蔓延る影
湾港都市レネウスのレギオンに3日宿泊することになったユリウスとエーレ、シュトルツ、リーベ。
3日後に湾港都市を出て、王国に渡るという彼ら。
出航までの間、シュトルツは船の手配や買い出し、エーレは野暮用、そしてユリウスはリーベに魔法を教えてもらうことになった。
翌日。
ユリウスが目を覚ますと、同室のシュトルツはいなかった。
彼は昨晩、ユリウスが眠ってしまうまで部屋に戻ってこなかった。
そもそも部屋に帰ってきたのかすら怪しい。
リーベが迎えに来てくれると言っていたのが――ハデスの時、第二刻(10時)。
支度を終えたユリウスが時計を見たのが、丁度約束の時間。
同時にノックが転がった。
思った以上に、律儀な性格なのかもしれない。
そのままエントランスホールに降りて、ユリウスは軽く朝食を食べることにした。
朝食には遅い時間だったのか、エントランスホールは空いていたため、4人席を広々と使うことにした。
朝はコーヒーしか口にしないというリーベ。
彼が瞳を伏せて、カップを口元に運ぶ様子はまるで一枚の絵のようだった。
――リーベの所作や雰囲気も、レギオンでは十分、浮いているような気がする。
ユリウスは彼を盗み見ながら、出来るだけ待たせないように咀嚼するスピードを上げた。
彼が無口なのは知っていたが、特に何かを話しかけてくる様子はない。
沈黙に気まずさを感じて、ユリウスが視線を逸らした先――扉の方で、すでに見慣れた二人の姿を見つけた。
エーレとシュトルツだ。
隠蔽によって、他の人たちからどう映っているのかはわからない。
しかしユリウスの瞳に映る彼らの容姿は、良く目立つ。
彼らの両手には、何やら大量に詰め込まれていそうな大きな麻袋が下げられてあった。
「何してるんですかね」
ユリウスの視線を追って、リーベも彼らに気づいていたようだった。
「ああ」彼はそう、答えてコーヒーを飲み干す。
「エーレの言っていた、野暮用の一つだろうな」
あんな大荷物を持った野暮用って……
「ついて行ってみるか?」
「え、いいんですか?」
驚いて、リーベをジッと見つめた。
どうせ何も教えてくれないのだろう……と、たかをくくっていたユリウスには、青天の霹靂とも言える提案だった。
彼はユリウスの視線から逃れるように、空になったカップに目を落とした。
「エーレは見られたくないかもしれないが……」
彼らが見られたくない野暮用――気になる。
二人して大荷物を持って、何をしようと言うのか。
もしや、違法な取引なのでは……
「ついて行きましょう!」
そう言って、扉の方を見た時にはもう2人の姿は消えていた。
カップを持って立ち上がるリーベを見て、ユリウスは残りの食事をかきこみ、それを水で流し込んだ。
「行先なら把握している」
彼がエーレたちの行先を把握しているのなら、もう少しゆっくり食べればよかった。
ユリウスはそう思いながらも、重いお腹を抱えて立ち上がった。
まだ陽が頭上にきてもいないのに、街は人で溢れかえっていた。
その中をリーベは迷いなく進んでいく。
彼に置いて行かれないように必死で歩を進めていくユリウスは、何度か人にぶつかって謝る羽目になった。
レネウスは、どこもかしこも賑わいを見せている。
街中がお祭り騒ぎのようだ。
そう思っていた矢先。
彼が曲がった路地を通り抜けると、突然ガランとした通りに入った。
まるで違う街に迷い込んだような、奇妙な感覚に陥った。
みんな中心部に出かけていて、出払っているのかもしれない。
最初こそ、そう思ったものの、先へ先へと進むごとに街の風景が変わってきた。
大通りで見たような、淡い色で統一された整った建物はない。
色褪せ、灰色や茶色に変色した――強い風が吹くと吹き飛ばされてしまいそうな家屋が立ち並んでいた。
まだ昼間だというのに薄暗く、空気も淀んでいて埃っぽい。
「リーベさん」
不気味な雰囲気に思わず、前を行く男の名前を呼んでいた。
「どこにだって陽があれば影がある。もうすぐ着く」
リーベが振り返らずに言った。
エーレとシュトルツは、何のためにこんなところに来たのだんだろう……
やはり何か、後ろめたい事情があるのではないか。
ついて行こうなんて、言わなければよかったのかもしれない。
後悔を感じながら、ぼんやり歩いていると突然、目の前に背が迫ってきた。
前を歩くリーベが立ち止まったのを知ったユリウスは、慌てて足を止めた。
彼は路地の角を目前に立ち止まっていて、指でその先を指し示す。
そっと角から顔を覗かせた彼に倣い、ユリウスも勇気を出して覗き込んだ。
この先で、何が行われているのだろう……
最初に目に入ったのは、よく目立つ赤い髪――シュトルツだった。
その周りに集まる大勢の老若男女。
その誰もが、ボロボロに擦り切れた衣服を着ていて、遠くからでも骨が浮き出るほど、痩せ細っているのがわかった。その上に、ほどんどが裸足で靴を履いている人の方が少ない。
ユリウスは息を呑んだ。
――どこにだって陽があれば、影がある――
つい先ほど、リーベが言った言葉が思い出された。
影? いいや、あれは闇だ。
中央街はあんなに活気に溢れて、人々が生き生きとしていたのに、ここには死臭のようなものまで漂っているではないか。
言葉を失い、それでもその人たちから目を離せずにいたユリウスの視界に、闇そのもののような男が現れた。
彼らが重そうな麻袋を、両手に持っていた理由――
