺はあんたに全てを捧げて従うというのに。




 心からの叫びが部屋に吸い込まれていくまでの余韻の中、エーレは小さな息と共にゆっくりと立ち上がった。


 沈黙を守ったまま、シュトルツよりも少し小さな背が前まで進みでてくる。

 薄暗い部屋の中で綺麗な輪郭を浮かび上がらせて、彼が顔をあげた。

 何を言おうとしているのか掴めなくて、ただただ視線に応える。



 しかしその口が開かれることはなく、代わりに彼はおもむろに右腕をあげ、そのまま手を差し出してきた。

 シュトルツは吸い寄せられるように、その手の甲を見た。

 慣れ親しんだ小さな儀式。

 その行為に小さな期待を覚えて、気づけば体に染みついた習慣のまま手を伸ばしていた。



 差し出された手をそれ以上、持ち上げることは許されない。

 だからそっと腰を屈めて、顔を近づけ唇を落とす。

 ふわり、と手から紙とインクの匂いがした。


 名残惜しい気持ちを堪えて、体を起こして手をゆっくり放す。

 そのままその手は彼の胸に引き寄せられて、下ろされるかと思いきや――反対に持ち上げられたそれを彼は自分の口元に近づけた。



 ’’忠誠への返礼’’



 その行為に思わず、シュトルツは目を見開いた。

 伏せられた瞳、傷は多いが細く伸びる綺麗な手に口元は隠されている。その動作ひとつひとつが軽やかで違和感なく美しい。

 彼のそんな行動は今まで、たった一度しか見たことがない。遠い昔の色褪せた記憶。




 あれは――学院から去る前。傷だらけになりながらも、彼の名誉を守ったシュトルツへの感謝としてされたものだった。

 隠されたままの口元から、ようやく言葉が紡がれる。



「俺はもう、お前からの忠誠を十分に受け取った」



 それはシュトルツの期待していた言葉とは似ていて、違った色を帯びていた。


 嫌な予感が胸に過る。それ以上聞きたくない。

 下された手を見て、自然と一歩足を引いていた。

 しかし彼はその一歩を詰めてきて、口を閉じることはなかった。



「お前はカロンから離脱して、その人と幸せになれ」



 どう、して……?

 喉に引っかかった言葉は口からは出てこなかった。

 狭まる視界の中で、最後は彼の奈落色の瞳だけが残っていた。


 何も考えられず、何も言えず、気が付けば逃げ出すように、背を向けて走り出していた。






 足が向いたのはアメリの家だった。

 実家ではなくて、同年代の女性が一人で住むにはあまりにも広い一軒家。


 チャイムを鳴らすか躊躇っていたら、二階の窓から彼女が顔を出した。

 部屋に招かれて、椅子を勧められるとハーブティーが出てきた。

 彼女は好まないというのに、シュトルツのために常備しておいてくれいるものだった。



「落ち着いた?」



 カップを一度口に運んだあとに彼女が心配そうな声色で聞いてきた。



「ごめんね、一人残して帰っちゃって」



 今思うと酷いことをした。楽しく観劇したあとに彼女を一人、あんな人の多いところに残して帰ってしまうなんて。



「全然気にしてない。私も私で知り合いと話すこともあったから」



 カップを置いた手の上に、彼女の小さな手が重なった。



「どうしたの? なんでも話して」



 置かれた手を見つめて、全てを吐き出した気持ちになった。


 けれど、彼女に言えることは何もない。


 自分の正体だって隠したままなのにエーレとの関係や、目的のことなど話せるはずがない。

 命を捨ててまで手に入れた権能。回帰を繰り返し、目的のためだけに生きてきて、それを達するまでずっとしがみつく覚悟だった。それは揺らぐことのなないシュトルツの信念だった。


 はずなのに――アメリが現れて、それが覆ろうとしている、なんて。



 シュトルツは一度瞑目して、思考を閉じた後、目を開いた。

 口元に微笑みを張り付ける。

 上手く笑える気がする。

 そのまま彼女へと首を向けて、笑った。



「俺、アメリと一緒にここに残っていいことになったんだ」



 みるみるうちに彼女の目が見開かれていく。その瞳に歓喜が渦巻きはじめた。

 それを見て、シュトルツは目を細めた。


 これでいい、これでいいんだよね?

