【過去編】 愛 ーLiebe ー
リーベ。
聖アメリアから銘打たれたそれは、私にとって最大の皮肉だった。
唯一守りたいと想う人に逃がされ、助けられ、再会のために全てを投げ打った私にとっての呪い。
私だけではない。
エーレもシュトルツも。その名を呼ばれるたび、目的と覚悟を確かめらさせられるように。
悔いても悔やみきれない過去を思い出させるように。
――それは名に刻まれた呪いだ。
七つある公爵の筆頭を担うヴェルマン公爵家。
王家との位置を明確にするための公爵家ではあるが、実質大公と変わらない王家に最も近い血筋を受け継ぐ家系。
王家の血が濃く入る私の外見は、王家のそれに似ていた。
月の光を浴びたような銀髪、クロノスの加護を色濃くあらわす金色を宿した瞳。
王国の人たちは、その外見を神格化する。
王家にクロノスの加護紋を持つ女児が生まれた際、ヴェルマン公爵家嫡男は王家に婿入りすることが慣わしであり、それがヴェルマン公爵家の最大の責務だった。
クロノスの加護を生まれ持つものは不思議と王家の女児として生まれる。
その血筋を王家に残すため、ヴェルマン公爵家がその責務と引き換えに多大な恩恵を受ける。
二人の間に生まれたのが女児である場合、王家に迎えいれられ、男児である場合はヴェルマン公爵家に迎え入れられる。
そうしてヴェルマン公爵家と王家は、深い縁戚関係を保ってきた。
王家にクロノスの加護を生まれ持つ女児が生まれるのは三世代に一人の確率。
先代クロノスの加護を持つ王女殿下が崩御されて随分と経ち、人々が待ちに待った国の宝。
すぐにその報せは耳に届いたが、当時の私はその報せを心から喜ぶことは出来なかった。
私より十も年下の、加護を身に宿す王女殿下。
早い段階で拝謁を許可された時は、ヴェルマン公爵家嫡男として生まれた責任の重さを十歳ながらに感じた。
金とも銀とも取れるあまりにも輝かしい髪と、クロノスの威信を受け継ぐ神聖な金の瞳。
そんな赤子はすくすくと豊かに成長していった。
’’アイリス・アウレリア・エヴァンジェリン・ディ・エーベルシュタイン’’
口の中で、何度も何度も繰り返したその名前。
王女殿下の伴侶として、彼女を支え守っていく責務。
彼女と対面するたび、何度考えても自分には相応しくないと頭を悩ませ、重すぎるそれに私の心は日に日に圧迫されていくようだった。
ヴェルマン公爵家唯一の子供であり後継者として、常に正しく、揺らぐことがあってはならない。
王家を支える筆頭として、一片の隙も見せては――いや、隙なんてもの自体があってはならない。
ヴェルマン家に、そのような概念は存在しない。
そう言うかのように、父も母も私に完璧を求めた。
そして私も、それに応えることが当たり前だった。
彼女が自分で立ち上がり、今にも転んでしまいそうな不安定な足取りで、私の元へやってきた時のことを、今でも鮮明に覚えている。
柔らかく繊細で、今にも溶けてしまいそうな絹糸のような髪に眩い光を溜め、大きな瞳をめいいっぱい開きながら私の名前を呼んだ、あの瞬間のことを。
「あ……あう、べ?」
小さな口からの呼びかけに、私は息を呑み、気づけばその場に跪いていた。
「王女殿下にはまだ発音が難しいようですね。どうぞ、お好きにお呼びください」
私の言ってることを理解しているのかもわからない。こんな幼子と接してきたこともない。
しかし、彼女は春の陽だまりのような笑顔を咲かせて、再び私の名を呼んだ。
「アイビー!」
私が十五の時。正式に婚約が決まった。
彼女はまだ五歳だった。
けれど大人相手に対等に話せるほど、聡明に育っていた。
「殿下、危険ですので……」
誰に対しても分け隔てなく、太陽のように人々を照らす。
まさしく神の加護を授かるに相応しい少女。
その期待に応えるように、日に日に賢くなっていく彼女への対応に、私は困り果てていた。
「アイビー。私、お城の近くを冒険したいと思います!」
してもいいか? ではなく、すでに決定事項。
彼女はこうして、私を困らせることが多々あった。
王女殿下に何かあれば、公爵家は責任を免れない。
彼女といる時間が苦痛なわけではなかったが、常に背に剣を押し当てられているような緊張感の中で過ごしている気分でもあった。
その冒険と称した散策中に、偶然見つけてしまったのだ。
城の北側、奥深くの林の中に隠されるようにして立つ屋敷を。
人の気配を感じないのに、綺麗に整備されているそれに異様なものを感じた私は半ば無理やり殿下を連れて帰った。
それからしばらくして、王女殿下が毎日のようにどこかへ足を運んでいることを知った。
私も学術や剣術、魔法の訓練に多忙を極めていて、それほど気にはしていなかったが、殿下からの誘いが減ったこと時期を遡ると、そのあたりだったことを後になって気づいた。
