シュトルツ外伝「彼の愛した人」 中
たどり着いた中央通りには人だかり。
その中心には男と少女。男が少女の後ろに回って、ナイフを首元に突き付けていた。
「うわーありがちだねぇ」
そんな声を漏らしながら、シュトルツはため息交じりに人を掻き分けて入る。
その先には予想したとおり、灰がかった緑の髪の彼女がいた。
「落ち着いてください」
震えた声色で男を説得しようとするアメリ。
彼女はこんなにか弱かっただろうか?
状況にそぐわないそんな考えが、彼女の小さな背を見て思い浮かんだ。
「これが落ち着いていられるか!」
何がどうなっているのかはわからないが、彼女の身に危険はないように思える。
彼女がこれ以上、無駄に手を出さなければの話だが。
「ちょっと」
前にある肩に手を置くと、思った以上に細かった。
突然で驚いたのか、目を見開いて振り返った彼女の茶褐色の瞳は揺れていた。
「危ないから関わらない方がいいよ。すぐに警備隊がくるでしょ」
こういうことのために整備隊がいる。一市民である彼女が無駄に首を突っ込むことではない。
「来るまでにあの子に怪我があったらどうするの!」
怒りを宿した声色と共に、肩に置いた手が払われた。
「私が代わりに人質になります。だからその子を放してあげてください」
そんなことを口走りだした彼女を見て、ため息を吐きだす。
感情的になったこの手の女性は、人の言うことに耳を貸さない。
「よく見るとお前、ヴァレッタ商会の娘じゃねぇか。
丁度いい。あそこにも積もり積もった恨みがあるんだ。その要望聞き入れてやるからこっちこい」
男は少女の前に突き出したナイフを振った。その時、刃先が少女の頬を少し切り裂いていく。
途端、少女が悲鳴を上げて、辺りは騒然となった。
すぐに進みだそうとする彼女が見えて、シュトルツは彼女に立ちはだかるように進み出た。
「人にはさ。色々あると思うけど、そういうのみっともないからやめない?」
男が何か反駁する前にシュトルツの長い腕が前に伸びて、ゆらりと人差し指が男性を捉える。
「この野郎! 俺を馬鹿にすんのか! 知ったような――」
「俺、断絶(氷魔法)得意じゃないから、手加減できなかったらごめんね?」
男が言い終える前に呟かれたそれと共に、彼の人差し指がくいっと下ろされた。
途端、男は目の色を失ってそのまま意識を失った。
男の手からナイフが離され、少女もろとも前方へ投げされそうになったが、素早く動いたシュトルツが少女だけを抱えて避難させ、すぐに切り傷を光魔法で治癒した。
騒然としていた場が、気が付けば沈黙で包まれていた。
そこにやっと警備隊がやってきたのを知って、人々が我に返ったように拍手と歓声を上げ始めた。
「やっべ、あとは任せた!」
出来るだけ目立つな――エーレの言葉を思い出したシュトルツは、少女を近くの人に押し付けて身を翻そうとしたが、コートの裾をがっちりと掴まれた。勿論、アメリに。
「待ってください!」
「ちょ、俺。だめなんだって、放して!」
いくら隠蔽がかかってるとは言え、出来るだけ目立つわけにはいかない。
「私の話を聞いてください! お願いします!」
懇願するように訴える彼女を見て、シュトルツは一度強く瞑目した後、
「ここ曲がった公園で待ってるから」と、その手を振りほどいた。
空が青い。雲一つない。
「いい天気だなぁ。こんな日にエーレさんと綺麗な公園でピクニックできたら最高だよなぁ」
そんなことを思い浮かべながら、現実逃避していた。
彼女に指定した公園のベンチで一人、そんなことを呟いているシュトルツの周りには、幸い誰もいない。
小食で偏食の激しいエーレのために弁当を作るなら、何がいいだろうか?
やっぱり甘いものをたくさん詰めてきた方がいいだろうか?