 頭を掠めたエーレの顔をシュトルツはそっと閉じた。







 隣で眠る彼女の寝息を聞きながら天井を眺める。

 寝付けない。ここ最近、彼女の隣で眠るときはとても心地よかったはずなのに。

 そっと彼女の方へと首を傾けた。


 細くて長いまつ毛が気持ちよさそうに揺れている。

 顔にかかってしまっている髪をそっと退けて、その唇へとキスを落とした。


「んっ」と眉を寄せた彼女の瞳が僅かに開かれそうになるのを見て、シュトルツは彼女の頭へとそっと手を置く。

 そのまま彼女が心地良い夢に誘われるように、小さく愛を囁いた。



 彼女の生命力の残滓が体の内に残っている感覚。それは全身を彼女に包まれているような感覚にも似ている。

 全てを覆い、全てを受け入れてくれる母の抱擁のような――


 いつか全てを明かし、語れる日がくればいい。

 俺たち運命だったんじゃない? なんてふざけて笑い合える日がくればいい。

 けれどどうしてか、そんな未来を全く想像できない自分がいた。



「運命」



 その言葉をなぞって思い浮かぶのは、三人の仲間と薄金色の髪を棚引かせた幼い少女だけだった。

 どちらかだけを取ることは出来ない。


 どちらの側にもいたくて、一方を失うなんてことしたくない。

 ようやく追いついてきた本音がシュトルツを苦しめた。



 彼女を連れていけないだろうか?

