その時は、俺を殺せーー
「泣き疲れて、寝ちゃったねぇ」
展望台のふちに背を預けて眠ってしまったルシウスへ、自分の羽織っていたローブをかけてやったシュトルツが言った。
「あれだけ泣きゃ、眠くもなる」
先ほどまで子供のように泣いていたルシウスを思い出したエーレは小さく笑う。
「まだ流れ星に願い事もしてないのに、勿体ない」
「お前……まだ言ってんのか」
空を仰いだシュトルツをに呆れて肩を竦めたものの、なんとなく彼の視線を追って空を見上げてみた。
「春の流星群――ヘカテ―の涙か」
シュトルツの隣から、リーベの呟きが聞こえる。
満天の星空に首都の夜景。
三人でこうして、空を見上げる夜――
今は腰ほどのふちも、あの頃はもう少し高かった。
まだ幼かったシュトルツ――ヴィンセントに付き合って、流れ星に願い事をしたことは今でも覚えていた。
――この幸せがずっと続きますように――
幼い胸に抱いた儚い願いは、脆くも崩れ去った。
だからもう流れ星に願い事なんてしない。したくない。
「もう四月も終わるというのに、冷えるな」
「火でも焚く?」
沈黙を破ったリーベに、シュトルツが提案する。
「戻ればいいだけの話だろ。そんなに流れ星が見たいのかよ」
「え? エーレさんは願い事ないの?」
火を焚いてまで流れ星を見ようとする彼が、当然のように聞いてきた言葉に口を閉じる。
その時、頭上で星が流れた。
シュトルツが「ああ!」と悲鳴に似た声を上げる。
「ねぇよ。星に願ってまで縋りたいことなんて……」
「じゃあ、俺が代わりにエーレさんの分までお願い事しとくね?」
こちらの気も知らず、嬉しそうに空を見上げたシュトルツはしばらく顔を上げたまま、一向に諦めようとしなかった。
一刻に多くても十回。
エーレは思わず、ため息を吐きだした。
「おい、リーベ。この馬鹿どうにかしろ。このままだと朝になるぞ」
「シュトルツ。ルシウスが風邪を引くから、半刻までにしておけ」
言われるがまま条件を出したリーベにシュトルツは頷きすらしない。
この問題児は……
ふと、昔にもこういうことがあった気がする、と何かが頭に過ろうとした時、
「俺らはさぁ」 シュトルツの掠れた声が、星空に溶け込んだ。
「ルシウスみたいに、誰かに愛されたいって思ったことあったっけ?」
空を見上げたままの彼の唐突な言葉。
愛されたかった――そんな未練。
ほんの少しだけ、記憶の中を探してみた。
「さぁな」
途中で考えることはやめた。考えたところで、意味もなく、必要もない。
「リーベは?」
話を振られたリーベが嫌そうに瞳を細めて、シュトルツを見た。
「――嫌味か?」
珍しく声を落として呟いた彼に、思わず笑いがこぼれた。
その時になって失言だったと気付いたらしいシュトルツが、リーベへ両手を大きく振る。
「いやいや、深い意味ないって。アイリスのことなんて言ってないって!」
必死に首を振るシュトルツを、じっと睨むリーベ。
彼が何をどう思っているのか知らないけれど、アイリスはしっかりリーベに好意を抱いていたはずだ。
だからこそ、幽閉された場所から彼を逃がした。
記憶の中に残る――まだまだ幼さい五つ年下の妹。
髪はリーベと似ていて、輝かしく、綺麗なエメラルドの瞳は愛らしかった。
柔らかく降り注ぐ、温かな春の日差しのような――
それでいて、その陽に向かって凛と咲く小さな花のような彼女。
記憶の片隅に残る妹を思い出していると、また一つ星が流れる。
リーベへの弁解で必死だったシュトルツはまた見逃したようだ。
「俺たちにはアイリスがいただろ。それだけで十分だ」
親の愛情なんてものは知らない。
まともに顔すら合わせなかった。その中で、アイリスだけが愛情というものを教えてくれた。
それは目の前にいる三人だって、同じはずだ。
高位貴族として、厳しく育てられた彼らの心を溶かしてくれた、唯一の存在。
四人が共有する――もうそこに存在していたのかも確かめられない、たった一枚の懐かしい絵。
「そうだな……違いない」
そう言って、リーベが空を見上げる。
「え? エーレさん。俺は? 俺もいるよ? エーレさんのこと愛してるよ?」
「気持ちわりぃ言い方すんな。知らねぇよ」
近づいてくるシュトルツに手を払う。
その時、足元で眠るルシウスが目に入った。
シュトルツが上にかけたローブをぎゅっと握り、すやすやと眠るあまりにも幼い顔。
あのころは仇敵であったはずの彼は、今はこんなにも近しい存在になりつつある。
まだまだ幼く、未熟だけれど、たからこそ真っすぐで純粋な彼。
悪意や損得勘定なんて言葉を知らないような振舞いに、身に余る正義感に振り回される。
連れていくのは酷なのではないか、とすら思ってしまうこともあった。
だからこそ、俺たちは影として、全てを引き受ける。
もしかしたら、ここから見る景色もこれで最後になるかもしれない――
そう思って、もう一度街を見下ろすことにした。
隣で頑なまでに空を見上げ続けるシュトルツに、夜景を見下ろしながら時折こちらに視線を配るリーベ。
将来を語り合って過ごしたあの夜とは、似ているようであまりにも違う。
長く続いた沈黙を破ったのもまたリーベだった。
「ルシウスに、代償のことを話さなくてよかったのか?」
彼の視線を感じたけど、あえて街を見下ろしたままでいることにした。
加護枷――その制約に反した時の代償。
それはエーレが全て引き受けていたが、権能である環命にも対価が存在した。
繰り返す事に支払わなければいけない――それは三人がそれぞれ支払うことになる。
「これは俺たちが勝手に始めたことだ。
それをルシウスに背負わせる必要はない」
もし教えでもしたときには、彼はきっと制約が発生するたびに罪悪感に苛まれるだろう。
権能もその制約も、代償も、ルシウスには関係のない話だ。
もう後がない。
六度という回数制限も、代償の影響でそこまで持ちこたえられそうになかった。
肌を冷やす夜風、目の映る全てが輝かしいこの漆黒を守るいうに降りた静寂。
その中で街の上に一筋の星が流れた。
今度はシュトルツもしっかり見ていたはずだ。
彼が何を願うのかなんて……俺の知るところではないが。
もう、ここに用はない。
エーレはそう思って、ふちから離れた。
「シュトルツ、リーベ」
いつも以上にはっきりと、すでに慣れ親しんだその名に呼びかける。
声色に秘めた何かを感じ取ったらしい二人が、ふちから離れてこちらへと向き直った。
彼は仲間の視線を受けて、一度瞑目し、小さな息と共に口を開く。
「予め言っておく」
一段と冷たい風が、エーレと二人の間を通り抜ける。
言葉を待つ二人の、更に強い視線が注がれた。
知らずのうちに伏せてしまった視界を引き上げ、もう飽きるほど見てきた二人の顔を交互に見る。
「もし、俺が俺でなくなって足を引っ張るようなことがあれば。その時は……」
いつか言わなければいけないと思っていた。
できれば口にはしたくなかった覚悟。
それでもエーレはそれを言葉にした。
「俺を殺せ――」
視界の上で星が流れた数舜の沈黙。それだけで十分だった。
リーベの瞳は真っすぐにエーレを見据えたあと、一度瞑目した、
シュトルツは苦しそうに表情を崩した後――
「了解」
しっかりした声で答えた。




