揺れる紅茶、灯る決意
しばらくして、エーレはティーカップ2客とティーポットを持って戻ってきた。
僕の部屋にはこんなものなかったから、借りてきたのかもしれない。
案外、用意周到なところがあるんだなぁ、と思いながら目の前に置かれた空のティーカップを眺めていた。
視線の上で、エーレがノートをスッと手元に下げるのが見えた。
それを見て、先ほどの白紙のノートが頭に浮かぶ。
忘れていた不安がちらりと顔を出してきた頃、彼は手慣れた手つきでポットから紅茶を注ぎ始めた。
傷は多いけれど、綺麗に伸びた5指。そっと目だけで上を見ると、伏せられた瞳に長いまつ毛がかかっている。
一瞬だけ垣間見えた、彼の気品ともの呼べるそれに目を奪われていると、ポットが彼の手元に戻っていった。
「ありがとうございます」
目を落とすと、薄茶色の液体が室内灯に照らされて、気持ちよさそうに揺れていた。
エーレは何も言わずに、持ち上げたカップを音もなく口に運ぶ。
その所作には、やはりどこか庶民とは違う何かが染みついているように見えた。
リーベからはよく感じていた。
シュトルツは完全に隠しきっていたし、そもそも前の男に関しては、傲慢で乱暴なイメージが先だって、しっかり見ようとしたことがなかった。
「冷める前にさっさと飲め」
カップに落としていた真っ黒な瞳がちらり、とこちらを見る。
「いただきます」
そっと口に運ぶと香しい香りが鼻に抜けていき、口の中ですっと溶けていった。
使われている茶葉が何かはわからないし、昔に飲んだことのあるものに比べれば安いものなのかもしれない。
正直僕は紅茶が得意ではない。けれど、紅茶をこんなにおいしいと感じたことは初めてだった。
「そういえばエーレって、しないだけで割と自分で何でも出来ちゃう人なんですよね」
僕はお茶の淹れ方を学んだことはないし、こんなにおいしく淹れられる自信もない。
すこし減った薄茶色を見て関心していると、前からカップを置く音がして顔をあげた。
そこには呆れたように、眉をさげながら眉間に皺を寄せる彼。
「てめぇはもう少し考えてから言葉を口にしろ。褒めてんのか貶してんのか、どっちなんだよ」
「いや、褒めてますって!」
咄嗟にカップを持たない方の手を軽く振って、言い直す。
「まぁ」エーレがそっと僕の方のカップへと目を落とした。
「昔はよく俺が紅茶を淹れてたからな」
その口調はどこか懐かしそうな色を帯びていた。
「え? シュトルツじゃなくてですか?」
「あいつが淹れるより、俺が淹れたほうが美味い」
「リーベは?」
「論外だ」
「は、はぁ」
彼ら4人の過去の話は聞いたことがないけれど、王族にお茶を淹れさせる貴族。
わけがわからなかった。いやまぁ、どうせエーレが譲らなかったんだろうけど。
「で? 本題は?」
椅子に背を預けたエーレがちらり、と扉の方を見た気がした。
僕は手に持ったカップをそっと机に置いて、
「とりあえず、指名手配の件です。
信用できる知り合いとか言ってましたけど。どこに向かうのか。これからどうするのか。
あと父上のことはまぁ、ちょっと一旦置いておいても。今の僕に何が出来るかとか、あと……」
開いた右手を一つずつ折っていきながら、忘れないうちに上げた。
「わかったわかった。一度に言うな」
「僕は考えを整理するのが苦手なんですよ」
呆れたように声を上げたエーレに、咄嗟に言い訳まがいの言葉で反駁する。
「んなもん、言われなくても知ってる。整理できないなら、文字にでも起こしてみろ。
少しはマシになる」
その言葉にふと、もう机にはない、白紙のノートが頭を過る。
思考があっちへこっちへ飛んでいることを自覚して、とりあえず目の前のことから聞くために折っていた指を見つめた。
