白紙のノートーー失われた名前
陽も暮れたというのに、寒くない。
5月も半ばに差し掛かったのだ。当然だった。
きちんと洗濯された真っ白なリネン。安宿とは違うふかふかなベッド。
まだ早いけれど、このまま気持ちよく眠ってしまえれば……
頬をすべる肌触りのいい枕に顔を埋める。真っ暗になった瞼の裏に、ここ数日にあったことが駆け巡る錯覚に陥って、それを振り切るために勢いよく首を振った。
「ああ!」
心地よいベッドもこれじゃ、なんの意味もない。
せっかくの個室だというのに、心が休まらない。
ふと、黄金色のお茶が頭に過った。そのあとに思い出されたのは、湾港都市でそれを持ってきてくれたシュトルツの姿。
自然と大きなため息が漏れ出る。
僕の生活にすでに彼らが染みついている。それは良いことだし、嬉しいことだ。
けれど……
「指名手配、かぁ」
相も変わらず、状況に流されるようにレギオン本部にやってきて、レギオンマスターのバルトに会い、結局父上のことは聞けず終い。
あとでバルトを探したけれど、すでに彼は外出してしまっていた。
本部のレントランスホールをうろうろしていると、レオンとフィアに呼び止められて、かなり長い時間、話に付き合うことになった。
レオンは相変わらず、つっけんどんな態度であるが、フィアが僕に懐いてくれたことで、徐々に仲良くなれている気はした。
僕が2人に捕まっている隣で、シュトルツは大量のお酒と料理を掻き込んでいたし、リーベはそんなシュトルツの前で、優雅に食事を楽しんでいた。
エーレは? と聞くと、どうやら充電するように部屋で眠っているらしい。
3人の状況にそぐわない呑気な振る舞いを思い出して、また大きなため息がこぼれ出た。
いや、もしかして。
「僕がおかしいのかな?」
指名手配されたと聞いて、声を荒げたのはミレイユだけだった。
そんな彼女も心配の一言もなく僕たちを見送っていたし。ゼレンは一応心配らしきの言葉をエーレにかけてはいたけれど。
ブラッドバウンズの3人も何も聞いてこなかったし。
僕の中の常識がどんどん崩れ落ちていく感覚に、いてもたってもいられず、ベッドから飛び起きた。
とりあえず、これからどうするのか聞かなければいけない。
僕に出来ることは少ないだろうけれど、それでも何かあるはずだ。
――カロンの一員になるなら、仲間を守らにゃならん場面も出てくる――
一度聞いただけのバルトの言葉は、頭に刻まれていた。
今までは、僕が彼らに守ってもらいっぱなしだった。
今はもう僕にとって、彼らは失いたくない‘’大切‘’になっていることをしっかり実感できる。
僕は、僕の大切なものを守りたい。
剣も魔法も霊奏も、何もかもがまだ中途半端で、それでも……それでも僕に出来ることはあるはずだ。
それに、まだ僕の中であらゆることが整理しきれていない。
彼らの過去のことも、父上のことも、僕自身が向き合うべきことも。
「たしか……」
あてがわれた部屋を出て、綺麗に掃除が行き届いた廊下に並ぶ扉を、一つずつ数えていく。
隣がリーベで、更に隣がシュトルツで、1つ扉を挟んで……
その扉はほんの少しだけ、開けっ放しになっていた。
人差し指が1本入るか入らない程度の扉の隙間を見つめて、僕は思わず首を傾げてしまう。
あれからエーレの姿は、一度も見ていない。
ずっと眠っているのだろうか?
彼の印象から、扉を閉め忘れるなんて想像しにくい。
そんなに眠かったのかな? なんてくだらない想像をしながら、僕はそっとその隙間から中を覗いてみた。
物音はしない。まだ寝てるのかもしれない。
勿論、そんな数センチの隙間から中が見えることもなく、意を決してそっと扉を開けてみた。
ほんの小さな音を立てて、開かれた扉の先には灯りがついていた。
けれど正面には誰もおらず、そっと足音を殺して中に入ってみる。
これじゃまるで、泥棒のようだ。
人の気配に敏感なエーレの怒号がいつやってくるかと、ひやひやしながら先に進むと、僕の部屋と同じように、すぐ右に真っ白なベッドがあって、左側には机と椅子――机に隠されるように垣間見えた脚、上になぞっていくと、緩やかにうねる黒髪があった。
彼は集中して、何かを見ているようだった。
たった4~5mしか離れていないのに、全く気付く様子がない。
「エーレ?」
そっと呼びかけた瞬間、驚いたようにエーレが顔をあげた。
その瞳は見開かれている。
そんな彼の驚きように、僕までびっくりして、言葉を失った。
ほんのわずかな沈黙が僕たちの間に漂い、先にエーレがうんざりしたようなため息と共に、机の上の何かを閉じた。
――本?
