風はまだ名乗らず、枷はまだ下りない
また、夢を見た気がする。
どれだけ思い出そうとしても、靄がかかったように思い出すことは出来なかった。
けれど、シュトルツに叩き起こされる直前に見た内容だけは残っていた。
鋭い風が、僕の体を通り抜けていったこと。その風を見て、怖いような悲しいような――それでいて、今の僕には言語化できない感情を、はっきり抱いていたこと。
ぼんやりとした余韻を抱えて起きると、何故か胸の上部から首辺りまでだけ、やたら熱を帯びていて、一瞬風邪を引いたかもしれないと焦った。それも杞憂だったようで、しばらく経つとそれを収まっていった。
そしてレギオン本部を出発した僕たちは、再び街道を走る荷馬車に揺られていた。
出発の際、短距離だけエーレの隠蔽で荷馬車ごと隠して進んでいたらしい。
そこまでして彼らはバルトに迷惑をかけたくないのか、と上の空で考えていた。
ノアロスの森へ向かう。
それをレギオンに在中している御者へ伝えた時、男性は今から、戦場よりも恐ろしい地獄へいくような顔色になっていた。
それを見て、僕は思い出した。
ノアロスの森――それは聖国の国境近くにある大きな森で、狂暴な獣や魔物が跋扈していると有名なところだった。
普通の人は寄り付かない。腕の立つ者でないと、そもそも入ったきり生きて出てこれない。
その上、森は迷路のようになっていて、磁気が狂い羅針盤も使えないと聞いたことがある。
その理由としては、過去に闇の精霊が眠る遺跡を荒した者がいて、その精霊が2度と人を寄せ付けないようにした、という伝承にも近い話があったはずだ。
森の中に荷馬車は入っていけないし、森の手前で下ろす、という条件でどうにか御者を説得していた。
そんな呪いの森に住んでいる知り合い……?
ふと目線を下げたら、赤い髪が視界に入ってきた。
狭い幌の中、すぐ足元にはシュトルツが寝そべって、かなりのスペースを占領している。
僕たち4人以外誰もいないと思ったら、このありさまだった。
なんでもありな彼らの知り合いもきっと、なんでもありな人物なんだろう。
そう思うと、聞くのも面倒くさくて、天幕を見上げる。
いつもより体全体が怠い。気のせいか、また首回りが火照っている感覚があった。
もう前のような悪夢は見ないようになった。けれど、なんだか眠りが浅くて、頻繁に夢を見ている気がする。そのせいで思考がまとまらない。
きっと起きている――そして起ころうとしている異常事態に対して、気が張ってうまく眠れていないのだ。
前からへたくそな歌声が聞こえだしてきた。いつもならそんなことないのに、今日はなんだからそれを聞いているとイライラしてくる。
頭と胸がモヤモヤする。何か大切なことを忘れているような……
そう思って、昨日のエーレとの会話を思い返した。
父上のことは本人か、父上のことを知る人から聞く以外はもう、知りようがない、
バルトと話す機会があれば、聞こうと思う。
僕のやることはとりあえず剣と魔法の訓練。余裕があれば霊奏も。
どれほどの期間、身を隠すのかは未定なのだろう。
指名手配をかいくぐりながら、どうやって皇帝の支配魔法を解除していくつもりなんだろうか?
ぐるぐると思考を回していると、体がずんっと更に重くなった気がした。
頭を起こして視線を正面に下すと、エーレと目があった。
――あれ?
ブレていたピントが合うように――頭の中に何かひらめきの予感に近い、何かを感じた。
僕はそのままぼんやりエーレを見つめる。すると、その眉が顰められた。
「なんだよ」
指名手配?
もう少し……もう少しで何か思い出す。
頭の浮かんだのは、何故か彼の白紙のノートだった。
そこに手配書が重なって……
「ああ!」
縁に凭れていた体を勢いよく起こしたら、足がシュトルツに当たったらしい。
「いてっ」と聞こえたがそんなことを謝っている場合じゃなかった。
「手配書! そう、手配書ですよ!」
どうして今まで忘れてたんだろう。彼らが何も言わないから、気づけなかった。
大きな声を出した僕に、3人の視線が集まった。
「手配書がどうした?」
前で怪訝そうな顔をしたエーレではなくて、隣からリーベの落ち着いた声が問うてきた。
「制約ですよ、制約! テミスの加護枷! どうして何も言ってくれなかったんですか!
