水魔法の本質
ユリウスは一度陽を見上げ、次に海を見渡し――そっと目を閉じた。
途端、先ほどと同じように、辺りのあらゆる情報が五感を駆け巡り、体の感覚が遠のいていく。
目を閉じているはずなのに、どこに何があって、それがどの程度離れているのか。
波がどんな形で押し寄せて、引いていくのか手に取るようにわかる。
それは目を開けて見るよりも鮮明で、身近なものだった。
自然の中に溶け込んで、一つになっていく。
本当は自分という存在は、初めからいなかったような錯覚に陥る。
それは、そうなることが当たり前であるかのように、あまりにも自然な感覚だった。
意識が遠のき始めたところで「目を開けるんだ」という声で、我に返った。
上を見上げると、リーベが困ったような顔で、こちらを見下ろしていた。
「入ってしまうと考えがまとまらなくなっちゃって……つい……」
言い訳がましい言葉が、つい口に出た。
けれど、嘘ではない。
同調してしまうとつい、思考が遅れを取ってしまう。
その言葉に対してリーベは逡巡する様子を見せたのち、ユリウスの隣に腰を下ろした。
「最初に認識のズレを正した方がいいか」
「認識のズレ?」
「エーレが言っていただろう。理解が追い付いていないと」
その言葉は確かに、昨日から引っかかって気になっていた。
「そもそも、水の精霊の本質は何だと思う?」
「え……」
その問いかけに、ユリウスは思考が止まった。
水の精霊に同調し、魔法を行使することを、世間では’’調和の力’’と呼んでいる。
だから、その力を扱える人の本質も、調和と区分されていた。
精霊の本質とは何か――という議題を、ユリウスは今まで見聞きしたことはない。
何故なら調和の本質を持つ人間は、水の精霊と同調できるという事実から、水の精霊の本質はすなわち調和である。
それが言葉にする必要のない、共通認識だったのだ。
「調和だと思ってたんですけど……」
「なら、調和とは一体なんだと思う?」
「何って言われても……」
調和は調和であって、それ以外考えたことはない。
「言い方を変えよう。調和というのは嚙み砕くと、どういうことだと理解している?」
調和を本質とする人間は基本、前に出ることを好まず、人々の調整役に回ったりする、縁の下の力持ちのような性格が多い。
「誰かと誰かを繋ぐような、バランスをとるような性質なんだと……」
ユリウスはどうにかそう言っては見たものの、自信がなくて語尾が萎んだ。
「ズレというのはそのことだ」
理解が追い付かず、ユリウスは沈黙した。
調和の解釈にズレがあるのだろうか?
「つまりリーベさんたちは」と繋げたユリウスに、「敬称はいらない」とリーベは口を挟んだ。
「リーベ……たちは、調和の解釈を別にしてるってことですか?」
「そうじゃない。たしかに調和という解釈が、完全に間違っているとは言わない。
けれど、調和と一言で、まとめてしまうには足りない。
水の精霊――彼らの本来の本質は、調和だけではないんだ」
「え……だって……」
「私たちが水の力のことを、一度でも調和の力といった記憶はあるか?」
ユリウスは、彼らと出会ってからの会話を思い出せる範囲で辿ってみた。
たしかに彼らは、一度も調和の力とは呼んでいなかった。
どの会話においても、水の力と呼んでいた。
それで会話は成り立つし、特に気にも留めていなかった。
「じゃあ、リーベたちがいう水の精霊の本質って、一体……」
「そもそも精霊にとっての本質や感情というものを、人間の解釈によって言語化するのは難しい。
口では調和といいながら、感覚ではそのズレに気づいて修正できている人も稀にはいる。
だからこそ、そうでない者には、なるべく正確に言語化する必要がある」
リーベは長い前置きを置いて、ようやく答えを口にした。
「私たちが定義した水の本質は――’’共感と支配’’だ」
ユリウスはまるで聞き覚えのない言葉を、耳にしたような感覚に陥った。
提示された定義をユリウスはどうしても飲み込めない。
「待ってください」つい、身を乗り出して声が大きくなった。
「共感はまだわかります。たしかに調和と似てるけど違う。
それが本当なら、そこのズレは認めます。
ただ支配というのは頷けません。共感とは真逆じゃないですか」
「本当にそう思うか?」
その声は、耳に刺さるほど冷ややかだった。
突然の彼の声色の変化に、ユリウスが驚く間もなく、リーベから水の魔法を感じた。
間を置かず、ユリウスに彼の生命力が流れ込んでくる。
これを受け入れてはいけない――ユリウスは本能的に、そう察して抵抗しようとした。
自らの生命力でそれを押しのけようとした時、ほんの一瞬だけリーベの心が垣間見えたような感覚あった。
それもすぐにリーベの力に押し負けて、心の中に土足で入り込んでくるような嫌悪感。
しかしそれは一瞬の出来事で、次の瞬間にはその嫌悪は跡形もなく消え去り、それどころか慰められるような安心感を覚えた。
流れ込んでくるのは彼の感情――ユリウスを理解しようと、寄り添ってくれるような……
それはあまりにも優しくて温かく、今まで経験したことのないものだった。
父に抱擁されるとこんな感覚なのだろうか? と想像してしまう。
そこに、愛情を感じてしまうほどの安息。
これが……彼のいう共感なのだろうか?
