回帰する盤面の行方
鼻から大きく息を吸い込んだ酸素を、勢いよく吐き出す。
――よし
目の前の扉を見据えた。
何を聞きたいのかわからないし、何を話せばいいのかもわからない。
それでもこの扉を叩きたい。
そっと手をあげた時――扉がひとりでに内から開かれた。
先に見えたのは赤い髪。
扉が半分開かれたのを知って、口を開きかけた時「しぃー」と彼が口元に指を立てて、部屋の中を目で示した。
僕は息を殺して、首を伸ばす。そこには、ベッドで眠っているエーレの背があった。
足音を殺して部屋を出たシュトルツは、そっと扉を閉めるとこちらへ振り向く。
「エーレさん、珍しくよく眠ってるから。起こさないであげて」
囁くように、声を落としていった彼に釣られて、ゆっくり頷く。
踵を返した彼が肩で手を小さく振る。ついてこい、ということなのだろう。
足音を出来るだけ殺しながら、隣の彼の部屋へと招かれた。
部屋に入ると、僕は詰めていた息を吐き出して、力を抜いた。
ぐるりと見渡した彼の部屋は、僕の部屋と違って色んなものが置かれてあった。
本棚には、たくさんの本が詰められている。
キャビネットの上には立派なチェス盤がおかれてあって、部屋の隅にはこれまた立派な観葉植物が飾られてある。
他にもオルゴールや、天球儀、部屋の隅には放置されている画材、にヴァイオリンのケース。
その全てが過去のシュトルツのために、コンラートが用意したものであることが見て取れた。
「まぁ、適当に座ってよ」
足を迷わせていた僕に、部屋の左側奥にあるベッドに腰掛けたシュトルツが言う。
逡巡したのち、部屋の中央にあったソファーに腰掛けた。
少し離れて正面にいるシュトルツに、何を話せばいいかわからず、視線が落ちた。
視線の上側で長い足が組まれるのが見えた。
「稽古は順調?」
短い沈黙を破ったのは、目の前に優しく置かれるような彼の声色。
「まぁ、たぶんそれなりには……」
歯切れの悪い僕の返答に、シュトルツが小さな笑いを上げた。
「ごめんごめん、そういう気分じゃないのはわかってるよ」
言葉に誘われるように目をあげると、彼は両手を後ろにつき、長い足を前に投げ出すようにして、こちらを見下ろしていた。
「その様子だとエーレさんのあれ。見たんでしょ?」
「どうして知って……」
ニヒルな――冷めたような眼差し。
いつか彼が見せた、感情の籠らない残酷さを秘めたようなそれに、僕はつばを飲み込んだ。
しかしそれも一瞬で、彼はゆるりと口元に笑みを浮かべて、首を傾げる。
「前回も前々回も君、どうしてかこの屋敷で、エーレさんと風呂でエンカウントしてたんだよねぇ。いやぁ不思議だよねぇ」
「エンカウントって……」
そんなゲームみたいな……
僕はそれ以上言葉が続かなくて、彼の言葉を待っていた。
体を起こした彼は、そのまま勢いで両肘を膝の上に置く。前屈みの姿勢で僕をジッと見据えてきた。
口元は緩やかに弧を描いている。けれど瞳は笑っていない。
「エーレさんに何を聞こうとしてたの?」
口調は変わらないものの、嘘を許さないような芯の通った声色だった。
けれど、僕につける嘘なんてなかった。
エーレのあの言葉は、僕にはうまく整理できない。そしてシュトルツも同じように、飲み込めていないのかもしれない。
そう思うと、視線がテーブルの木目の模様へと下がっていった。
「わかりません」
ぽつり。わからないことを謝りたくなった。
「僕は」ぐっと頭を上げる。こちらに向けられたままの瞳の奥底で、揺らめく炎が僕を試しているように感じた。
「僕は、きっとエーレに責められたかったのかも……怒りと憎しみをぶつけてくれた方が、僕が楽だと思ったのかもしれません」
