令嬢と騎士
それは、いつものように宿題を抱えて図書室に向かっている途中で起こった。
立ち止まったニコに、何かあるのかとティアが顔を上げると、彼はそわそわと向こうを気にしながら、ちらりとこっちにも視線を送ってくる。
「――あのー……」
困ったような顔をしているニコに、何事かと思って首をかしげ、しきりと彼が見やっている方角に意識を向ける。
と、男女が軽く言い争っているような音が聞こえてきた。
――そして気のせいでないならば、男の方に嫌と言うほど心当たりがある。
主に全身に悪寒が走って眉間に皺がガッツリよるほど気に食わない相手として。
「どうするっすか。あそこ通らないと、この道からだと図書室には行けないっす。ちょっと時間かかりますけど、遠回りするっすか? ……あ、いや、そうしましょうっす、面倒事は避けるに限るっす! ちょっとご令嬢の方が気になりますが――」
ニコがわたわたしていると、止める間もなくティアは歩き出した。
あっ、ちょっ、とニコが慌ててついてくる。
ティアにとっては冷静な論理的思考判断よりも、あの男のために自分が何か譲ることなんて絶対嫌だという個人的感情が圧倒的に優先された。
憮然とした表情で廊下を突き進むと、やめたほうがいいっす、引き返しましょうよ、と後ろからニコが一生懸命何か言っている。
腕を引っ張ってまで止めようとしたようだが、もう遅い。
角を曲がったら、はたしてそこに覚えのある顔が突っ立っていた。
ヒートアップしていたせいで気が付かなかったのか、第三者の登場に息を呑んだ後、露骨にティアと同じ、お前の顔なんか見たくないのに何で現れた、といった表情になった赤薔薇のエースははたりと口論をやめる。
一瞬だけ足を止めたのち、何事もなかったかのように横を通り過ぎようとしたティアは、やっぱりというかなんというか呼び止められた。
「待て、貴様!」
売られた喧嘩なら買わねばなるまい。特に、この男が相手の場合。
ティアはあわあわと青くなっているニコを余所に、くるっと振り返るとリリエンタールをにらみつけた。
しばらく両者沈黙し、やがてらちが明かないと思ったのか赤薔薇騎士の方が先に口火を切った。
「……何か言うことはないのか?」
「何も」
即答するティアに言いつのろうとするリリエンタールに、先ほどまで彼と何事やら言っていたらしい女性が控えめで柔らかな声をかける。
「エド」
「お前は黙ってろ。男と男の話に口を出すんじゃない」
語気荒く傍らの女性に吐き捨てたリリエンタールに、ニコが反射的にきっと目を吊り上げて何か言いそうになったが、相手に一睨みされるとしゅんと小さくなってこっそりティアの後ろに陣取り、
「シーグフリードさん、チャンスっす!」
なんて無責任に後ろの方で小声の声援を送っている。
何のチャンスだ? と首を捻ってる間に、リリエンタールは女を押しのけ、再びティアと睨み合った。
「無言で通り過ぎようとはいい度胸じゃないか。お前も軍人の端くれなら、先輩に会ったら挨拶だろ」
「取り込み中に声はかけるなとも習った。お前じゃない先輩から」
ティアは苛立ち紛れに答えた。
一応、一通りの上下関係を学ばなかったわけではない。近衛とて軍人、階級は絶対。すれ違う時は必ず目下から目上に挨拶。そんな風に師父も先輩も、あと座学の教師も言っていた気がする。
だが黄薔薇の先輩たちは、ただし女性と一緒にいるときの男は大体取り込み中だから、緊急事態以外で邪魔してやるなと捕捉していた。それも忘れっぽい後輩のために何度も。
何よりリリアナが伝言とは言え、
「ニコから聞いたぞ。お前、先輩たちに態度悪いんだってな。いいか、軍人ってのは――」
に始まる有難い愛の言葉、もといお説教を直筆で書いて(ニコ経由で渡して)よこしたので、大事に心にも机にもしまっている。
要するに、偉いヒトには逆らっちゃ駄目。あとできるだけ面倒事に巻き込まれるな。これ絶対。
特に相手が誰だろうと、暴力は禁止。
守れないのなら、出世はできない――つまりリリアナと結婚できない。
当然ながらにゃんにゃんもできない。死活問題だ。
……後半の解釈は、彼女が書くわけがないから、いつも通り勝手に本人が自主的に脳内補完しているのだが。
ゆえに、以来ティアは彼なりに、たとえいけ好かない赤薔薇所属だろうと、騎士たちのよき後輩たろうとつとめた。
結果はともかく努力は認められたのか、黄薔薇ではお前最初に来た時より大分騎士らしくなったなあ、なんて評価を得ている。
それらから総合するに、この場での一番正しい応対は、おとなしく別の道を選ぶかきちんと無難に挨拶して通り過ぎるかのどっちかなのだろう。
だが、相手がこの男なら色々と話は別だ。
他の騎士たちもおり、師父が横にいてたしなめてくる、そんな状況ならしぶしぶ他の騎士と同様にふるまうが、幸い(いや不幸にも)今は監視の目はなく、思う存分喧嘩できる。
師父やリリアナの言いつけがあるから手は出せないが、まあ口だけならほどほどにな、と彼女の達筆な文にも書いてあった。
もらってから毎朝毎晩読み込んで反芻してるんだから間違いない。寝るときは枕の下にそっと置いて夢に出てきてくれと拝んで念じているほどなんだから間違いなんて何もない。