 商才もあって、魔法にも長ける彼女なら……

 なんて馬鹿げた発想にまで至った。



「やめよう」



 これ以上考えても意味はない。

 俺はここで彼女と残って幸せになる。

 俺が望んだことであり、エーレが望んだことだった。


 隣で眠る彼女の肩に顔を寄せて、その香りを胸いっぱい吸い込む。

 春に咲く花と温かな日差しを同時に運んできたような風の香りは、シュトルツを眠りに誘った。






 ***






 朝陽がカーテンの隙間から存在を明らかにした中で目が覚めて、隣に彼がいることに安堵と大きな安心感を覚える。

 いつも、後に目を覚ました私の寝顔を覗き込んでくる彼。

 けれど、今日は隣の彼はまだ夢の中だった。



 鮮やかな夕日色の髪は乱れていて、こちら側をむいて顔半分を枕に埋もれさせているその顔つきは僅かな幼さを残していた。

 はっきりとした線の太いまつ毛も夕日色で、撫でたくなるのをぐっと堪える。

 うなじから垂らしている尻尾のような髪が首元にかかっていた。



 髪を結んでいる一目みて高級品だとわかる滑らかな革の黒紐。

 顔も知らない彼の主が、ふと頭に過る。


 まるで首輪のようだ。

 これを外してしまえたらどんなにいいだろうか。

 彼の心を揺さぶる首輪を取り除いて、全てを忘れさせてしまえたら――


 自然とその革紐の先に触れていた。

 けれど、それを引いてしまうことは出来なかった。



「そっか」



 革紐に残っていたもの――僅かに、普通なら見落とすだろうくらい微細な誰かの生命力。感じたことのない種類のもの。

 そこには確かなる意志が宿っていた。


 私はそれに触れて、一つの決心をした。







 家に帰ると彼が迎えてくれる。

 部屋は綺麗に整理整頓されていて、お風呂は湧いていて、料理も並べられている。

 世間の主婦が圧倒されてしまうほどの手際の良さには感心するしかなかった。



 お風呂を出ると彼は魔法で私の髪を綺麗に溶かしながら乾かしてくれて、貴族令嬢にでもなった気分だった。

 彼は私の髪に触れる度、誉め言葉を口にした。


 その態度からは徐々に飄々さは抜けていって、掴みどころのなかった風は形を成していっている。

 それほど明らかに変化していっていた。

 それを知るたびに、喜びと不安、そして違和感が同時に湧き出てきていた。



 約束の期限は今日。

 本来なら明日、彼は首都を出る予定だった。

 陽がすでに暮れている中、彼はご機嫌で食事の後片付けをしている。


 キッチンで皿洗いをしている彼を見て、複雑になった。

 けれどそんな気持ちはすぐに心の底に押し込めて立ち上がり、彼の後ろへ立つ。


 そのまま大きな背中を抱きしめた。

 夏の太陽が空気を焦がす香りを胸いっぱい吸い込む。



「シュトルツ」



 もう呼び慣れた名前を吸い込んだ息でそのまま口にした。



「はぁい?」



 まるで子供をあやすような優しい返答に、そっと背から離れて、彼の後ろ姿を見上げた。

 彼の動きに合わせて、うなじで揺れる黒い革紐。

 そっと手を伸ばしてその先端に触れる。


 確かに感じ取れる、誰かが彼を心から想う気持ち。

 彼の意思を尊重し、自由であれ、幸せであれと願う。心からの尊敬。


 ――ああ、私はこの人には敵わない。



「シュトルツ」



 もう一度、彼を呼びかける。

 キュっと蛇口を閉める音がキッチンに響いて、手を拭きながら彼は振り返った。



「どうしたの?」



 こちらを見つめてくる愛おしそうな眼差し。そこに嘘はない。

 それでも――



「私、貴方が大好きよ。愛してる」



 向かい合って改めて告げた言葉に、きょとんとした彼はすぐに破顔して、私を抱きしめた。



「俺もだよ」



 耳元で囁かれた飴玉のような一言を余韻まで耳の奥に染み込ませる。

 彼の胸をそっと押して、もう一度その顔を見上げた。



「貴方って本当に馬鹿よね」



 再びきょとんとしてしまった彼を見て、思わず笑いが零れた。

 その唇にそっと指をあてて、押しのける。



「今日で約束の期限は終わりよ。明日には貴方が本来あるべき場所に帰ってね」



 途端、見開かれていく赤の瞳はゆらゆらと燃えるように揺らいだ。



「だから最後に」



 彼の頬へと両手を伸ばす。



「精一杯、私を愛して」







 ***






 風と炎の奏でる音色が部屋に止めどなく流れる。

 炎の揺らめくような音を風が攫い弾ける。



「俺ってほんと、屑だよねぇ」



 ベッドに寝転がって横並びになった二人。シュトルツは両腕を枕にして、天井を眺めていた。

 彼の露わになった逞しい胸にアメリが手を置く。



「そう? いいじゃない屑でも。私は好きよ」


「そう言ってくれて助かるよ」



 エーレとアメリの間で揺れ、エーレに突き放されて彼女のもとへと逃げ込んだ。どちらも失いたくないと思った。

 そして今度はアメリがエーレのもとへ帰れと言う。


 二人とも身勝手だ、なんて八つ当たりが頭に浮かぶけれど、これも全部二人の間で揺れて決断を出来なかった自分のせいだった。

