10.嘘
私は、さっきまで元夫の訪問を撃退するためにスカイラー様と控えていた部屋に、当局の派遣員を呼び入れた。なぜだか、元夫が当然の顔をして同席している。
「あの、何が起こったのでしょうか。どういった経緯で?」
私は当局の派遣員におずおずと尋ねた。
当局の派遣員は固い表情のまま、次のようなことを説明した。
本日午後、アンナリース・テルマン子爵令嬢から通報があった。
内容はラングストン伯爵家のご息女ディアンナ様(※私のこと)の飼い猫が手の甲を引っ掻いたため、謝罪などを希望する、とのことだった。
「もう少し詳しくお聞かせください。猫に引っ掻かれたとき、そのときアンナリースさんはどちらにいらっしゃったのですか? うちの猫がアンナリースさんのお邸まで行ったということでしょうか。それから、うちの猫だと分かった理由は? 首輪でしょうか。では、アンナリースさんは猫を保護してくださったというわけですかね?」
私は状況がいまいちよく分からなかったので聞き返してみた。
すると当局の派遣員は途端に困った顔になって、「それがね、こちらが詳細を聞いてもアンナリース様は誤魔化すばっかりであまり要領を得なかったのですよ」とため息交じりに応えた。
「えっ、では真偽のほどは……」
私が思わず疑いの声をあげると、私の隣のスカイラー様も目が鋭くなった。
当局の派遣員も申し訳なさそうな顔をした。
「ですから、これは私どもからのお願いと申しますか。どこまで本当か分からない案件をそのままこちらに持ってきたのは非常に申し訳ないと思うのですが、とりあえず先方はあなたの謝罪を強く要求していますので、話を聞いてやってもらえませんかね? その、あんまり質の悪い内容でしたら当局ももちろん介入いたしますから」
私とスカイラー様はどうしたものかと顔を見合わせた。
しかし、そこで当局の派遣員は言いにくそうな顔で私を見た。
「ところでね、世間では、マクギャリティ侯爵と婚約していたマリネット・ソダーバーグ男爵令嬢が事故で怪我をしたことが知られています。そして、この度、その……マクギャリティ侯爵と交際の事実があったアンナリース嬢が怪我をしたということであれば、復讐とか……そんな何かしらの関与がね、疑われても仕方ないんですよ……」
「ああ……」
私はげんなりした。
しかし、それまで一言もしゃべらなかった元夫が、急に大真面目な顔で腕を組みなおした。
「何、アンナリースのところにリリーちゃんがいるかもしれないってことだろう!? なら『行く』の一択だな! ディアンナが行かないというなら私だけで行くぞ」
「そんなっ! あなただけで行かせるわけにはいきませんよ」
私が思わず言うと、元夫はうんうんと頷いた。
「そりゃそうだな。おまえに謝れと言っているのだから、おまえも行かないと話にならないからな」
私は呆れて元夫の顔をしげしげと眺めた。
「あなたねえ。元浮気相手のところに、いったいどんな顔して訪ねるというの。気まずいなあ、とかそういうのはないんですか」
「ないぞ。もう別れたのだから。過去の女だ」
元夫はあっけらかんと答える。
私は唖然としてしまった。なにこの強靭な心臓……頭のネジが一本足りないんじゃないかしら。
が、まあ、リリーがアンナリースさんに怪我をさせたというのが本当なら、放っておいてよい案件ではない。
私は当局の要請通りにアンナリースさんの元を訪ねることにした。
スカイラー様も心配そうについてくると言ったけれど、それはきっぱりと固辞した。加害疑惑である以上、バーニンガム伯爵家を巻き込んではいけない。
そして、テルマン子爵家の邸にアンナリースさんを訪ねると(元夫も当然のようについてきたのだが)、アンナリースさんのご両親が「ああ、やれやれ」と言った顔で私たちを出迎えた。その感覚、とってもよく分かるわ!