しばらく様子を見よう。そう言い訳をしているうちに月日は過ぎていき、彼女がどこかに足を運び始めて一年後。
私は重い腰をあげて、彼女の後をつけたことがある。
そこは、あの屋敷であった。
草陰に隠れて見守っていると、そこにはよく知る赤い髪の少年と、初めて見る漆黒の少年。
「お兄様! ヴィンス!」
嬉しそうに声をあげながら駆けていく殿下を見て、私は状況を理解することが出来なかった。
赤い髪の彼はどこからどう見ても、グライフェン伯爵家の嫡男である。
では、彼女が兄と呼んだ彼は……
王家の剣が隣にいて、アイリスが兄と呼ぶ人物なんて一人しかいない。
けれど、そんな……
王家にはアクシオン殿下しか男児はいない。それにあんな、あんな禍々しい色を持つ少年が王家の人間であるはずが……
動揺を抑えきれず固まってしまった私は、前に出ることはおろか、踵を返すことも出来ずにその場に留まっていた。
「ねぇ、そこの君。出ておいでよ」
少年にしては少し高い、鈴のようで凛とした声色がかけられても、しばらく気づけなかった。
「アイビー!」
大きく呼びかけながら駆け寄ってきた殿下の姿を見て、ハッと我にかえり、おずおずと草陰から出た私は、彼女に誘われるがまま少年二人へと対峙することになった。
グライフェン嫡男が、私を見て嫌そうに眉を寄せたことをよく覚えている。
「お兄様!」
殿下は私を示しながら、「アイビー!」と紹介する。
「ああ」と黒髪の少年は納得したようにして、こちらへと冷めた瞳をむけてきた。
その奈落色の瞳は底が見えず、全身に怖気が走った。
「君が……ヴェルマン公爵家の、アイリスの婚約者だね」
父や母に感じるものとは違う。圧倒的な恐怖を感じて、その瞳から目を離せずにいると、
「怖がらないで。僕はシオン。アイリスの兄だ」
宥めるような声色がして、私は彼の脚へと寄り添っているアイリスへと視線を落とした。
「アイビー。こっちがお兄様! こっちがヴィンス!」
ようやく少しの状況を飲み込めた私が今すべきことは一つだった。
すぐさまその場に跪いて頭を垂れる。
「ご無礼をお許しください。
私はヴェルマン家嫡男。アルベルト・フードリヒ・ヴェルマンと申します。ご拝謁賜り光栄でございます」
その場が妙な沈黙に包まれた。
数秒のちに視界の上にあまりにも綺麗な手が映った。
「ヴェルマン卿。ここではそういうのはなしなんだ。僕は名を持たない。だから恐縮しないでほしい」
そっと顔をあげると小さく微笑まれた口元と、困ったように下げられた眉。
そして隣には不満そうなグライフェン嫡男の顔があった。
「俺の主は寛大ですからね。ヴェルマン卿。立ってください。
貴方がいつまでもそうしてらっしゃると、シオンもアイリスも困ります。勿論俺も」
それがシオンとヴィンセント、アイリス、そして私の小さな世界の幕開けだった。
この屋敷は、私の常識の範囲を逸していた。
シオンの存在も、彼らの関係も、その他の全てが私にとっては違う世界に迷い込んだような感覚だった。
王家の闇。彼を主に選んだグライフェン嫡男ヴィンセントは、主であるはずの少年と友達のように接している。
言葉に敬いの色を交えることは一切なく、それどころか主に対して無礼な発言を繰り返し、笑い飛ばしさえした。
王女殿下に対しては、まだ発言内容は弁えてはいたものの、そこにかしこまった響きはない。
まるで本当の三兄妹を見ているようだった。
「アイビーもアイリスのこと、アイリスって呼んでほしいの」
ここにいる彼女は、大人のような振る舞いをやめた年相応の少女だった。
私はなかなか受け入れられなかった。
それでもこの屋敷に足を運ぶことはやめられなかった。
何故かなんて自分でもわからないまま、月日は過ぎ、私はこの陽だまりのような時間に充足を感じることが増えてきた。
常に正しくあらねばいけないという、大人たちの目もない。
年相応の振る舞いをしても、誰も咎める人はいない。
ある日、春の流星群を見に行こうとヴィンセントが提案した。
それは私にとって、あまりにも大きな冒険だった。
名も添えずに私へ呼びかけたヴィンセントに対し、彼を諌めた王子殿下から謝罪を向けられた際、口をついて出た言葉こそが私の本音だったのだろう。
「私たち四人の小さな世界で爵位での隔たりなど、あってないようなものです」
そこには小さな願いも込められてあった。
もっと彼らと打ち解けて、いつまでもずっとそうであれれば……
夜中に屋敷を抜け出し、小さな森を抜けて、打ち捨てられた連絡塔へと上る。
頑丈な金網をこじ開けることに必死なヴィンセントを見て、楽しいと思った。
これが楽しいという感情なのか。そう感じられたことを私は嬉しくもなった。
夜空に流れる星を見て、将来を語り合った瞬間を忘れるはずがない。
あの頃は私にとって、かけがえのない時間だった。
ずっとこれが続けばいい。自然とそう願っていしまっていたほどに。
