12.エリン・ファジルカス伯爵夫人
「リリーはきっとエリン・ファジルカス伯爵夫人のところに現れるわ。もうただの偶然には思えないもの」
私は小声でスカイラー様に言った。
私は、もうアンナリースさんのことは放っておいて、さっさとエリンさんのところへ忠告に行こうと思った。
スカイラー様も私に賛同した。
「行こう。猫が何を企んでいるか分からないけど、厄介なことが起こる前に未然に防げるなら、その方がいいい」
私とスカイラー様が連れ立ってテルマン家の応接室を出ていこうとしたので、
「待て、どこへ行く」
と元夫が不審そうに呼び止めた。
「うちのリリーが怪我をさせたわけじゃないのでしたら、ここに長居する必要もありませんしね」
私はつんと答えた。アンナリースさんに絡まれるのはもう御免だし!
元夫はまだ探るような目でこちらを見ている。
「バーニンガム伯爵と何か企んでいるような素振りだが?」
「何も企んでいません。それにあなたには関係ないことです」
「いや、関係あるね。リリーちゃんがまだ見つかっていないんだ。探しに行くんだろう? 私も行く」
私は「げえっ」と思った。
「いや、もうこれ以上はついてこないでください。あなたね、分かってますか? マリネットさんもアンナリースさんもあなたの浮気相手なんですよ? あなたの蒔いた種なの。『リリーちゃん』ばっかり言わず、いいかげんに自覚を持ってくださいな」
ついてくるだけで、この人何もしないしね!
アンナリースさんはアンナリースさんで、「そうよ、責任取れ」だのなんだのぎゃーぎゃー言っている。まあ、無視すべきだが。
元夫は私の苦言には返事をしなかった。
ただ私の顔を見て、
「で、どこに行くんだ」
と聞いた。
「言いませんよ。ってゆか、ここまでくればご自分でも想像つくでしょう!」
「エリンか?」
元夫は低い声で聞いた。元夫は元夫で一応何かを察しているようだった。
私は投げやりな言い方で答えた。
「ええ、その通りですよ! あなたが真面目にお付き合いした3人の中で、私が一番嫌いなエリンさんです!」
エリンさん。
露出高めのグラマラス美女。
私が(元)夫と結婚してからすぐに(元)夫と交際を始めた人。
なぜ一番嫌いかって? なぜなら、私を一番悩ませた人だから!
当時は(元)夫が妻以外の女性と交際するなんて全く理解できなかったから(もちろん今も、慣れたとはいえ、理解はしていないが)、(元)夫が堂々とあちこちの夜会などにエリンさんを同伴するのが許せず、ひどく私を悩ませていた。
なぜ? 妻である私を同伴せず、グラマラスな美女と? あの女性と(元)夫の関係は何? もしかして恋人? いや、でも、(元)夫には私という妻がいるはずで……。
考えはいつも堂々巡り。
社交の場に(元)夫が私をエスコートしてくれないのが情けなく、堂々と別な女性と腕を組んでいるのを見せつけられるのが惨めで、そしてあちこちでひそひそと噂されたり同情されたりするのがつらかった。
しかもエリンさんは前述のとおり露出高めなグラマラス。そしてエリンさんを夜会などに同伴した日は、(元)夫は家に帰ってこないことが何度もあった。
(元)夫がひどく下品な人間に見え、そんな人間と結婚している自分の品位まで貶められている気になった。
私は望んだ人をあきらめてまで、この(元)夫に尽くそうと覚悟して結婚したのに。
その(元)夫は別の女性とうつつを抜かしている!
妻って何? 私という存在はいったい何のために存在しているのだろう?
(元)夫や浮気相手のことを考えると、昼でも夜でもとにかく苦しくて、息ができないような気持ちになった。
エリンさんは私にとって一番のトラウマ相手になったのだ。
こんなに時が経ってもあのときの耐え難い記憶は消えない。
ええ、今だって、まざまざとあの時の気持ちを思い出すことができますよ!
私は元夫を睨みつけた。
元夫は「一番嫌い」という言葉にたじたじとなったようだった。
しかし、そこで怯む元夫ではなかった……。
元夫は真面目な顔で、
「ならば、エリンのことは余計に私が解決しなければなるまい」
と言ったのだった。
「いや、だから――」
私が、元夫が煩わしいというのが何で伝わらないのかと、もう一度説明しようとしたとき、
「同行してもらいましょう」
と、スカイラー様が口を挟んだ。
「えっ」
私は思わずスカイラー様を振り返った。どういうつもり?