彼がそんなに集中して何かを読んでいるところを、今まで見たことがない。
「入ってくるなら入ってくるって言え」
怒号を覚悟していたけれど、その心配はなさそうだ。
「すみません。扉が開いてたんで、どうしたのかなって」
半分言い訳を並べてみると、エーレの眉が寄せられて、僕の後ろ――扉の方を見た、
彼はそのままの視線で「で? 何しに来た?」とぶっきら棒に言う。
「あー、えっと」
指名手配のこと、これからどうするのか、父上のこと、僕に出来ること。
そんな選択肢が同時に頭に浮かんで、つい口ごもる。
するとエーレが顎をしゃくった。
彼の前には椅子がもう一脚ある。そこに座れと言いたいのだろう。
今やそんな沈黙の言葉も、よくわかるようになった。
僕は前に進み出て、そっと椅子を引くと、同時にエーレが席を立った。
そのまま僕の後ろに回って、どこかへいく。
その背を追うと、部屋に設けられた簡易キッチンのほうだった。
レギオン本部の宿は、設備が充実していた。
ベッドも清潔でふかふかだし、机は勿論、クローゼットや簡易キッチンまである。
僕は改めて、同じ造りの部屋を見渡しながら、最終的に机の上に視線を戻した。
そこには、真っ白な表紙の一冊の分厚いノート。
一瞬、本なのではないかと思うほど分厚かった。
僕はちらり、と後ろのエーレを見る。彼はお湯を沸かしていた。
それを確認して、そっと目の前の本へと腕だけを伸ばして、めくってみる。
駄目だと知っていたけれど、彼がそんなに集中して読んでいたものの内容を知りたかった。
適当に開いてみる。中間あたりは白紙だった。
両端側もめくってみるが……
――何も書かれてない。
思わず眉を寄せて、首を傾げたくなるのをどうにか堪えると、ノートをそっとひっくり返してみた。
ノートの裏表紙の真中央にあったのは、小さな黒い鉱石。それは革紐で無理やりノートに固定されてあった。
ふと、首都でトラヴィスが持ち上げた白紙の紙が、脳裏をよぎる。
僕には白紙に見えた紙から、トラヴィスは文字を読み取っていた。
つまり……
「っ……」
隠蔽。その言葉が口から漏れかけて、咄嗟に閉じる。
魔法で文字を隠している?
エーレは一体、何を見ていたのか? そこまでして何を隠しているのか?
何か言い知れない不安が胸に湧き上がってきた時、「おい」と背後から声がかかって、思わず肩が跳ねあがった。
すぐにノートから手を引っ込めて、振り返る。
「紅茶、飲めんのか?」
「え?」
そういえば、彼はお湯を沸かしていたのだ。
「え? エーレが淹れてくれるんですか?」
料理どころか、お茶すら淹れているところを見たことがない。
元王族。隣にはシュトルツがいるし、意外な行動に首だけ振り返りながら、そんな言葉が口からついて出た。
彼の目が細められて、僅かに眉を潜めた。そこ一瞬だけ不本意そうな表情が浮かぶ。
「あ、いや! いただきます」
何も言わずに再び背を向けたエーレを見て、ほんのり胸に湧き上がったは何かの余韻。
態勢と元に戻した先で、窓から見えた夜の闇。
ほんの数秒止まった思考の中が、ふと首都に着く前――暗殺ギルドの襲撃があった宿での彼の言葉と繋がった。
――茶なんて出ないからな――
もしかして彼は……
エーレが不器用なことはよくわかっていたつもりであったけれど、なんだかおかしくて思わず口が緩んでしまった。