たまには高級な茶葉でも買って、エーレの好きな紅茶をいれるのも悪くない。
そんな無限に広がっていく妄想を打ち破ったのは、小さな足音と気配。そしてほんのり鼻腔をつく草木の香り。
なんとなくそちらを見たくなくて、シュトルツは彼女が隣に座るまで空を眺めていた。
「お時間を割いていただきてありがとうございます」
座るや否や、彼女がそう言った。
「ああいうのは危ないからやめておいた方がいいよ」
ちらりと目だけ彼女を見ると、彼女は膝へと視線を落としていた。
「取り乱してすみません。助けていただきありがとうございました」
最初とは違って随分他人行儀な彼女の応答に、シュトルツはやっと態勢を整え、しっかり彼女を視界にとらえる。
「いやまぁ、俺が勝手にやったことだから。それよりも話って?
俺、これを届けに早く帰れないといけないんだよねぇ」
手の中でくしゃりとなって、端が破けてしまった紙袋を大事に抱えなおした。
中身の本は無傷でよかった。
本を家宝のように大切に扱うエーレに、汚れた本なんて届けられたもんじゃない。
「あの、貴方は本当に――」
「そう、俺は君の探しているヴィンセントって人じゃない」
彼女が言い切る前に、シュトルツは強く告げる。
アメリの探しているヴィンセントは、もうこの世に存在しない。
すると彼女は瞼を震わせて、こちらを見た。瞳が揺れていて、何故か涙まで溢れだそうとしている。
「じゃあ貴方はヴィンセントという方をご存じないですか?」
震えた彼女の声を聞いて、シュトルツの頭にあの噂が過った。
思わず、眉を寄せる。
「残念ながら俺はその人のことを全く知らない。君、その人のこと好きだったとか?」
何故か、真相を確かめたいと思った。聞いておくべきなんじゃないかと思った。
聞いたところで、俺に出来ることはない。なのに……
すると彼女は頭を項垂れて、ふるふると小さく首を振る。ぽたり、と雫が一滴、細い膝へと落ちた。
「わからないんです。ただ、貴方を見て、ヴィンセントのことを思い出して。
忘れようとして、すっかり忘れていたのに。思い出してしまって……
どうしても気になって、貴方を付け回すようなことしてすみません」
噂が真実ではないとわかったのに、シュトルツの心は晴れなかった。
女性を慰める方法なんて知らない。泣いている女性にかける言葉なんて知らない。
しかもそれは、自分を思い出して、泣いていると女性なのだ。
「まぁ」 それでも言葉を絞り出した。
「その人と何があったのかは知らないけど、君の前からいなくなった男のことなんて忘れて、新しい恋でもすればいいさ」
ヴィンセントは他人。そう思い込めば案外すらすらと言葉が出てきた。
「じゃあ」 彼女が不意に顔をあげてこちらを見た。
「私と新しい恋をしてくれませんか?」
その瞳にもう涙はない。
示された提案に頭が追い付かなくて、数秒後――
「え?」
ようやく飲み込めたときも、シュトルツはそれしか言えなかった。
◇◇◇
「馬鹿を通り越して、傑作だなこれは」
自分では抱えきれなくてリーベに全てを報告すると、返ってきたのは本当にそう思っているのかも怪しい無感動な声。
「他人事だと思って……」
今日もまたシュトルツはベッドに伏せていた。他の安宿よりは質はいいけれど、やっぱり硬い寝心地にうんざりした息が漏れる。
「他人事も他人事だ。過去の自分を思い出して涙した女性。その過去の自分の代わりに期限付きであっても恋人を演じる。傑作と言わずにはいられないだろう」
そう、期限付きだった。
半月後には首都を出る、と一度は断ったのだ。
なのに、彼女は半月でもいいと食い下がってきて、断るに断れなかった。
いや、断ることは出来たのに、断らなかった。
なんだか彼女と再会してから、自分の言動が思うようにならない。
「どうしよう……」
椅子に座って本へと目を落としてままのリーベに問いかける。
彼はこちらに一瞥もくれることなく「まぁ、いいんじゃないか」と答えては、頁を捲った。
相変わらず本を読みながら会話なんて器用だな、と小さな苛立ちを覚える。
「半月だけだ。たまには羽を伸ばして楽しんでくればいい。エーレの頼み事は私が引き受けよう」
「え?」
続けられた以外な言葉に目を丸くして、首をそちらに向けた。
するとやっと本から顔を上げた彼が目を細める。