エーレは服が汚れることも厭わず、老人や子供の目線に合わせて膝をついて、何かを配っている。
遠目でしっかりは見えないが、パンのように見えた。
――僕は、彼らの何を見ようとしていたのだろう……
彼らのこんな姿は、想像すら出来なかった。
きっと何か悪事を働いているに違いない、そう決めつけていた。なのに……
彼らの予想だにしなかった一面に、ユリウスは言葉を失った。
「エーレさんって意外と――」
「いい人に見えるか?」
ユリウスの口から零れた言葉に、リーベの刺すような声が飛んだ。
その語調は称賛ではなく、非難のそれだった。
貧しい人たちに食料を分け与えている二人に対して、リーベの声色の理由がわからない。
困惑を露わにしたユリウスに、リーベは首を左右に振った。
「あれは偽善だ」彼はきっぱりと言う。
「僕には、そんな風には見えませんけど……」
リーベの強い語調に圧倒され、弱弱しい反論が口に出た。
彼はそれに対して答えず、サッと踵を返すと来た道を戻り始めた。
リーベの言動が理解できないまま、離れていく背と角の先を交互に見たユリウスは、小走りで彼の背を追った。
道は覚えていない。
置いて行かれると、大通りに戻れる自信はなかった。
だからと言って、エーレたちの前に姿を見せる勇気もない。
組み入った道を抜け、先ほどのボロボロの家屋が立ち並ぶ場所に出た。
沈黙を守ったまま、引き返す彼の背を見て、動揺が収まらなかった。
ふと、彼の歩調が緩まったのに気づいたユリウスが通りの先を見ると、そこには痩せ細った犬が蹲っていた。
途端、胸がざわつくのを感じて、唾を飲み下す。
ごくり、という音がヤケに耳の奥に響いた。
その間に進み出たリーベは犬の前で立ち止まり、鞄から取り出した、いくつかのパンを下に置いて差し出していた。
呆然と立ち尽くしてしまっていたユリウスは、犬とリーベの間に視線を行き来させる。
エーレたちを非難した男の行動だとは思えなかった。
言葉と行動が完全に矛盾している彼を見て、混乱を覚えた。
「さっき偽善だって……」
上手く言葉にできず、それだけが口からこぼれ出る。
犬がパンに夢中になっているのを静かに見ていたリーベが、僅かにこちらを見た。
しかしそれも一瞬で、前に戻した視線の先で、その瞳が伏せられたように思えた。
「飢えているこの子に、食料を渡すのがいいとは限らない。
これが原因で、次の空腹に耐えられなくなって、更に絶望するかもしれない。
一時的な施しは、慈善ではなく独善でしかない」
彼が再びこちらを見る。今度ははっきりと強く。
「この子が、満足して食べていける環境を用意できるか?
あの人たちが、毎日食べていける働き先を紹介できるか?
私が今したことも、エーレがしていることも、ただの自己満足だと思わないか?」
彼の声がガランとした通りに、重たく響いた。
ユリウスは何も答えられなかった。
――皇族として、国を背負う者として、どうすべきだと思いますか? 殿下――
いつか、皇族専属教師に投げかけられた言葉が、脳裏に過った。
しかし、今ここにいるユリウスは、皇族として責任から逃げ出した――ただのユリウスでしかない。
正しい答えなんてわからなかった。
呆然としている間に、犬はペロリとパンを平らげてしまっていた。
リーベはその前に、膝をついて両手で掬い手を作った。
彼の手には、どこからともなく水が溢れ出てくる、
水の魔法――調和の力の具現化。
それは、まだユリウスには使えない魔法。
それを犬は、一心不乱に飲みだした。
ユリウスはそれを、遠くから眺めているような感覚に陥っていた。
しばらくして満足したのだろう――犬はしっかりした足取りで、ユリウスの隣を通り過ぎて奥へと進んでいった。
犬を追って振り返る。その薄汚れた茶色の毛が角を曲がった後も、しばらく目が離せなかった。
「見ない方がよかったか?」
後ろから平坦な声がした。
責めているわけでも、慰めるわけでもない。純粋な質問だった。
「わかりません。
でもリーベさんは、見せたかったんじゃないんですか?」
今まで何も教えようとしなかった彼ら――
彼の提案は、この光景を見せたかったようにしか思えなかった。
「どうだろうな。ただ、貴方が私たちを判断するために、見せておいても良い気がした」
ユリウスはようやく、リーベに振り返ることが出来た。
「エーレさんは、見られたくなさそうですけどね」
重くなってしまった空気を和らげたくて、肩を竦めてそう言ってみた。
リーベは僅かに、目を伏せる。
「エーレもわかっている。それでもあいつは自分の無力さを確かめるように同じことを繰り返す」
その声色は、ユリウスの知らない響きだった。
悲しみに似た同情のような、諦念を帯びたような――それでいて、痛みに耐えるような……
踵を返した彼は、再び歩き出した。
その背を追って、路地裏に入ってからのことを思い返した。
皇太子として、成人の儀を終え、政治に関われるようになったら……
この影を陽の下へ引き出すことが、出来るのだろうか?
そんなことが頭に過ったが、すぐに頭を振った。
――たとえ城に戻ったとしても、僕に待っているのは、皇帝の傀儡になる未来か、もしくは死か……
ついて行きたいなんて、言わなければよかった。
見なければ、知らなければ、こんな小さな迷いを感じることもなかったのに……
大通りに繋がる路地に差し掛かると、先からは喧騒が聞こえていた。
ユリウスはそれに、ホッと安堵を感じて、先を急いだ。




