8.もう一人の浮気相手(1)
さて、スカイラー様のお邸をリリーと一緒にお暇して、私はリリーが戻ってきたことにだいぶホッとしていた。
リリーの方も行方不明になったことを心なしか反省しているのか、いつもよりは私に甘えてくれる時間が長かった気がする。その隙に、私はたんまりとリリーを撫で、抱っこし、においを嗅いだ。
リリーが一生懸命ご飯を食べる様をこれ以上ない幸福の気持ちで眺める。世界はとても暖かく私を包んでくれると思った。
私がご機嫌だったのはもちろんリリーのおかげだけではない。当然、スカイラー様の件もあった。
スカイラー様の件は――、もう夢見心地で今のところまだあまり現実感がない。
今までが、元夫関係で長いトンネルの中にいたような気分だったので、トンネルを抜けたところで急に差し込んだ光に目が眩んでしまっている感じ?
でも、この光の中に幸せを期待していいことは分かる。
さて、私とスカイラー様が以前の関係を続けてみようということになってから、スカイラー様は「もし嫌でなかったら……」と少し遠慮がちに私を舞踏会に誘ってくれた。
私はすぐに了承したが、元夫と離婚してから人目が気になってあまり社交の場には出ないようにしていたので、久しぶりの舞踏会なのと、スカイラー様のエスコートということで、だいぶ緊張していた。
大丈夫かしら。失敗しないかしら。変な目で見られないかしら。
スカイラー様が誘ってくださったのは王妃様主催の舞踏会。
私を迎えに来てくれたスカイラー様が、
「きれいだね、ディアンナ」
と褒めてくれるので、私は完全に舞い上がってしまっていた。
だからその舞踏会に、元夫が普通に参加しているということまでは考えが及ばなかった。
私がスカイラー様の腕に手をかけ、舞踏会会場で久しぶりの友人たちと楽しい気持ちで挨拶を交わしていたら(※元夫との離婚話なんかも笑い飛ばせるようになっていたのが自分でもびっくりだったけれど)、不意に元夫から話しかけられたのだ。
「えっ」
私は驚いた。まさか、こんな場所でわざわざ離婚した元嫁になんか話しかけてくる? 変に噂の的になっても嫌だから止めてほしい。
私がイヤそうな顔をしたのに、元夫の方はまるで平気そう。そして、
「リリーちゃんは元気か」
と聞いてきた。
私は呆れた。
「元気ですわ。ホント私と会ってもリリーのことだけなのって、逆に清々しいですね」
しかし元夫は私の厭味なんか意にも介さない。
「明日、お前の家を訪ねる。リリーちゃんに会いたいからな」
当たり前だけど、私は猛烈に拒否した。
「絶対いやです。来ないでください。もう私とあなたは他人なんですからね!」
スカイラー様も隣で露骨に嫌そうな顔をしている。
しかし元夫はスカイラー様の反応にも無頓着で、
「俺たちは他人じゃない、元夫婦だ。リリーちゃんは二人の子だろう」
と堂々と言ってのける。
「何言ってるんですか!」
「そうですよ、私たちは今お付き合いしています。結婚も視野に入れています!」
スカイラー様もぐっと割って入って元夫を睨みつけた。
しかしスカイラー様の交際宣言にも元夫は動じなかった。
「へえ、それはおめでとう。私とリリーちゃんの間を邪魔しないのであれば何でもいい」
「あなたのことはどうでもいいんです! 私たちが嫌なんです! お断りします」
私はかなり棘のある言い方をしたと思う。
しかし、元夫は全く聞く耳を持たない仕草で、「じゃあ言ったからな」と開き直った態度で去っていった。
翌日、私とスカイラー様は厳戒態勢だった。
「リリーが盗まれる」
と思ったくらい。
絶対に元夫を邸に入れないよう執事に言いつけ、自分たちも元夫を追い出そうとエントランスに近い客間に陣取り待機していた。
果たして元夫は厚かましくもやってきた。
「さあ、リリーちゃんの面会の時間だ」
「そんなもの許可した覚えはありません。帰ってください」