「これを逃したらもう二度とこんな機会はないだろう。たまには目的のことを忘れて、楽しんでくればいい」
彼の口から出たとは思えないそれに、シュトルツは真意を疑いたくなった。
「いやでも」 すぐに胸の違和感を吐き出す。
「だめだって。俺はエーレのためにここにいるんだから。俺だけ目的を忘れて楽しむなんて真似できないでしょ」
ついリーベの口車に乗せられそうになった自分への戒めとして言葉にした。
そうだ、俺がここにいるのは全てが全て、エーレのためなのだ。
彼の背負う業を共に背負うと決めたからここにいる。
そこに、たとえ期限付きだとしても、愛だとか恋だとかが入り込む余地なんてない。あってはならない。
そこにぱたり、と本を閉じる音が応えた。
「エーレは、お前に苦しんでほしくて隣に置いているわけではないだろう?」
リーベの瞳がこちらへ向けられている。
シュトルツは一瞬だけそちらをみた後、枕へと視線を落とした。
「そら、そうだけどさぁ」
けれどうまく飲み込めず、そんな輪郭のぼやけた呟きだけが部屋の中に漂った。
納得いかない気持ちのまま、小さな静寂が挟まれる。
しばらくして、リーベの立ち上がる気配を感じた。
彼の気配がそのまま扉へと向かっていくのを知って、そちらを見ると、彼もこちらを見ていた。
「シュトルツ」
その瞳に感情は籠らず、ただただ俺の心の奥底を覗き込むような光を宿している。
「ひと時の非日常を楽しめばいい。だが先ほどお前が言った通りでもある。つまり――これ以上は私が言う必要はないな?」
彼はシュトルツの返答を待たずして、扉の先へと消えていった。
***
彼は頑なに、自分がヴィンセントだとは認めることはなかった。
けれど、もしかしたら本当にそうなのかもしれないとも思い出してきた。
隣で笑っている彼を見ていたら、どちらでもいい気もしてきていた。
ヴィンセントが消息をたって四年。もし前の彼がヴィンセントであったとしても、想像できないようないろんなことがあったのかもしれない。
目の前の彼はもう、ヴィンセントではないシュトルツなのだ。
そう受け入れるようになっていた。
彼はエーレという男性の話をよくした。たまにリーベという男性の名前も出てきた。
どちらもこの大陸では聞かない名前。シュトルツもそうだった。
それを聞くとやはり、彼がどちらであっても、何かしら抱えているのではないかと勘ぐってしまうばかりだった。
嬉しそうにエーレという男性の話をする彼を見て、ふと学院時代のヴィンセントのことを思い出した。
貴族の子息令嬢が通う貴族院。
そこに中途半端な時期に編入してくるのが、グライフェン伯爵家の嫡男であると知った生徒たちは、根も葉もない噂をし始めた。
王室唯一の男児で、唯一の王位継承者であるアクシオン殿下の従者の席を、弟に奪われた無能な嫡男。
彼の弟のテオドールは随分前に学院に入学していたのに、どうしてこんな時期に今更長男がやってくるのか。
その無能な嫡男が編入してきても、生徒たちは色眼鏡で、彼に対してあらゆる質問を投げかけていた。
けれど、彼は全て黙秘した上、実力でそれらを黙らせたのだった。
さすが王家の剣。
剣技では頭一つという言葉では足りないほど、他の生徒を圧倒し、魔法も学科試験に至ってもトップを総なめしていった。
そんな彼の噂が全てが嘘であったということを知った生徒たちは、羨望の目で彼を見るようになった。
それでもヴィンセントは何も語らないままだった。
女子生徒が彼に群がっても、どんな可愛くて優秀な女の子が彼を誘っても、全く靡くことはない。
その硬派な印象が、更に女子生徒の人気を呼ぶことになった。
しかしそれをよく思う生徒ばかりではない。
有力貴族であり、常にトップの成績を守っていた男子とその取り巻きは、嫉妬に怒り狂ったのだろう。
偶然、ヴィンセントが学院裏で、男子生徒たちに袋叩きにあっている現場を目撃してしまったことがあった。
私は咄嗟に「先生! こっちです! 早く!」と、声を上げたことを覚えている。
それがヴィンセントと私の初対面であった。
「どうしてやり返さなかったんですか」
すぐに尋ねたはずだ。
すると彼は笑ってこう答えた。
「たとえ正当防衛であっても、俺が学院で暴力沙汰を起こすと主に迷惑がかかるだろ?
