リーベという人間
海を眺めながら干し肉を齧るリーベに、ユリウスも倣う。
潮風が手の中の干し肉の塩味を更に引き立てるようだった。
王城暮らしでは想像も出来なかった食べ物が、美味しいと感じる。
それはこの生活に慣れてきたせいなのか、それとも初めて見る景色の感動のおかげなのか。
どちらにせよ、ユリウスはそこに小さな喜びを感じることが出来た。
二人が咀嚼する間の短い沈黙。その中の居心地の悪さも昨日より幾分、和らいだ。
何か共有するというのは、人と人の距離を縮めるのだということを改めて実感しつつ、自分の上達が見られないことに対してはやはり、気まずさも感じていた。
あっという間に、パンと干し肉を平らげてしまったユリウスへとリーベはさらにパンを渡してきた。
「リーベの分なんじゃ……」
「気にしなくていい。私たちは多少食べなくても、平気な体になってる」
朝からほとんど食べていない彼の食料をもらうのは気が引けた。
でも、その言葉が気遣いのものだと知って、有り難く受け取ることにした。
ユリウスが、それもペロリと胃袋に収めてしまう頃、リーベから水筒を渡された。
彼も案外、面倒見がいいところがあるのかもしれない。
「崖の上に行ってみるか。景色が変われば、気分も変わる」
返した水筒を受け取った彼は、ユリウスの返事も待たずに北側の丘へと歩き出した。
その後ろをすぐに追ってしばらく歩いた時、
「エーレなら、力の可視化も出来たんだろうが」
誰に言うでもなく、リーベがひとりごちた。
「可視化ですか?」
「ああ。戦闘で使うような波動の強い力は基本、可視化されるが、それ以外の力は、目には見えないだろう?」
調和、改め共感時の力などは、同じ力の使い手にならある程度は感知することはできるが、目に見えない。
だから必ずしも、魔法の使用に気づけるわけではない。
一方で、攻撃に用いられるような具現化の魔法や、膨大な波動を発するような魔法は、それが可視化される。
炎の力の場合、炎が発生するし、魔物を浄化する際だって、光の力で光の粒子が舞う。
「闇の力は、それを可視化させることができる」
続けられた彼の言葉。思考を巡らせていたユリウスは、数瞬飲み込めず、「へ!?」と追い付いた理解と共に 素っ頓狂な声をあげてしまう。
同時に、進めていた足が地面に引っかかって、転びそうになった。
「今、闇の力って言いました?」
「言ったが」
それがどうした、とでも言っているような口調だった。
闇の力、その本質――この世界で忌避される力だった。
闇は、他属性すべての力を吸収し、無効化できる。
それだけ聞くと、優れた力のようにも思える。
しかし問題はそれを制御し、使いこなせる者がほとんど――いや、存在しないということだった。
ユリウスの知る闇の本質は’’孤独’’であり、呪いの子として生まれた者は殺されるか、捨てられることが多い。
闇の力は強大すぎて、本人を呑みこむ。
最初はどうにかその力と自我を競合させていた者でも、最終的には自我を呑まれて、力を暴走させる。
実際にそういう事例が、過去にも多数存在した。
ユリウスは思わず言葉を失ってしまった。
彼の心境を察したのか、リーベは「ああ」と思い出したように声を上げた。
「そういえば、闇は畏怖の対象だったな。
心配しなくていい。貴方に渡した魔鉱石の隠蔽も、闇の力だ」
「何を心配しなくていいのか全然わからないんですが……」
動揺が抑えきれず、本音が漏れてしまう。
隠蔽なんて魔法を聞いたことがないからおかしいと思っていたが、闇に属する力だとは思ってもみなかった。
困惑を示したユリウスを見て、リーベの呆れの混じったような嘆息を吐き出した。
「たしかに、闇の力は’’絶望’’という一面もある。
しかし、水と同じだ。
それ自体に良いも悪いもない。使うもの次第だ」
先ほどリーベが使った水の魔法の感覚が、頭によぎった。
たしかにユリウスの感情を支配しようとした力であったけれど、それに幸福感を感じていたのは事実だ。
使いようによっては、人を支配できる。
呪いのような力かもしれないけれど、逆を言えば、祝福としての使い方だってあるのかもしれない。
「闇にも、もう一つの側面があるんですか?」
「闇の本質は’’理解と絶望’’――闇は、すべてを識ることから始まる。
その本質さえ理解してしまえば、御することは可能だ」
――闇の本質が理解……?