私はエントランスに駆け付け、仁王立ちで立ちはだかった。
「なんだと?」
元夫が不機嫌そうに唇を歪めたとき、門番が別の来客を伝えに駆け込んできた。
取り込み中な私に変わって執事が門番の用件を聞きに状況を把握しに走っていったが、10分もしないうちに戻ってきて、
「ご主人様、大変ですよ、当局の方がおみえです! 傷害事件だそうです!」
と私の執事が私に言った。
「は? どういうこと?」
「どういうことだ!?」
私とスカイラー様が同時に聞き返した。
元夫も何事かと眉を上げた。
執事は息を整え、努めて冷静を取り戻そうとしつつ、
「それが――、リリー様がある令嬢を引っ搔いたそうでして」
と言った。
元夫が弾かれたように執事を見た。
「リリーちゃんが!? 引っ掻いた!?」
私も息を呑んだ。そして、良くないことだけど、執事に詰め寄ってしまった。
「え、リリーは今いないの!? 元夫が訪ねてくるから防犯上絶対に目を離すな、部屋から出すなと強くお願いしましたよね!?」
すると侍女が小走りに駆けてきて(執事にリリーの様子を見てくるよう言いつけられたのだろう)、
「ご主人様、リリー様のお部屋を確認しましたところ、確かにいらっしゃいません! 朝までいらっしゃったのですが」
と叫んだ。
私は眩暈がした。
元夫も真っ青になっている。
「リリーちゃんがまた行方不明だと!? さらには他人に怪我まで。当局に捕まって処分を受けたらどうしよう!」
「そ、それで、怪我をさせたお相手の方はどなたなの?」
私の声は震えていた。
スカイラー様がそっと私の肩を支えてくれる。
「それが」
執事は言いにくそうな顔をして、ちらりと元夫の顔を見た。
「アンナリース様です」
「は!?」
元夫は目を白黒させた。
私も愕然とした。だってその名前……!
元夫は気まずそうにちらりと私を見る。
私は睨み返してやった。
ええ、知っていますよ。
アンナリース・テルマン子爵令嬢様ですよね。元夫がマリネットさんの前に長くお付き合いしていた女性!
おバカ系令嬢がお好きな元夫にしては珍しく知的系の令嬢だったはず。それまでとはあんまりタイプが違ったから「運命の相手だ!」とだいぶ息巻いていらっしゃったわよねえ。
アンナリース・テルマン子爵令嬢は私から見てもたいそうよくできた女性に見えた。
まさか元夫の浮気相手をお勤めなさるまでは。
アンナリースさんはまずたいへんな勉強家との噂だった。
幼い頃から周辺国の言葉は数カ国くらいマスターしたと聞いたしね。
なので周辺国からお客様がいらっしゃったときには、お客様とそちらの言葉で話ができるので、どのお客様もそりゃあ特別感激されてたわね。
しかもとてもウィットに富んだお話も得意なようで、各国の大使の賑やかな輪の中でひときわ目立つ存在だった。
私は外国語をマスターするのがとても苦手だったので、アンナリースさんを素直に尊敬していたっけ。
そして、あれは何かの晩餐会のことだった。
その会にもたくさんの外国の大使が出席していて、独特の空気が流れていたのを覚えている。
それでもまぁ私だって多少はおもてなしの気持ちもあるし、たまたま同じテーブルの新任の外国の大使がわが国独自の食べ物に困っているように見えたので、食べ方を教えてさしあげた。
私はささやかながらもわが国の文化を外国の方に紹介できたことを少し誇らしく思っていたし、その縁でその大使ご夫妻とは少し仲良くなることができたのを嬉しく思っていたのだけど。
そこへ、ふと寄ってきたアンナリースさんが、いきなり話に割って入ってきたかと思うと、私の食べ方をごく初歩的なものだと紹介し、さらに『上級者はこんな食べ方をする、これでこそ通だ』といったことを得意の言語でペラペラペラペラ喋りだしたのだった。
しかもなんだかこれ見よがしな態度で。