主のためなら、このくらいなんてことない」
あちらこちら腫れあがって傷だらけな癖に、嬉しそうに笑う彼の顔を今でもよく覚えている。
アクシオン殿下ではない、これだけ優秀なグライフェン伯爵家嫡男の主が誰なのかは――ついぞ知ることは出来なかった。
けれど……
「でさ。エーレさん。その本を持って帰ったらもうね。すんごい剣幕で俺のこと見てきて。中身を確認して本が無事だってわかると怒らなかったけど」
跳ねた声でそう話す彼は、やはり嬉しそうだった。その表情が、傷だらけで笑ったヴィンセントと重なった。
あの時、どんなにぼろぼろになっても守り通したかった彼の主が、そのエーレという人であれば、と心から思った。
「俺といて楽しい?」
不意に私の顔を覗き込んで、尋ねてきた。
「ええ、とっても」
本心だったから、何も偽る必要はなかった。
ヴィンセントが突然学院を去ったあの日。そしてすぐに廃嫡されたと学院に流れた噂。
真相を確かめる前に、王国で内乱が起きて、弟のテオドールと再会したときにヴィンセントのことを尋ねると、彼は首を振るだけだった。
だから私はたった三か月間だけを過ごした男の子に抱いた淡い想いを、心の奥底に錘をつけて沈めた。
くたびれて粉々になっては、溶けていったものとばかりに思っていたのに……
「私、貴方のことが好きみたい」
三日目にして、自分の部屋に男性を誘ったのは初めてだった。
ベッドに並んで座っている彼の顔を真正面から見て、自然と頬を緩めて気持ちを伝えた。
たった半月の恋だ。事を進める速度が何よりも大事でしょう?
そう自分に言い聞かせて。
すると、心底驚いたように目を見開いた彼。その瞳が炎のように揺れていた。
そしてさっと顔ごと背けられたのを見て、小さな不安を胸に募ったのも束の間――彼は誤魔化すように頬を指で掻き始めた。
「困ったなぁ」
顔は伏せられたまま、目だけがこちらを見る。
「俺にはエーレさんがいるっていうのに」
それが本心と誤魔化し両方入り混じっているなんてこと、すぐにわかってしまった。
「じゃあエーレさんの次でいいから」
「そう? 俺の彼女は心が広くて助かるよ」
そんなことを言って、二人して噴き出すように笑った。
たった半月の恋愛ごっこなのに、彼女なんて名称。そして馬鹿げたやりとり。
それすら愛おしく思って、時間がこのまま止まってしまえばいいのに、と本気で願った。
おでこがすぐ近くになるまで二人で笑い合って、ふと視線が交わる。
切れ長の瞳が真っすぐ私を捉えた――
「ねぇ、私のこと好き?」
そっと彼の首へと腕を伸ばした。私ってこんな大胆になれたんだ、と自分に感心しながら。
彼はそれを受け入れて、私の肩へと額を寄せると、
「俺、人をちゃんと愛したことないんだよねぇ。君のことうまく愛せるかな?」
あれだけ飄々としていた男が言ったとは思えない、ほんの少しの弱さを滲みだした言葉を聞いて私は嬉しくなった。
「じゃあ、私で人の愛し方を学べばいいわ。大丈夫、何も怖がることはないから」
彼は私の肩に顔を埋めたまま、ゆっくり私の体をベッドに押し倒した。