貴方たちは記録に残るようなことしちゃだめだって……!」
だから彼らは大きく表立って動けないと言っていたし、その度に代償が発生して、エーレが苦しんでいたではないか。
なのに、全くもってそれを悩む素振りなんてなかった。
制約の、’’せ’’の字も出していない。
先に答えたのは、エーレの端的な声だった。
「それなら問題ない」
「いや、問題ないって」
言葉を被せるように聞き返すと、小さく睨まれる。
要塞都市でだって、エーレたちはフードを被っていたらしいのに、代償が発生したのだ。
どこからの基準で、どう制約が発動するか、彼らも詳しくわかっていないとは言っていた。
「問題ないというのは、語弊があるだろうな」
隣から、リーベの平坦な声が付け足される。
「まぁ、カロンってだけで要塞都市でも、ちょっぴり持っていかれてたみたいだし。
問題なくは……ないよねぇ」
「だからその、持っていかれるって――」
前からは暢気なシュトルツの声に、口をついて出た言葉の続きをぐっと飲み込んだ。
彼らと僕との温度差が酷い。今に始まったことではないけれど。
そんな彼らの様子に僕は困惑してしまって、気づけばそれぞれを順に見ていた。
最後にエーレに視線を留めると、彼は瞑目して頭を揺らしながら、大きくため息を吐きだす。
「あのなぁ。前から言ってるが、お前が俺たちの過去やら、代償やらを気にする必要はない。
俺たちもちゃんと考えて動いてる」
「そんなの知ってますよ。貴方たちが計算して慎重に動いてることくらい」
「じゃあ――」
「でも、それとこれとは別です」
再びエーレの言葉に被せて言ってしまった。
何故だろう。胸に立ち上るモヤモヤが、どんどん苛立ちに変わっていく。
首元の火照りが僕の感情に呼応して、更に熱を持ち始めた感覚があった。
言葉はもう僕の制御下になく、口からどんどん溢れていく。
「貴方たちがそうだと判断しても、僕はそう思わないんです。
言葉を借りるなら、僕にとってはそれが必要だし、知っておきたいことなんです」
前から口笛が聞こえてきた。シュトルツだ。
音に誘われて足元を見ると、彼はどこか嬉しそうに、口端を釣り上げてエーレを見ている。
そんな様子にも何故か、僕は眉を寄せていた。
その視線を追って目だけでちらりと、エーレを見ると、シュトルツを忌々しそうに睨んでいた。
「その減らず口の屁理屈家は、誰に似たんだよ」
エーレが何かを燻らせたような、不満の声をあげる。
視線は静かに、あまりにも自然に足元へと落ちた。他の2人の視線もまたそちらに集まった気がした。
「え? 俺? いや、俺は悪くないって!」
まさか矛先が自分にくるとは思っていなかったのか、驚いたようにシュトルツは両手を顔の前で振った。だらりと脱力したままで。どうやら起き上がる気は毛頭ないらしい。
幌の中に小さな、それでいて何か微妙な沈黙が漂った。
途切れた糸を手繰り寄せるか、見送るか。それを逡巡しているような、小さな間に思えた――
「手配書に関しての制約は、しっかり発動するだろうね」
糸を手繰り寄せる選択をしたのは、シュトルツだった。
その言葉を最後まで聞かずに、僕は咄嗟にエーレを強く見た。するとエーレは嫌そうな顔をしながら
「加護枷の制約は基本的に、状況が終了してから発動する」と付け足す。
「状況が終了……?」
言葉を辿りなおした僕に「つまり」とエーレは続けた。
「手配書が取り下げられるか、俺たちが捕まるか、その前にこの状況を打破して手配書の効力を失わせるか。その時に初めて制約は発動して、歴史は修正される」
低く、それでいて淡々とした――流れるような説明口調。その噛み砕かれた彼の言葉を、頭の中で反芻させた。
たしかに、今までの制約の発動もそうだった気はする。
つまり手配書の効力がある間は、制約が発動して、エーレが行動不能に陥ることはない?