しかしスカイラー様は苦笑して、そっと私の肩をぽんぽんと叩くだけだった。
当の元夫の方はな~んにも深く考える様子もなく、スカイラー様の許可が出たことで、ついてくる気満々になっている。
結局、私たちは3人でエリン・ファジルカス伯爵夫人を訪ねることになったのだった。
(テルマン家を出るまではアンナリースさんが「私のことを放っておくのか」などと最後までぎゃーぎゃー言っていたが。)
さて翌日、私たちがファジルカス伯爵家を訪ねると、使用人が「ご夫妻は今屋敷にはおりません。大神殿の方へ礼拝に行っています」と教えてくれた。使用人が言うことには、ファジルカス伯爵家には定例の礼拝以外にも定期的に神殿に礼拝しにいくという習慣があるのだそうだ。
私たちは言われた通り大神殿へ向かうと、確かにそこにファジルカス伯爵夫妻が祈りを捧げている最中だった。
私たちは礼拝が終わるのを待ち、そして礼拝が終わったところでそっと控えめに夫妻に近づいた。
ファジルカス伯爵が怪訝そうな顔をした。
そのとき、スカイラー様がファジルカス伯爵の耳元で何か囁いた。ファジルカス伯爵は何か驚いた顔になって、そして小さく肯くと、夫人の方に一言残しスカイラー様と一緒に席を立った。
「え?」
私はスカイラー様の思惑が全く分からず戸惑った。
しかしスカイラー様が小さく私にウインクして寄越すので、とりあえず、ファジルカス伯爵の方は彼に任せ、自分は予定通りエリンさんの方に忠告することにした。
エリンさんの方は、急に目の前に、かつての恋人とその正妻だった女が立ちはだかったので、ぎょっとした顔をしていた。
「あ、あの……あのときのことは……」
などとひどく恐縮した様子で私を前に縮こまった。
私はその話題には触れたくなかった。(いや、その過去があるからこうして忠告に来ているわけなので、矛盾と言えば矛盾なのだが。)
私は小さく息を吸って吐くと、
「最近、白いふわふわ猫を見かけたりしませんでしたか?」
と単刀直入に尋ねた。
エリンさんは急に予期せぬ質問が来て、一瞬ぽかんとした。そして意味が分からないまま、
「え、あの、見てません」
と答えた。
私は一先ずほっとした。
「それは良かったわ。でも今後白いふわふわの猫が現れるかもしれないから、ちょっと忠告しに来たんです。その猫はあなたに災いを持ってくるかもしれないから、余計な手出しをしないように気を付けてほしいの。そして白いふわふわ猫を見つけたらすぐに連絡をくださいな」
エリンさんは、まだ頭に?マークをくっつけている。
「? わかりました……」
素直に分かったと言ってくれたし、リリーがまだ接触していない以上、エリンさんに絡む理由は私にはないので、
「では今日のところは帰ります」
と私はくるりと踵を返した。エリンさんの顔も見ていたくないのよ、本当は。
すると、エリンさんが勇気を振り絞るような声をあげた。
「待ってください、あの、お話が……!」
私と一緒に帰ろうとしていた元夫がエリンさんを振り返った。
「私かい? 私は君とよりを戻す気はないよ、悪いけど」
エリンさんは、「は?」と呆気にとられた顔をして(いや、私も唖然とした、どんだけ元夫の頭の中はお花畑なのかと気の毒に思ったくらい)、それから「あり得ない」と鬼の形相になった。
「今すぐに消えて、マクギャリティ侯爵。あなたって心底気持ち悪い!」
エリンさんがそう叫んだときだった。
ちょうど礼拝堂の隣室からスカイラー様とファジルカス伯爵が戻って来たのだった。
ファジルカス伯爵は妻の悲鳴に似た叫び声にぎょっとしたようだった。
夫人を庇うように駆け寄ると、いきなり元夫の顔面を拳で力いっぱい殴りつけたのだった。
昨日はアンナリースさん、今日はファジルカス伯爵。
元夫は厄日が続いている。
しかし、男に殴られたとあっては大人しく殴られている元夫でもなかった。
元夫はすぐさまぎゅっと拳を握り、自分がやられたのとまったく同じように、ファジルカス伯爵の顔面を拳で力いっぱい殴りつけたのだった。
ファジルカス伯爵が「ぎゃっ」と低く呻いた。
するとそこへ血相を変えた神官が飛んできた。
「ちょっと! ここは神殿ですよ! 神の目の前で暴力とは何事ですか! 神官長様から直々のお叱りを受けていただきますっ!」
その神官は二人のあまりの不埒な行動に声が上擦っている。
元夫とファジルカス伯爵は、互いに罵り合い責任を擦り付け合いながら、神官に懺悔室の方へ引きずられていった。
その神官に、スカイラー様が何やら素早く耳打ちした。
神官は余計に険しい顔になって短く頷くと、元夫とファジルカス伯爵を懺悔室に叩き込んだのだった。