顔が耳元に寄せられて、そっと囁いた言葉――私の人生で一番の宝物が生まれた瞬間だった。
***
隣で眠るアメリを見て、シュトルツは複雑な気持ちになっていた。
ひと時もエーレのことを頭から追いやったことはなかった。
追いやらずとも常にエーレが彼の頭を支配していた。なのに……
隣ですやすやと幼い顔つきで眠る彼女を見て、心が揺れる。
彼女と体を重ねる間、エーレのことを全く思い出さなかった自分を責めるような感情が湧き出してくる。
幸い、女性経験はそれなりにあったため、失敗するようなことはなかったはずだ。
たった半月だ。だから彼女の恋人役を演じて、彼女にはヴィンセントのことを忘れてもらおう。そのためにしっかりと恋人役を務めよう。
そう思っていたのに。三日間、彼女と過ごしながら、シュトルツは過去のことを思い出していた。
正義感が強くて、理不尽を許さない。芯の通った真っすぐな彼女。
アメリはあれから変わることなく、素敵な女性になっていた。
自然と彼女の柔らかな髪に手が伸びた。エーレと似ているけれど、少し違う繊細な髪。
ちくりと胸が痛んで、そっと指を閉じる。
幸せだと思ってしまった。恋人ごっこを初めてたった三日。
役を演じるだけのつもりが、彼女に「好き」だと言われて、一瞬の喜びと大きな不安が湧き出した。
思わず吐き出した弱音に交えて、僅かな拒否を滲ませたはずなのに、返ってきた言葉を聞いて……期待を覚えた。
「俺はちゃんと愛せたのかな?」
自傷行為のように女性に声をかけては、一夜を共にしたことは何度もある。
そんな女性たちとエーレを比べて、俺の居場所はエーレの側しかないということを確かめる行為を繰り返していた。その自覚もあった。
だから、女性を愛そうとして抱いたのは初めてだった。
こんな意味のない葛藤をする羽目になるなら、彼女に部屋に誘われた時点で断っておくべきだったかもしれない。
胸にくすぶる感情を持て余して、窓へと視線を投げた。
闇は深く幕を下ろしている。いつも隣にいる彼の纏う色――エーレの顔が見たい。
***
ふと目が覚めると隣には誰もいなかった。
ああ、彼の元へ行ったんだな。すぐにそう思った。
シュトルツがいた場所に顔を埋めると温かいお日様の香りがした。
まだ外は暗い。
彼の慕うエーレという人物がどんな外見かは知らないけれど、何故か外に降りた闇のような外見のような気がして、お日様と夜の二人はなんだかぴったりのような気がした。
あと二週間。エーレという人には悪いけれど、彼は私が独占したい。
彼の愛がもっと欲しい。長い間、底に沈めて枯れきっていた想いが、止めどなく欲深い感情を湧き立てる。
私が愛するということがどういうことなのか。精一杯教えてあげたい。
壊れ物を扱うように、まるで初めてのようにぎこちなく私を抱いた彼の腕と指先と逞しい全身を思い出して、思わず笑みがこぼれた。
「え? あの店いくの?」
小さな不安を抱えて迎えた次の日も、彼はしっかり私に会いに来てくれた。
私の仕事が終わった夕刻。
ヴェールノワールへ行こう、そう誘った時に彼はほんの少し嫌そうに顔を顰めた。