そして過去にリリアナを口説いたことがあるらしいこの男に何かを譲るなんて断じて許せない。
ゆえに、今のティアはリリエンタールと口喧嘩で応酬する気概に溢れていた。
一方、こちらもやる気満々らしい赤薔薇のエースは見習いの言葉に目を細める。
「ふん、黄薔薇らしい品のなさだな」
「品がないのは赤薔薇の方じゃないのか。新人には残飯をかけて歓迎するんだと師父から聞いた」
「そんなことをされるのは一部のなってない――」
「エド、だーめ」
言いつのろうとしたリリエンタールを再び女性が宥めた。
今度はぱしん、と扇子で頭を叩いたので、さすがのリリエンタールも黙り込む。
ティアはここに至ってようやく女性の方を認識した。
柔らかながら凛とした声、凹凸のある身体、そして変な髪形まで目が届いてようやく思い至った。
縦ロールだ。
普段他人にあまり興味のないティアだが、あの摩訶不思議な髪形はさすがに印象に残っていたらしい。
ニコがあっ、と声を上げたので振り返ると、こっそり早口で耳打ちされる。
「図書室で最近いつもご一緒してる人っす。ほら、最初に文官様とお会いした時にも会ったことあるっす。貴族のご令嬢なんでしょうっすけど――」
そうだったっけ、とぼんやりティアが思っている間に、いつの間にかリリエンタールと女性の間で口論が始まっていた。
「黙ってろと言ったはずだぞ」
「だって見ていられなかったんですもの。仮にも赤薔薇のエース、リリエンタール家の嫡男がこんなにわかりやすいいじめだなんて。すっかり赤薔薇らしくなってしまったのね」
「どこがいじめてた、普通のことを言ってただけだろうが」
すると女性はにっこりと笑った。
邪気のない天使のような笑みに、ニコは呆け、リリエンタールはげっと何か不味いことを予感する顔に、そしてティアは喧嘩の相手を奪われて早くも手持無沙汰、妄想タイムに入りかけている。
「エド、わたくし、ちゃあんと知ってますのよ? 誰かさんが後輩いびりに精を出している理由。
いけないと思うわ、いくら殿下にまたフラれたからって、侍女連中にもわかるくらい荒れるだなんて。おかげでわたくしのところにもいろいろ入ってきてますのよ? 今度は随分頑張ったみたいだけど、まさか張り手されるなんて、あなたったらなんて駆け引きが下手というか堪え性がないと言うか――」
「やめろ、やめるんだ、クローディア!」
途端に凛々しく美しいリリエンタールの顔は真っ赤に染まる。
ついでにティアの脳内も真っ赤に染まりかけたが、暴力ダメ絶対、愛しいヒトの言葉は偉大だ。
彼は最近覚えた、殴りたくなったらリリアナの顔を思い浮かべて気を鎮めるというスキルを如何なく発揮した。
あっという間に劣勢になったらしい赤薔薇の騎士が、自信満々な先ほどと打って変わってしどろもどろに何やら一生懸命言い訳しようとしているのを流しつつ、女性はふんわり笑みを浮かべてこちらにお辞儀してみせる。
「前にお会いしたことだけはあったかしら。お初にお目にかかりますわ」
二人の男が沈黙していると、縦ロール令嬢は彼らを見比べ、愛らしく眉根を寄せた。
「ひどいわ、エドったら紹介もしてくれないなんて。レディに自分から名乗らせるおつもりなの?」
小さいながらも明らかに舌打ちはしたが、しぶしぶリリエンタールは口を開いた。
「そいつは黄薔薇騎士団所属の騎士見習い、シーグフリード=テュフォンだ。で、見習い。こっちのご令嬢はクローディア=キャンベルだ。ちゃんと挨拶しろ」
こちらも心の中で舌打ちしつつも、ティアはぎこちなく先輩から習った女性への挨拶とやらを思い出して真似をする。
慣れた手つきで右手を差し出すクローディアの手を取り、喉の辺りまで上げてから戻す。
――実際は口元に持っていくのだから、若干所作が適当じみていたが仕方ない。
リリエンタールの知り合いと言う時点で、彼の中のカテゴリーでは限りなくなるべく関わらない相手として認識されているのだから。
クローディア嬢はしかし、そんな態度に不満を示す様子もない。
そんな様子を横目に、すっかり蚊帳の外におかれているニコは、さりげなく三者に声の届かないところまで下がり、左手首に巻いてある紐のようなものを握って目を閉じている。
「クローディア嬢?」
一方、ティアがまさに令嬢と赤薔薇騎士と対面している瞬間、王城の一角でヒューズは呟いた。
「って言っても君に止めろったって無理だろうし、もう知り合っちゃったんでしょ? まあ、僕は別に構いませんけどね。どうせ遅かれ早かれ同じことでしょうし。追っかけてたんでしょ? あの令嬢。だったら仕方ないですって。これも経験のうちですよ」
ヒューズはしばし黙ってから、口の端を吊り上げ、人気がないのをいいことにいかにもな悪人面になった。
「あ? 温いこと言ってんじゃないですよ。――その程度で壊れちまう愛情ならさっさと破局しちまえ。そういうところですよ、王城は。君もいい加減慣れなさいって。大丈夫大丈夫、なんとかなりますよ。まあでも、今のところ僕は動くつもりありませんから。じゃ、後は頑張ってね」




