初めての海
大通りに出るとリーベは露店で、いくつかのパンを調達だけして外門へと進んだ。
そのまま門を出ると、リーベは「しばらく歩く」と一言告げる。
彼の先導で街の防壁に沿って西に進み、防壁が途切れても更に真っすぐ西に進んだ。
辺りは豊かな草原で、春先の今――色とりどりの花が芽吹き、蝶や鳥たちが楽しそうに戯れている。
そんな長閑な風景を見て、ユリウスは先ほどの葛藤を忘れ、心が洗われるような感覚になった。
柔らかな風が頬を撫でる。風に運ばれる草花の香りに、鳥の囀り。
空は晴れ渡っていて、気温も丁度いい。
その中を、一刻は歩いただろうか。
ユリウスの周りで奏でられていたハーモニーに、新たな音と匂いが加わった。
初めて目にする光景を求めて、彼は勢いよく被っていたフードを取った。
一面に広がる水と潮の香り。
海水が白い泡を立てて、押しては引いていく。
陽を反射して海は眩いばかりに光り、目が眩みそうだ。
二人がたどり着いたのは、海を見渡せるなだらかな丘だった。
南側――ユリウスの左側の丘は、緩やかに盛り上がり、その先で小さく突き出していた。
しかしその突端は途中で途切れ、そこから先は切り立った崖になって、海へと落ち込んでいる。
あそこまで行けば、更に間近で海を見下ろせそうだった。
逆側――右側の丘は穏やかに傾斜を下ろし、やがて小さな砂浜へと続いていた。
切り立った崖の下にはアーチのような天然の洞窟が出来ている。ユリウスはその風景に心打たれた。
砂浜が途中で途切れ、天然の洞窟が海の中であることは残念であったが、この風景を頭に留めておいていつか絵にしたい。
強くそう思った。
この国に、こんな綺麗な景色があるなんて思ってもみなかった。
城内でよく見かけた金銀であしらわれた煌びやかな飾り、宝石を散りばめたドレスやアクセサリー。
職人の作った精巧な彫像。豪華なタペストリー。
過去に目にしてきたどんなものよりも今、目の前に広がる風景が圧倒的に美しかった。
魅入られて足を止めたユリウスに気づいたらしいリーベが振り返る。
しかし急かすでもなく、彼も同じように海を見渡した。
「まだ冷たいが、行ってみるか?」彼が砂浜の方へ視線を投げた。
「行きます!」
城を出て初めてだ、こんなワクワクした気分は――
弾けた声に急かされるようにユリウスの足は自然と駆け出し、リーベを追い越して、砂浜へと向かっていった。
丘から砂浜までは思ったより距離があった。
着いたころには息が切れていた。
でもそんなのものは、目の前に広がった未知への期待感の前では、気にもならなかった。
砂浜に足を踏み入れると、不思議な感触に気づいた。そっと、それを手で掬ってみる。
サラサラと落ちていく砂、散らばる貝殻。
ここに座り込んで何度もそれを試したい、貝を集めたい――
そんな衝動に駆られたが、ぐっと我慢して顔をあげた。
眼前に迫った海に、息を呑む。
「綺麗だ」
自然と口から零れた言葉が、遅れて耳に届く。
ユリウスはそれに言い表せない違和感を覚えた。
綺麗では足りない。この美しさはそんな言葉じゃ表現しきれない。
光の宝石を散りばめた青い絨毯。それが足元まで押し寄せては、掴みどころなく離れていく。
足元にやってきた海水に手を伸ばした。
思った以上に冷たい。それが更にユリウスに喜びを与えた。
このまま海へと駆け出して、あの先、地平線まで行ってみたい。
どこまでなら足が付くのだろう。どれくらい深いのだろう。
僕は泳いだことがない。泳げるだろうか?
色んな妄想にも似た想像が、頭の中を駆け巡る。
足元を行き来する海水を今度は両手で掬った。
見渡したら青いのに、手で救ってしまえば普通の水となんら変わりない。
知識では知っていたけれど試さずにはいられなかった。
掬った海水を口に含んでみる――
想像の上をいく辛さに、反射的に海水を吐き出した。けれど、それすら嬉しくて、気づけば声を出して笑っていた。
不思議だと思った。
海は水が一面に広がっていて、その水は塩分を多く含んでいる。
その通りのはずなのに、実際は見て感じると思っていたのと全然違う。
ユリウスは広がる海を見つめて、そのまま憑りつかれたように立ち尽くしていた。
――波の音と陽の反射、鳥の絶え間ない鳴き声、風のそよぎ、潮の香り。
そういったものが次第にユリウスの中に溢れてきて、一度に押し寄せてくる。
周りの自然と一体になって、体の感覚が消えていく。
ユリウスは風になり、鳥になり、やがて海に沈み、海水の一滴となって溶けていった。
このまま自我を捨て、この中に溶けて、一部になってしまいたい。
自分が誰で、何をしていて、何を考えていたのか。わからなくなっていく。
それがユリウスに、更なる多幸感を与えた。
その時、肩への衝撃でユリウスの意識が自身の体に引き戻された。
「同調しすぎだ」
いつの間にか後ろまで来ていたリーベの声に、ユリウスはハッと我に返った。
「すみません」
「責めてるわけじゃない。短時間でそこまで同調できるのは才でもある。
けれど行き過ぎるとそれは同化だ。飲み込まれるぞ。
自分を手放しかけていただろう?」
ユリウスは先ほどの感覚を思い出して、頷いた。
「たしかに魔法は、精霊との同調率高ければ、行使できる幅が広がる。
しかし、そこには明確な線引きが必要だ。
私たちは個としての自分を明確に持ちながらも、精霊たちと同調する。
彼らに引っ張られる同調の仕方は、いつか身を滅ぼすことになる」
淡々とそう言ったリーベは、来た道を少し戻る。
そこには大きな岩が一つ鎮座していた。
ユリウスは波の音を背に、岩のそばへと歩み寄った。
「どこから教えるべきか……人に教えるのは、得意ではないんだが」
リーベは口調も抑揚も、いつもと変わりない。
淡々としすぎていて、冷たくすら感じる。
表情も乏しく感情もほとんど出ない。
けれど、珍しく眉を寄せているところも見ると悩んでいるようだ。
「あまりにも初歩的だが、貴方の場合、瞑想からやり直した方がいいかもしれない」
「瞑想?」
瞑想が何かを聞いたわけではないし、力の鍛錬として瞑想をするという話も聞いたことがある。
ただユリウスは、調和の力の訓練で、瞑想なんて方法を取ったことがなかった。
「まず同調しながら、自分と周りの境界線を作るんだ」
「境界線って言われても……」
「壁を作れと言ってるわけじゃない」
リーベは岩から少し離れた砂浜に円を描いた。人一人分の円だ。
「この場に、同調しながらも個を保つ。
多幸感を感じただろう?
境界線をきちんと引けていれば、その多幸感の種類が変わる。
自分が今ここにいることを意識するんだ」
そう説明を聞いても、ピンとこない。
ユリウスは促されるままに円の中に胡坐をかいて座った。