そう、あまりにも大切になりすぎてしまっていた。
貴族社会に友達という概念なんて、本当は存在しない。
利用するかされるか。懐柔し、操るか、諂うか。
幻想のようなこの世界にも、いつか終わりがやってくる。
四人の世界と大人の世界を行き来しながら、私の絶望は徐々に大きくなっていった。
時間が止まってしまえばいい。心からそう願った。
私たちだけはいつまでも、その現実に当てはまることはない――特別であろう。きっとそうなれるはずだ。
そんな淡い希望も抱いていた。
大人の世界であらゆることが大きく変わっていくのを、私たちはただ黙って見ているしか出来なかった。
あまりにも唐突だった。
ヴィンセントが廃嫡され、アイリスは城の奥深くに匿われ、私がシオンを訪ねても、彼は顔を見せなくなった。
王家に謀反を起こそうとしている勢力。王家に深く連なる私たちが、背を向けるという選択肢は存在しない。
成人を迎えようとしていた私も共に剣を取ったが、あの時のことはよく覚えていない。
気が付けばアイリスと共に、城深くに幽閉されていた。
思い出したくもない。愛する女性の枷として、そこに存在していた過去なんて。
その中でも彼女は聡明だった。
彼女が生まれ持ったクロノスの加護。その能力は、’’選択的未来視’’
当人が望んだ時に、いくつかの未来を垣間見ることが出来る。そんなあまりにも貴重で強大な力。
その真実を知る人たちは全員王弟に滅ぼされてしまっていた。
だから彼女は嘘を突き通した。
少なくても三つは見える選択的未来のうち、一つしか見えないとして、その結果だけを伝えていた。
私はただただ隣で黙して、それを聞いていただけだった。
強大な力の反動はすさまじい。
一度未来視を行うと体内の生命力が根こそぎ消費され、その回復には通常の数倍を要する。
未来視を強要され、その度に意識を失っては数日起きない。そんな彼女の隣で私に出来ることは何もない。
生涯を通して守ると決めた相手に、守られ続ける日々が続いた。
罰だと思った。身の丈に合わない願いを抱いた私に対する罰なのだと。
体調の回復しきらない彼女に未来視を強要してくるたびに、私は制止を求めた。
その度に打たれたが、それでもやめさせたかった。
しかし状況は悪化していくばかりで、イグリシウムの枷をはめられた私に対抗する術はなかった。
どれほどの月日をそうしていたのか――
このままではアイリスの命が長く続かない。
忌避が現実になろうとしていた時、寝込んでいたはずのアイリスが唐突に目を覚まして口にした。
「お兄様、ヴィンス……!」
あまりにも久しく耳にした名前に、私の胸は押しつぶされそうだった。
その言葉に彼女の死期が近いという焦りが過った。
彼女が同じクロノス加護紋を通して、二人が加護と権能を授かったことを知ったということを私が知るのは、随分後のことだった。
すぐに彼女は行動を起こした。
「あともうしばらく……そう、後一年と経たず城が襲撃されます。
その時に貴方は逃げてください」
それは現実となった。
襲撃される日も、時刻も、そして私が安全に逃げられる道も、その全てを彼女が用意した。
彼女が初めて自ら望んで使った加護だった。
アイリスだけを残して、私だけが逃げるわけにはいかない。
しかし、彼女は決して譲ろうとはしなかった。
「このままでは私たちを待っているのは死だけ。アイビー、貴方を信じています」
愛する人に託された信頼。
ここで彼女と死を待つ選択しかなかった私が背負った、あまりにも重すぎる一筋の希望。
急かすように背を押してきた彼女が最後に言った言葉に、私は応えることも、振り返ることも出来なかった。
「愛しています」
どうやって城から逃げ出したのか記憶は曖昧だ。
シオンとヴィンセントを見つけた時には全身は血まみれで、涙は止まらなくて――なのに、私は笑っていた。
全てが全て、敵に見えた。
行く手を阻むものは、アイリスを害するものは、躊躇いなく殺そうと誓うまでもなく、自然とそう思った。
そうして私はシオンの手を取り、自らの心臓に剣を突き立て、クロノスの加護と権能を授かることになる。
そう、アイリスを害する私は死んで当然だったのだから。
守りたいと思うものに守られ、逃がされた。
愛していたはずの彼女に、愛を応えることも出来ずに背を向けた。
’’Liebe’’
古代言語を学んで知ったその意味を深く心に刻んだ。
この名前は私にとって、罰であり呪いであるべきだと。
今ではもうわからない。
私は本当にアイリスを愛しているから、ここにいるのだろうか?
それともただ……私が赦されたいだけなのではないだろうか?
わからない。わからない。それでも止まることは私が許さない。
この道の果てで、彼女が私の名前を再び呼んでくれた時。
きっとその答えがあると――私はそう信じている。