想像だにしなかった答えに、ユリウスは混乱した。
けれど、今はもっと他に知りたいことがあった。
「エーレさんは……闇の本質を理解して、扱えるってことですか?」
そうでなければ、困る。
恐る恐るではあるものの、そんな心境を隠すことなく声色に乗せたユリウスへ、不意に半身を逸らして振り返ったリーベは、可笑しなことでも聞いたかのように小さく笑った――ように見えた。
陽を受けた絹糸のような銀髪が、心地良さそうに揺れ、その口元を隠していた。
「エーレを誰だと思ってるんだ。あいつが闇の力くらい、飼いならせないわけがない」
ユリウスは頭を打たれたような衝撃に、ハッと目を見開いた。
リーベという人間を誤解していたのかもしれない。
全てに無関心のような淡々とした対応。
ほとんど感情を表に出さない上に、大体において無感動な反応――
そんな言動から、彼らの中で一番冷たい人間だと思っていた。
けれど彼はこんな嬉しげに――それでいて、誇らしそうに仲間のことを話す。
冷たく見えたのは、単に感情表現が苦手なだけなのかもしれない。
リーベの意外な一面を垣間見て、ユリウスは何故か少しだけ嬉しくなった。
同時にシュトルツが言ったように、自分の目でもっと彼のことを見て、知ってみたい気もした。
先ほどよりも、更に海を遠くまで見渡せる崖の上へと着いた。
間近で見える海も美しいが、高いところから見渡すとまた違う意味で絶景だった。
ユリウスは、自分の感情が百面相している様子さえも心地よく感じていた。
少し強めの風が頬と髪を撫でていく。
前に立つリーベの髪が、光を纏うように揺らめいた――
それを見たユリウスは、時間が切り取られたような感覚に陥った。
気を抜くと、すぐに同調してしまいそうになるの自分を知って、ぐっと足を踏ん張り、それを堪えた時、リーベがこちらへと振り向いた。
彼は伸ばした手をユリウスの肩へと置く。
「そのままでいい。呼吸に集中してみるんだ。
少し力技だが、私が線引きしてみよう」
何のことかわからなかったユリウスだが、言われた通りにやってみることにした。
鼻から吸って口から吐く。自分の呼吸に集中する。
その間にも、辺りの情報が止めどなく入ってくるのを感じる。
繰り返していけばいくほど、動作も呼吸の音も機械的になり、意識から遠のいていく。
わかっていてもどうにも出来ない。
ユリウスにとって、その情報たちは、規則的な呼吸なんかよりも圧倒的に魅力的だった。
全てに吸い込まれていく……だめだ。そう思った時――突如として、溶け込んでいこうとしている感覚の中に、亀裂が入るような衝撃を覚えた。
突然立ちはだかった壁、その手前に引っ張られるような感覚。それまでの全てが遠のいていく。
ほしいものがすぐ目の前にあるのに、そこに見えているのに、透明な壁の先にいくことが出来ない。
――すぐそこあるのに……!
激しい葛藤と焦燥が湧き上がった。
それも数瞬の出来事で、立ちはだかった壁は溶けていくように、薄くなっていった。
先ほどのように強烈ではっきりした障害物ではない――けれどそれは確実にユリウスを邪魔して、どうにもその先に踏み入ることは出来ない。
そわそわとした焦りが胸の奥で泡立ち始めた時だった。
――なんだろう? これは……
それは隙間を縫うように少しずつ少しずつ、ユリウスの肌に柔らかく触れてきた。
切り離された情報が、再び流れ込んできたと気付くののに時間がかかった。
何故なら、それは先ほどとは似ているようで、全く違う色を帯びていたからだ。
その中でユリウスは変わることなく、風になって花を愛で、鳥になって海をたゆたい、海水の一滴になって海を泳いだ。
なのになぜだろう――そこにはしっかりと自分の輪郭が存在していた。
違う感覚の多幸感。
今自分はここにいる。こうして立っている。
ただそれだけのことに、圧倒的な幸福感を感じたのだ。
はっきりとわかる。すべてのものの存在が自分に伝わってくる。
ユリウスは一人の人間として、同時に自然の一部として、そこに存在していた。
完全に自分というものを捨て、自然に同化してしまうような感覚とは、確実に違う。
惜しい気持ちを抑えて、そこから遠のいてみることにした。
景色も感覚も情報も、意識したままに少しずつ遠のいていき、やがて体の感覚がはっきりと戻った。
自分の意思で目を開く。
そこにはリーベがいて、目が合うと彼は、ほんの少しだけ眉を下げた。
雫を一滴落としたような余韻は胸に残り、小さな波紋を立てながら全身へと広がっていく。
それは徐々に大きさを増していって、喜びという実感に変わった。
「よくやった」
何か言いたげにしていたユリウスへと、リーベが告げた。
「全然違いました。なんかこう……なんて言えばいいのかわからないけど」
「もう一度やろう。今の感覚をしっかり覚えるんだ」
二度三度繰り返し、ユリウスはその感覚を全身に染み渡らせていった。
どうしても引っ張られてしまう感覚も徐々に薄れていき、四度目には自力で成功することが出来た。
リーベも満足そうな表情を浮かべていた。
「今日はこのくらいにしておくか。慣れないことは無理しないに限る。
この次は、明日にしよう」
気が付けば、陽が海を赤く染め始めていた。
陽が暮れる前までに、帰らなければいけない。
夕日に染まる海のまた違った表情を目にしたユリウスは、ずっと眺めていたい気分になったが、惜しい気持ちを堪えて、踵を返すことにした。