「指名手配。どこへ向かうのか。これからどうするのか」
自分に言い聞かせるように呟く。父上のことも整理はしきれていないけれど、概要はすでに把握している。先に気になるのはそちらだった。
「今まで2度」そんな声がして顔を上げた。
エーレは預けていた背を椅子から離すと、カップを持ち上げて口に運ぶ。
2秒ほどの沈黙を挟んで彼は続けた。
「2度目と3度目。時期はもう少し後だったが、今までも同じことがあった。
その度にマスターが動いてくれたが、取り下げるには至ってない。
2度目は結局、皇帝を討つことで収束したし。3度目はその前に‘’あいつ‘’が死んだ」
最後の言葉が先に頭に入ってきて、その前の言葉を飲み込むのに時間がかかった。
「え、なんて言いました?」
カップを置いた彼が眉を寄せた。
「だから指名手配を取り下げられたことは――」
「じゃなくて、そのあとです」
エーレは納得したように数度頷くと、こちらの方を指すようにして、人差し指を立てた。
「1度目は渡した記憶で知ってるだろ。お前は連れ戻されて、皇帝の器として死んだ。
2度目のお前は、俺たちと皇帝を討ったんだよ」
前で指が2本に立てられたのを、ジッとみつめていた。
「でもじゃあどうして――」
どうして彼らは再び、やりなおしたのか。
「その時にはもう、アイリスは生きてなかった」
ぽつり、と小さく呟かれた言葉が、ほんの少しだけ残ったカップの中身を揺らした気がした。
「3度目も今回も、急いでるのはそれだ。
一度は皇帝を討つことに成功した。けれど、それじゃ遅かったんだ。
あの時は時間がかかりすぎた。だから俺たちは最短の方法で事を進めていかなきゃいけない」
息を継ぐ間もなく語られた言葉と、痛みに耐えるように険しくなった彼の顔を見て、僕も気づけた眉を寄せていた。
それでも感情を引っ張られないように、鼻から勢いよく息を吸い込んで止める。
「そのために――これからどうするつもりなんですか」
自然と佇まいを直して、エーレを真っすぐ見た。
その視線を感じ取った彼がその視線を受ける。小さな沈黙の幕が下りた。
「まず」エーレの深い奈落色の瞳が光る。
「明日ここを発って、ノアロスの森へ向かう。そこでマスターから何かしら連絡があるまで身を隠す。
俺たちは情報収集に出かける予定だ」
ノアロスの森――
聞いたことがある。たしか……
「お前は厄介になるその人から剣と魔法を学んでおけ。特に水魔法。中和を完全に習得しろ」
「え、また僕だけ置いてけぼりですか?」
どんな森か思い出している最中に続けられた彼の言葉。思考が途切れる。
森の中に人が住んでいる――彼らの知人が誰なのかも、どんな関係なのかも、何も言わずに飛ばして言われた言葉。
けれど、問題はそこじゃなかった。
「僕にも何か出来ることないんですか?」
彼らと道を共に進んでいるはずなのに、まるで歩いている速度が違う。
胸に何か小さな燻りを感じて、不満げな声が漏れ出した。
テーブルに再びエーレの手が伸びて、残った紅茶を飲み干すまでの短い沈黙。
そっと置かれたカップのコトンという音と、長く掠れた息が聞こえた。
「お前の水の力だ」
ゆっくりあげられた目線。何かを訴えるような強い眼差し。
「俺たちの切り札はお前の水魔法なんだよ。
中和――皇帝が大陸中に張り巡らしてる支配魔法を根元から切り崩すこと。
お前が出来て、俺たちにできないことだ。わかるな?」
水魔法の高等応用、中和。
僕以外の3人も水魔法を使えるはずだけれど、みんな同調率も親和率も高くないと言っていた。彼らだけではないミレイユも。
けれど、僕以外でも訓練を重ねたら、出来るのではないか?