「この前見て、気に入った服があるの。私がこんなに気に入るものってなかなかないから」
「あ~」 彼は何か思い出したように空を仰ぐ。
「じゃあ、行こうか」
そのまま私の手を取って、大通りを歩きだした。
ずっと剣を握ってきたのがわかる、大きくてごつごつとした手をぎゅっと握り返す。
半歩前を歩く彼の雰囲気は、相変わらず飄々としていて掴みどころがない。
風のように軽やかで、目を離した瞬間、どこかへ消えてしまうのではないか。そんな不安が過ることもある。
その口から紡がれる言葉は、跳ねまわる兎のように忙しなくて、あっちへいったりこっちへいったり、そして戻ってきたかと思うと、ぴょこんっと真上に跳んで笑いを誘う。
そんな彼が、今まで誰一人本気で愛そうと思わなかったことが不思議であったし、同時に心底よかったとも感じた。
ヴェールノワールで選んだ服を試着している時、聞いたことがある引きつった声がカーテンの外から聞こえてきた。
「あらぁ? シュトちゃん、今日はアポイントメントなかったわよね~? どうしてここにいるの?」
「別になんだっていいでしょ~に。俺だってたまには服を買いに来ることだってあるの」
「やーん、そういうこと~? おめでたなのねぇ~」
「あえてそういう言い方するのやめてくんない?」
「シュトちゃんに春が来たって言うなら、私がひと肌脱がなきゃ」
そんな声とともに足音が近づいてきて、私は咄嗟にカーテンを見た。
「いや、トラヴィス。余計なことしなくていいから。頼むからそっとしておいてくんない?」
ほんの少し苛立ちを含めた声色。そこに小さな期待を抱く。
「シュトちゃんこわーい。そんなんじゃ女性にモテないわよ?」
「モテなくていいの、俺には――」
「そうねぇ、エーレちゃん一筋だもんねぇ。あら、やだ。失言……でもないのかしら?
エーレちゃんは男性だし」
途端、胸が締め付けられた。エーレという人は男性なのに。それでも。
「もういいから、早くあっちいって。俺、彼女とデート中なんだから」
その彼の言葉と共に遠ざかっていく足音。
すでに着替え終えていた私はカーテンを開けるタイミングがつかめなくて、そっと顔だけ出してみた。
「うるさくてごめんね?」
すぐに気が付いた彼が腰を屈めて、見つめてくる。
その時にようやくカーテンを開けることができた。
私の姿を認めた彼が小さく息を呑んだのがわかった。
「どうかな?」
普段、私が選ばない少しスカート丈が短くて明るい色のワンピース。
しかし彼はそっと眉を寄せて、カーテンをゆっくり閉めたあと、顔だけカーテンの中に入れてきた。
「却下。たしかにアメリの脚はすんごく綺麗だけど、見せびらかすためにあるわけじゃないから?」
早口でそう告げた彼がさっとカーテンから顔をひっこめるのを見て、思わず笑い声が漏れ出した。
そうして数着購入しようと決めた明るい服たちの代金は彼が払ってくれた。
二つ目の宝物が手に入った瞬間だった。
随分と高い買い物だったはずなのに、彼はどこからか取り出した財布から現金で払う。
私がすぐにお礼をいうと、
「まぁ、こう見えてそれなりに稼いでるからね?