このまま無防備に、心を曝け出してしまいたい。
彼にすべてを知ってもらい、保護を求め、いやそれでは足りない。
彼に、帰依してしまいたい。
突如、胸からあふれ出したこれは、感情ではなく本能に近い。
親の庇護なしでは生きられない幼子が持つような……
このまま本能に抗うことすらやめてしまおうと思った途端――まるで押し寄せてきた波が引いていくかのように、それまでの感情が薄れていった。
ぼんやりしていた思考が、徐々にクリアになる。
「どうだ、知っている感覚ではなかったか?」
ユリウスはすぐには理解できなかった。
こんな安心感を得た記憶は、ここ数年にはない――
だが、リーベが言いたいのはそれではないのだと、すぐ気づいた。
彼の力が、抗いがたい帰依の感情を生み出した。それは……
心の芯が捻じ曲げられ、それに気づくことすら困難な感覚。
ユリウスの脳裏に、一人の顔が浮かんだ。
誰よりも近く、誰よりも恐ろしい存在。
逃げたくてたまらなかった相手。
皇帝——ユリウスの父。
「手加減したつもりだ。もっと残酷な力の使い方もある。
頭で理解できないなら、感覚でわからせた方が早い」
暴論も暴論であったが、たしかにユリウスはこれが水の力であり、共感と支配なのだと認めざるを得なかった。
そして父もこの力を使って、自分を支配しようとしていたのだと。
「共感と支配」
ユリウスは今一度、確かめ飲み込むように呟いた。
「じゃあ父上……皇帝は、水の力の本質を理解してるということですか?」
先ほどの感覚は、ユリウスにとって馴染み深いものだった。
父である皇帝は、いつの間にかユリウスにとって、絶対的な存在になっていた。
ユリウスがその支配から逃れられたのは、衝撃的なきっかけによる一時的な解放だった。
今思うと、それまでの自分は正常ではなかった。
皇帝は、水の精霊の本質を理解しているのか?
そのユリウスの問いに、リーベは緩く首を振った。
「貴方は水の精霊との同調率が特に高い。
それは、ある場合においては、加護のような側面を持つこともある。
しかし、本当の意味で本質を理解して使いこなせる相手だと、今の貴方じゃ抵抗できないだろう。
たとえ、どんなことがあっても簡単に支配は解けたりしない。
つまり、皇帝は未だ完全な本質の理解には、たどり着いていない」
確信をもった口調だった。
ユリウスには皇帝とリーベの力の波動の違いが、はっきりとはわからなかった。
けれど、彼のいうことが本当なら、今こうして皇帝の支配から抜け出せのたが、その証明だ。
ユリウスは、ほんの少し安堵した。
水の力を使いこなせるようになれば、皇帝に対抗できるようになる可能性はある。
安堵の表情を見せたユリウスに対して、リーベは「話を戻すが」と続ける。
「支配ではないもう一つの側面――共感は、つまり寄り添うことだ。
寄り添うというのは、相手の感情に溺れることではない。
相手の意見や感情を理解し尊重する。
相手の感情に共鳴するが、自分のというものはしっかりもっておく。
違いがわかるな?」
リーベの説明に耳を傾けたユリウスは、自信なさげに頷いた。
頭では理解できるが、経験が伴っていない。
ユリウスは常に強者の意を受け入れ、それに流されて生きてきたからだ。
王城から逃げ出したのも、衝動で向こう見ずな勢いだった。
皇帝の支配下にあったため、自分が何を考えていて、どうしたいのかユリウス自身が理解していなかった。
その後、三度ほど瞑想を繰り返したが、結果は同じだった。
申し訳なさそうにするユリウスに、リーベは鞄からパンと干し肉を取り出した。
「そんなすぐにできるものではないから、気にしなくていい」
ユリウスは彼から食料を受け取ると、急に空腹を感じた。
リーベの「しばらく休憩しよう」と言う言葉で、ユリウスは手の中のパンへと齧りついた。