エーレに向けられた強い視線から逃れるように、手元のカップへと目を落とした。
「皇帝のこと。お前自身が決着をつけたいと思うなら、習得しとけ。それだけだ」
少し上から落ちてきた言葉に、ハッと顔をあげる。静かに、淡々と。
視線から逃げた僕を責めることもなければ、宥めることもない――誠実な声色。
そうだ。たしかにこの大陸を探せば、中和を使える人は僕以外にもいる。
けれど、これは僕がやるべきことだ。
どうして、僕じゃなくてもいいんじゃないか、なんて考えが頭に過ったのか。
どうして僕は逃げようとした?
ぐっと唇を引き締めた。
「精一杯頑張って、絶対に習得します」
真っすぐエーレを見ると、彼は小さく息を吐き出して肩を落としながら、再び椅子に凭れた。
天井に視線が投げられ、顎の綺麗な輪郭がこちらに向けられる。
「まぁ。ほどほどにな。無理に走ったらどうせ転ぶだろ」
そう言って、彼は目だけ下げてこちらを見ながら、小さく鼻で笑った。
「転んでもすぐ立ち上がりますよ! シュトルツもエーレも、僕を子供扱いしすぎです」
「実際子供だしな」
「いや、そうかもしれませんけど!」
ムッとなって売り言葉に買い言葉で、話が逸れたのに気づいて「……じゃなくて!」とすぐに切り替える。
「それはわかりました。とりあえずノアロスの森のエーレたちの知り合いにあって、僕は訓練する。そのあとのことも教えてください」
彼らの計画。それを知っておくべきだ。
前回までがどうだったのかも知りたいし、照らし合わせたい。
こちらを見ていた瞳が再び天井へと向けられたあと、彼はスッと立ち上がった。
「もうすでにいくつか裏で動くよう頼んである。それ次第だ。
お前はとりあえず、訓練に集中しとけ」
それだけ言うと、エーレは扉の方へ向かっていってしまう。
置いて行かれた僕は、前に少しだけ残った薄茶色の液体を見つめた。
彼が何を思って、これからのことを全て教えてくれないのか。
まだ準備段階で、確信がないからなのかもしれない。
それに……
「ノートにでも書き出してみようかな」
たしかにこれからの仮計画を聞かされても、それが邪魔して訓練に集中できないだろう。
エーレの判断はいつだって正しい。
僕は冷めてしまったカップの中身、その最後の一口を呷ったその時――
「おこちゃま! ずるくない!?」
すぐ後ろからそんな声が聞こえて、紅茶が気管に入り込んだ。
いつの間にそんな近くにきてたんだろうか。
突然の闖入者のせいで、僕は何度もむせ返って、涙目になりながら振り向くと。案の定子供のように不満げな顔をしたシュトルツがいた。
「い、きなり……びっくり、させな、いでくださいよ……!」
咳き込むのが止まらないまま、睨みつける。
しかし彼はくるり、と体を回して、後ろにいるエーレに「ねえねえ、エーレさん。俺のは? 俺に紅茶は?」とせがみ始めた。
エーレは近づいてくるシュトルツへと手を払いながら、こちらへ進み出てくる。
「とりあえず明日の早朝には出る。着くまで5日前後かかる。今日は早めに寝とけ」
「わかりました。エーレたちは?」
すぐ隣にきたエーレを見上げて問うと、その間にスッとシュトルツが入り込んできた。
やたら背の高い彼を見上げる形になる。首が痛い。
「エーレさんは今から俺とデートだから。だからお子ちゃまは、さっさとねんねしてきな?」
シュトルツは本当に今から好きな人とデートをするのではないか――というほど嬉しそうに口元を緩めながら、勝ち誇った顔で見下ろしてきた。
そんな彼を見た途端、何故か悩んでいた自分が馬鹿らしくなった。
そのままため息を吐きだして、立ち上がる。
「じゃあ、子供は寝ますね? 大人は楽しい夜をお過ごしください」
僕は口から自然と出た皮肉を置いて、そのまま部屋を後にした。