言葉を続けるたびに、やはり視線を重力に負ける。
それは自分の本音に心が圧迫される重みだった。
「ほんっとおこちゃまって、呆れるほど真面目な癖して、我が儘な生き物だよねぇ。
ああ、逆? 真面目すぎるからかな?」
その言葉に思わず眉を寄せる。何も言い返せなかった。
「気にしなくていいよ」
続けられたシュトルツの言葉が宙に漂った。
言っていることを理解したくなくて、その残響を探すように僕は視線を上げた。
「意地悪してみただけ。気にしなくていいよ」
「いやだから、僕がそうできなくて――」
そうではない。エーレも……シュトルツまでそう言うと、この気持ちはどこに持っていけばいいのか。
何も知らず城で生きてきた間に、エーレは――今隣にいる仲間は、父のせいで酷いでは到底言い表せないほどの目にあってきたというのに。
何も詳しく語られないまま、一言も責められることもなく、ただ気にしなくいいと言われても、僕がそうできなかった。
それでも聞こえてきた声は静かだった。
「君にとっては初めてかもしれないけどさ。俺たちにとっては終わったことなんだ」
ほんの小さな悲しみを帯びたそれは、どこか遠くに流れていく。
「4度目だよ。エーレは毎回、牢獄から出てきた時点から始める。
やせ細った体を抱えて、君に出会うまでの間、気の遠くなるような訓練を積む。
今更君を憎んだり、恨んだりする心の余裕なんてないんだよ」
事実を事実として、説得するように告げられた彼の言葉に、やはり何も返す言葉は見当たらなかった。
僕が今こうして訓練を積むだけで、命を削るような思いをしているのに、エーレはそれを何度も1から繰り返してきた。
「まぁ、安心してよ」
シュトルツが立ち上がる気配があった。彼はぐるりと僕のソファーの後ろへと向かっていく。
その背を追うと、彼はキャビネットの前で立ち止まった。
「1度目の君に対しては俺たち全員、もうこれ以上ないほど憎しみを抱いてたから」
乾いた笑いをあげながら、彼はキャビネットの上のチェス盤を持ち上げた。
そのまま目の前のテーブルにそれを置くと、向かいへと腰かける。
節のはっきりとした長い指が駒を並べていく。
木製の盤に、象牙の駒が並んでいく様子を、ただ見ていた。
彼側に、白の駒が全てを並べ終えられるまでの小さな沈黙。次にその手が、黒の駒を取る。
「それに2度目」
コトン、と音を立てて、黒のキングが僕の手元のマスへと置かれた。
「皇帝を討ったのは、エーレだよ」
予想外の事実に、僕はキングから彼の指先を、その指先から腕を辿って、彼の瞳を捉えた。
濡れたような瞳と、悲しげに寄せられた眉。
「皇帝をその手で討って復讐を果たしても、エーレに得られたものはなかった」
――復讐。
彼は一度、それを成したのだ。
それでも彼は救われなかった。
では彼を今、突き動かすのはなんなんだろう。
駒が視界の下でどんどん並べられていく音を聞きながら、彼らの繰り返される人生を想像することはもう出来なかった。
「それでもさ」
クイーンを取った手が、僅かに止まって揺れた。
彼は盤面を見つめたまま、伏せた目は変わらず悲しげな何かを宿していた。
「エーレは未だに憎しみの数を数えて、自分を保ってる。
どんなに生きても、回帰するごとに俺たちにとっては数年前の出来事で、体と頭は否応なく反応するからね。
どんなに遠ざけたつもりでも、いつまで経っても遠のくことはない」
クイーンがキングの隣で音もなく配置される。
「まるで――」それを最後に盤面が整った。
「これは終わることのない呪いだよ」
あちら側の白の駒。こちら側の黒の駒。
綺麗に並べられたそれはまるで、何度も1から回帰を繰り返す彼らの人生のように見えた。