また依頼受ければいいだけの話だし」
当たり前のように彼はそう言った。
依頼。
それを聞いて彼がレギオンに所属していることを思い出した。
傭兵が集まる戦闘集団。そこに席を置くクランとその人数は、国が抱えている軍人より遥かに少ないけれど、戦力でいうと同等なのではないかと言われるほどに手練れが揃っていると聞く。
そんな危険なところに身を置くのは、国から保護を受けられない、もしくは国の圧力から逃れるためレギオンの保護を求めた人たち。
誰も口には出さないけど、それは公然の秘密のようになっていた。
彼に何があったのか知りたかった。そんな危険なところに身を置かずとも、平和な世界で生きてほしかった。
ヴァレッタ商会を継ぐ私なら、それを叶えることが出来る。
彼と出会ってから特に、仕事は順調だった。順調すぎると言っても良いくらいに。
ダメだと思っていた開拓先のほとんどと契約を結ぶことができたのだから。
頭の良い彼なら、すぐに仕事も覚えるだろう。
仕事なんかしなくても家のことをしてくれてもいい。
彼がこの短期間に一度だけ私に振舞ってくれた料理は、主婦も驚くほどの腕前だったのだから。
そうして日々は過ぎていった。
翌日も更に翌日も同じ夕刻に彼は迎えにきてくれて、少しお出かけをして、私の部屋に帰る。
目を覚ました時に彼がいることもあったし、いないこともあった。
日を重ねるごとに隣にいる回数が増えてきて、その大きな手が私の髪を撫でていくのに安心を覚えた。
休日は二人で首都郊外に出かけたり、美味しいと評判の店に何時間も並んだり、お腹いっぱいに食べたのに甘いものを食べに入ったり。
彼はよく食べたし、お酒をたくさん飲んでいた。
けれど、どれだけ食べても満腹を抱えているところは見たことがない。お酒に関してもいくら飲んでも酔わなかった。
彼の食事の仕方は入る店によって、随分と変わっていたことが印象的だった。
少しお高い店に入ると見事なまでの綺麗な所作で料理を口に運んでいた。かと思えば、大衆食堂にいくとどこかの輩のような行儀の悪さで料理を口に詰め込む。
その変わり身に最初こそびっくりしたものの、それすら可愛くて見ていて飽きなかった。
何度も体を重ねるごとに、彼のぎこちなさはなくなっていって、最初より彼の気持ちが伝わってくる。
自然と私と彼の生命力が触れ合って、綺麗な音色を奏でることもあった。
うまく愛せるかわからない、なんて弱音を吐いたことが嘘のようだった。
タイムリミットの半月のうち半分以上が過ぎたある夜。
彼はベッドに座る私の隣ではなくて、前に両膝をつけて、私を見つめてきた。
その瞳は愛しそうに細められて、灯るのは暖かい眼差し。
そっと彼の指が私のブラウスに伸ばされるのを見ていた。
「女の子の服ってなんでこう、脱がすのが大変なのかなぁ」
彼の指には小さいボタンに苦戦しながら呟かれた言葉。
「もう、私が自分で外すから」
そっとその手に手を重ねて、抑えると、
「いやいや、これは俺の戦いだから」と、わけのわからいことを言って、手を下から押し返してきた。
「戦いって、何と戦ってるのよ」と呆れて返してみると、
「え? うーん。そこにあるのになかなか外れない、俺を焦らしてくるボタンと?」
なんてことをいつもの口調で平然というものだから、「馬鹿なの」と彼の額を指でつつく。
「そうなんだよねぇ。俺って馬鹿らしい。もう毎日のように言われるもん」
やっと最後のボタンを外し終えた彼がそっとブラウスを肩へと落として、丁寧に脱がしていく。
放りだすわけでもない。そのまま丁寧にたたんで、テーブルの上に置いた。
男性にしてはあまりにも慣れているその手つきを何度も見てきた。
そしてまた同じ位置に戻っては、ジーっと私の胸を見つめてくる。
「こいつだ。こいつが最後の砦だ」
なんて真剣みを帯びたような声色と表情で、胸を包むものを睨む。
「ねぇ、それいつまで続けるつもりなの?」
彼のそんなところも好きだけれど、いつまで経っても甘い雰囲気に持っていこうとしなくて、思わず不満げな声が漏れ出る。
「え? だめ?」
彼は楽しそうに首を傾げて、変わらない飄々とした口調で言った。
一瞬視線が交わると音もなく立ち上がり、隣でやってくる。そして当たり前のように再び視線が交わった。
「じゃあ、お望み通り――」 スッと瞳が細められた。
「きっちり愛してあげようか」
一変、真剣な表情。それでいて、瞳の奥には悪戯さと余裕が光っている。
ああ、彼なんだな、と心に言葉にはできない何かが湧き出てきた。
伸ばされた片方の手が私の背中へと回されると、パチンと小気味いい音がして、するりと下着が肩から落ちた。そのまま唇を奪われる。
甘い太陽の香りがした。
そのまま大きな手がそっと私の背中を支えるようにして誘われ、私はその香りに溺れた。