マリネットさんのときと違う点は、マリネットさんは元夫と婚約していたけど、アンナリースさんは元夫のただの浮気相手でしかなくて、二人の関係についてはご両親も冷ややかに思っていただろうということ。それが、ご両親の表情からありありと伝わってくる。
アンナリースさんもご両親にはたぶん浮気のことは相当否定的に言われていた様子で、凄い勢いで応接室に飛び込んでくると、まだ私がご両親にまともに挨拶もさせてもらっていないタイミングで、無理矢理にご両親を応接室から追い出してしまった。
凄い気迫……。よっぽどご両親を前には恥ずかしいのでしょうね。
アンナリースさんはご両親を追い出すとほっとしたように息を吐き、そしてくるりと私たちの方を向いた。私たちに文句をいっぱい言ってやりたいと思っているような目つきだった。
「このたびは、大変申し訳ございませんでした」
私はすぐに謝った。
するとアンナリースさんは一瞬気まずそうな顔をした。私は「あれ?」と思った。私が不審そうに見ていることに気付いたのか、アンナリースさんは、唇をぎゅっと結んで、しかし私には目を合わせないままに、右手を私の方へ突き出した。
確かに手の甲全体に白い包帯がまかれている。利き手がこんな状態では確かに日常生活に支障が出そうだった。
私は申し訳なく思って、
「怪我のおかげんはいかがですか? 本当にすみません。ご不便ですよね。治るにはどれくらい時間がかかると言われましたか?」
とそっと聞いた。
しかし、アンナリースさんは返事もしない。
確かに……。まあ、いきなりこんな怪我をさせられては、怒りたくなる気持ちも分かる……。
かといって、ずっと返事をしてもらえない状況は、私としてもとても居心地悪く、せめて何か説明してもらえないかと質問を繰り返すしかなかった。
「あの……うちの猫はどんな状況でそのような傷を負わせたのですか? そして今うちの猫はどこに?」
すると、今までまるでそこにいないかのように黙っていた元夫が、急に
「そうだ、リリーちゃんはどこなんだっ!」
と叫んだ。
私は、この状況でもリリーのことしか考えていない元夫に呆れ返ってしまった。
そして、
「猫の前に言うことがあるんじゃないですか!?」
と窘めた。
アンナリースさんもバッと顔を上げ、怒気を含んだ目で元夫を睨みつけていた。
そりゃそうなりますよね、と私が思っていたとき。
急にアンナリースさんが大股で元夫の方にずかずかと近寄り、
「あなたは私を一方的にふって、許せない! 今だって、猫が何!? 私より、猫!?」
と喚き始めた。
すると、あろうことか、元夫は憮然とした顔でアンナリースさんを真正面から眺めて、
「仕方ないだろ、君に飽きたんだから」
と言ってのけたのだ!
ちょっと、そんなこと言っちゃあいけませんよね! 私はすぐさま心の中で突っ込み、場をどうやって収集するか、急いで頭の中をフル回転させ始めた。
が、あまり考える必要はなかった。
アンナリースさんはものすごいスピードで腕を振り上げると、バチッと元夫の頬を叩いたのだった。
「え?」
元夫はさすがに叩かれるとは思っていなかったようで、驚いた目でアンナリースさんの方を見返した。
が、もっと驚いたのは私の方だった。
「ちょっと、その手……」
バチッとすごい勢いで叩いたときに、元夫の頬で擦れたのだろう、アンナリースさんの手の甲の包帯がずいっとズレていた。
包帯の下には美しい、傷一つない肌が見えていた。
え、ええと!? まさかの、無傷!?
ちょ、ちょっと、どういうこと!?
当局にも、私にも、アンナリースさんはまともに怪我の経緯を説明しなかった。それってやっぱり、言えなかったってこと? 虚言だったから?
元夫もアンナリースさんが怪我をしていないことに気付いたようだ。
「君、その手……」
元夫は絶句した。
さて、この状況、私はどうしたらいいのかしら。ええと、少なくとも、全部アンナリースさんの嘘だったということははっきりさせないといけませんよね?
そこで、私がなぜうちの猫が怪我をさせたなどと嘘をついたのかアンナリースさんに問い詰めようとしたとき、急に応接室の扉が開き、テルマン家の執事に案内されるようにしてスカイラー様が入ってきた。
「えっ? えええっ!? スカイラー様。なぜここに?」
私は混乱してしまった。





