表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

31/37

30話 雨

 四日間あるお盆休みのうち、最初の二日は夏希といつも通り過ごした。夏希の友達もこの時期は遊べないらしく、のんびり宇多方村を散歩したり、一緒に天ぷらを作ったりして時間を潰した。


 三日目の朝、モチ太の家に夏希を預けた。


 モチ太は事情を聞かなかったが、茶化してはこなかった。時期が時期だし、なにかを察していたのかもしれない。ただ一言「ここは僕に任せて先に行け」と力強く背中を押された。


 有原との待ち合わせ場所は、いつものバス停。この町からは、どこへ行くにもこのバス停を使わないといけない。午後から雨の予報なので傘を持って、バスが来る十分前に到着する。有原はそれから三分後にやってきた。


 白いブラウスの上に、黒いカーディガン。下も黒いスカート。

 目が合うと、軽く手を挙げて微笑む。モノトーンの色彩で笑う彼女は、儚くて綺麗だった。


 眠れていないのだろうか。近づくといつもより、顔が青白いのがわかった。


「おはよ」

「おはよう」


 並んで立って、少しだけ天気の話をした。雲が低く、色が黒い。雨雲だ。もうすぐ雨が降ってくる。お墓参りまでは降らないでほしい。


 そんな会話をして、しかし雨は降り始めた。俺たちがバスに乗ってすぐ、窓ガラスに斜めの線を引く。夏の雨は重たい。大粒が叩きつけ、すぐに視界を覆うほどの豪雨になる。有原は窓に手を当てて、そっと唇を噛む。結露で曇った窓には、細い指の跡が残っていた。


 バスを降りる。雨はさらに勢いを増す。

 屋根付きのバス停の下で、有原は途方に暮れていた。


「はぁ……。すごい雨」

「どっかで雨宿りするか。この辺、何軒かカフェもあるみたいだし」


「そうだね」

「一番近いところでいいか?」


「うん」


 傘を開いて、大雨の中に踏み出す。歩道の真ん中には川ができているので、なるべく端を歩く。並んで歩く余裕はなかった。一列になって、黙々と目的地を目指す。俺が前を歩くから、有原の様子はわからなくて。心配だから、ときどき振り返った。


 喫茶店までは五分ほど。その間に、靴下もズボンの裾も濡れてしまった。傘に溜まった水を落として、店内に入る。心地よいベルの音。暖色のライトと木製のインテリアで統一された店内は、コーヒーとトーストの香りがした。


 案内された席について、メニューを開く。


「なに頼む?」

「私はホットミルクで」


 正面から見ると、明らかに顔色が悪い。心なし呼吸も浅くて苦しそうだ。


「大丈夫か?」

「全然大丈夫じゃない。昨日は寝れなかったし、朝ご飯も食べれなくて。しかも雨でしょ。最悪の中の最悪よ」


 有原は口をへの字に曲げて苦笑い。その表情ができるなら、まだ大丈夫そうだ。思い詰めているより、最悪だと笑ってしまえる方がずっといい。


「じゃあさ、俺がサンドイッチ頼むから一緒に食べよう。なんか食べないと、もたないだろうし」

「一緒にって……いいの?」


「いいよ。食べられなかったら、後は俺が食べる」

「ありがと」


 強がったりしないで素直に頼ってくれる。それは本当に、俺のことを信頼してくれている証なのだろう。一人では行けなかった場所も、俺となら。そんなふうに思ってくれたことが誇らしいし、その期待を裏切らない自分でありたい。


 注文が済むと、有原はそっと目を閉じた。


「眠いのか?」

「ちょっとね。でもここで寝るわけにはいかないし……ねえ、面白い話してよ」


「うーわ、一番嫌な振り方」


 面白い話をしろと言われてできるやつが、教室の隅にいると思うなよ。


「私、物部のこと信じてるから」

「間違った信頼を押しつけるな」


 有原が身を乗り出し、やけにキリッとした顔で見つめてくる。そんな顔をしてもだめ。面白い話って、プレッシャーかかるほど出なくなるから。


「信じてたのに……」

「くっ……」


 そんなに純粋な目で見られると、なんだかこっちが悪いみたいじゃないか。俺は全然悪くないのに。俺は、全然、悪くないのにっ!


「そんな目をしても無理なものは無理!」

「お笑い芸人だったら断らないのに」


「よそはよそ、うちはうち! っていうか俺とお笑い芸人を比べるな! 過酷すぎるだろ!」

「そっか。物部はもうお笑い芸人じゃないもんね……」


「もうってなに? 夢破れて東京から実家に戻ってきたわけじゃないぞ俺は」


 スターになることを夢見て上京したものの、夢が叶わずやさぐれて帰郷。久しぶりに会った同級生に励まされるみたいなシチュエーションじゃないから。


 普通に実家から追い出されて田舎に来ただけだから。あれ、こっちのが悲惨じゃない?

 有原は頬杖をついて、ぷっと吹きだした。


「変なの」

「さんざんからかってそれかよ」


「ねえ物部。お腹空いた」

「もうやりたい放題じゃん。サンドイッチ食べろよ」


 まだ来ないけど、もうすぐ来るだろう。食べたいなら、全部食べてしまっていい。俺は生活習慣が改善されてるから、正直まだ腹は減ってないし。


「ねえ、物部」

「ん?」


「大好き」


 なんでもないことのように、有原は言った。

 ボブカットの下で、大きな目が猫みたいに綺麗な曲線を描く。柔らかい声は、しなやかに鼓膜を叩いた。


 窓を叩く雨の音がやけにはっきりと聞こえる。店内のBGMが遠のく。入り口でベルの音。新しい客。近づいてくるホールスタッフが、俺たちの前に飲み物とサンドイッチを並べる。


 その全てが終わってから、ようやく脳が追いついた。


「え」


 有原が、俺のことを――好き? 違う。好きじゃない。大好き?

 それってつまり、有原は俺のことが大好きってことで。要約すると、有原は俺のことが大好きってことだよな。


「返事はしないで」

「いや、でも……」


 でもなんだ。俺は返事がしたいのか? なんて返事がしたいんだ。

 一番にはできないと言った。夏希がいるから。家族を一番にする。したい。それが俺なのだと、もう既に電話で伝えている。それを繰り返すのか? 有原はもう、知っているのに。


 下唇を噛んだ。言葉を呑み込むには、痛みが必要だから。


「……わかった」

「よろしい」


 ゆっくりと頷いて、有原はホットミルクに口をつける。頬がほんのりと赤い。

 目が合ったら心臓が跳ね上がって、慌ててストローに口をつけた。オレンジジュースが酸っぱい。


 雨はまだ止まない。

 この感情の行き場所は、どこにもない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