けれどそれは……
「どうにしろ、制約は発動するんじゃないですか!」
思ったより大きく漏れた声が、幌の中に反響した。
僕のあげた声が天幕に吸い込まれ、吹き込んできた風に攫われていく。
その余韻の中で「だからなんだよ」とエーレの唸るような声が混じる。
「だからって……」
続ける言葉を失ってしまった。
だから。だとしても。
混乱を鎮めるような温もりが、そっと僕の肩へと落ちてきた。
それが隣からであるとすぐにわかって、導かれるようにそちらを見る。
輝かしいはずの茶金色の瞳は、僕の感情を相反するように、色を宿してはいなかった。
「ルシウス、冷静になれ。貴方が取り乱して何になる。
エーレは貴方に再々伝えてきたはずだ。私たちが全てを引き受ける、と。
それにもう起きてしまったことだ。そのことに関しては、貴方が思い悩むことではない」
ほんの少しだけ宥めるような色を帯びた声。
でもそれはどこまでも冷静で、客観的な冷たい声に聞こえた。
咄嗟に口を開いたけれど、音にならなかった。
言葉にできないモヤモヤが、更に胸の中で渦巻きだす。
頭を支配する苛立ちと、胸に溜まっていく膿が色濃くなっていく。
その形にならないその輪郭を掴もうと視線を手元に落とす。
視界の端に映る赤髪やヤケに目について、僕を更にイライラさせた。
手に負えない苛立ちに呼吸が詰まったのを知って、それを鎮めようと大きく息を吸い込んで、大きく吐き出す。
とりあえず、今一度確かめておかないと気が済まなかった。
視線を下げたまま「本当に」と言葉を紡ぐ。自分の声が内側から響いた気がして、顔を上げた。
「本当に、制約の発動は状況が終了してなんですね?」
前に吐き出した言葉は真っすぐエーレへ向かって飛んでいく。
彼は考えるような一瞬の間をおいて、「今まではそうだった」とだけ簡潔に答えた。
確信を避ける言い回しに僕は思わず眉を寄せた。
今まで2度、指名手配されたときもそうだったということだろう。
今回も指名手配は避けられなかった。つまり状況が終了すれば、エーレに代償が発生する。
ガタゴト、ガタゴト、と荷馬車が揺れる音だけが、幌の下から響いてきた。
それがまるで、頭の中で硬い物がぶつかり合っているような嫌悪感がした。
確かに僕が騒いでも、もう起きてしまったことだ。
彼らは僕以上に色々考えているに違いない。それでも避けられないものはある。
僕は落胆を感じて、縁に深くもたれかかる。
なんだか体が重くなったような気がして、天幕を見上げた。灰がかった黄土色を眺めたとき、すんっと何かが、心に落ちてくる感覚があった。
ああ、わかった。さっきのリーベの言葉を聞いた時に、自分が何を思ったのか。
もう起きてしまったことだから、仕方ない。貴方に出来ることは何もないのだから、貴方が気にする必要もない。心配して声を荒げても、何の解決にもならない。
そう言われてるように聞こえたのだ。
そして、それは合理的で正しくも聞こえた。
僕の感情なんてそっちのけで、彼らの正しさが正義で……
深いため息がこぼれ出て、それでも最後に聞こうと思った。
ほとんど諦めた気持ちの投げやりな気分で、誰となく尋ねた。
「それで……その代償って、結局何なんですか?」
再び訪れた小さな沈黙の中に、車輪が跳ねる音。
風が幌の中に吹き込んできた、草木と5月に相応しい陽の香り。
それが僕の心をほんの少しだけ、落ち着けたのも束の間――
「それについて、お前に教える気は一切ない」
全ての温かさを凍らせてしまうような、氷のように冷たく硬い言葉に
「そうですか」
その言葉だけが、ため息と共にこぼれ出た。
首元の熱が輪郭を持たない熱を放ち続けていて、手で首筋を撫でてみた。
重力に負けた手が下に落ちるのと同時に、なんだか懐かしい感覚だな、と他人事のように思っていた。