 胸に置かれた小さな手を握ると、すこしひんやりとしていて、そっと温める。



「ねぇ、貴方にとってそのエーレって人はなんなの?」



 彼女は手を握り返しながら突然そう尋ねてきた。

 どういうべきか一瞬迷った。けれど――



「俺の敬愛する仲間だよ。俺の全てを捧げた人」



 するとアメリは傷ついた表情なんてこれっぽっちもなく、むしろホッとしたように破顔した。



「そう、じゃあその人に貴方を任せても安心ね」



 そんな言葉を聞いて驚いた。アメリはきっと俺が思っている以上に色んなことに気づいてるのかもしれない。



「俺って幸せ者だなぁ」



 思わず零れた本音。

 心から愛する女性と心から敬愛する仲間。その両者に幸せを願われている。

 これほど幸せなことはない。


 隣からふふっと笑う声が聞こえてきて、そちらを見た。



「本当よ。嫉妬しちゃうくらいに」


「怖い怖い。愛する人からの嫉妬ほど怖いものはないねぇ」



 気が付けばいつもの口調に戻っていた。

 そうだよね、これが俺だよね。



「私」



 彼女がギュッとしがみつくように抱きしめてくる。

 それに応えて体を寄せると、そっと背中へと手を回した。



「貴方を一緒に過ごした日をずっと忘れないわ」


「俺もだよ」



 部屋に一段と美しい音色が響いた。

 その旋律の中で二人は陽が昇るまで体を寄せ合っていた。









「いってらっしゃい」



 家の前でアメリが手を振る。

 シュトルツは、一度は向けた背を翻して、勢いよく彼女を抱きしめた。



「アメリ。愛してる」



 抱えた頭をぎゅっと胸元に寄せながら、これ以上ないほどの気持ちを込めて愛を伝える。

 そっと彼女を放したあと「ありがとう」とも伝えた。


 そして、一歩離れて半身を逸らす。

 手を上げて笑って見せる。



「いってきます」



 そのまま背を向けた。



「気を付けてね! 元気でね!」



 背中で震えた明るい声に、シュトルツは手をあげるだけで、もう振り返らなかった。






 ◇◇◇





 レギオンへ戻ると、入り口に二人はいた。

 彼らの足元にはシュトルツの荷物が放り出されてある。



「エーレさん! リーベ!」



 シュトルツは足を速めて二人へと呼びかけた。


 半眼でこちらへと冷めた視線を向けてくるリーベ。

 一瞬だけ空を仰いだエーレは肩を落としてため息を吐きだすと、足元の荷物を蹴った。



「丁度、これを捨てようと思ってたところなんだが……」



 彼の足元にはシュトルツの生活用品だけではない、相棒である剣袋に入った両手剣があるのだ。

 シュトルツは蹴られた荷物たちを勢いよく拾い、大切そうに胸に抱え上げると、非難の声を上げる。



「ちょ、酷くない!? これは俺の魂でもあるのに!」


「そんな魂、砕けてしまえばいいのに」 リーベの平坦な声が告げる。


「置いて出ていくくらい安っぽい魂なら、俺が捨ててやろうと思っただけだろうが。逆に感謝してほしいもんだ」



 続けられたエーレの皮肉。たしかに、とシュトルツは腕の中の剣袋へと視線を落とした。

 俺はまた、剣を手放すところだった。



「エーレさん、リーベ」



 アメリと再会し、共に過ごした時間に、これっぽっちも後悔はない。

 それでも――姿勢を正して、二人を順に見る。



「ご迷惑とご心配をおかけしました」



 揺らいでも、離れていこうとしても、全てを受け入れて許してくれるかけがえのない仲間。

 謝罪と感謝を込めた言葉――だったが。



「は? 迷惑なんて今に始まったことじゃないし。

 俺は今まで一瞬たりともお前のことを心配なんてしたことはない。自惚れんな」



 本当に不本意そうな表情をして睨みつけてきたエーレ。



「右に同じく」 簡潔すぎるほど簡潔に呟いたリーベ。


「え? ちょ、酷いって!」



 シュトルツが思わず駆け寄って訴えると、エーレはするりとそれを躱して踵を返した。



「しょうもねぇこと言ってねぇで、さっさと行くぞ」



 すぐにそれに倣ったリーベ。少しずつ離れていく二人の背を見た時――ふわり、と草木の香りが鼻腔をついた。

 シュトルツはそれを追って、一度振り返る。



「ありがとう。さようなら、アメリ」



 それだけ言い残して踵を返した彼は、駆け足で仲間を追った。








 彼の言葉に乗った生命力は風に流されて、彼女の元へ届く。

 夏の太陽の日差しのような爽やかな香りが辺りに漂ったことを知った彼女は、窓の外――首都の一番大きな門の方を見た。



「さよなら」





 首都のどこかで二人の生命力が交わって、美しく儚い音を一度響かせた。

 けれどもう、二人の耳にそれが届くことはなかった。






 fin.

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成長/革命/復讐/残酷/皇族/王族/主従/加護/権能/回帰/ダーク/異世界ファンタジー
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