30話 雨
四日間あるお盆休みのうち、最初の二日は夏希といつも通り過ごした。夏希の友達もこの時期は遊べないらしく、のんびり宇多方村を散歩したり、一緒に天ぷらを作ったりして時間を潰した。
三日目の朝、モチ太の家に夏希を預けた。
モチ太は事情を聞かなかったが、茶化してはこなかった。時期が時期だし、なにかを察していたのかもしれない。ただ一言「ここは僕に任せて先に行け」と力強く背中を押された。
有原との待ち合わせ場所は、いつものバス停。この町からは、どこへ行くにもこのバス停を使わないといけない。午後から雨の予報なので傘を持って、バスが来る十分前に到着する。有原はそれから三分後にやってきた。
白いブラウスの上に、黒いカーディガン。下も黒いスカート。
目が合うと、軽く手を挙げて微笑む。モノトーンの色彩で笑う彼女は、儚くて綺麗だった。
眠れていないのだろうか。近づくといつもより、顔が青白いのがわかった。
「おはよ」
「おはよう」
並んで立って、少しだけ天気の話をした。雲が低く、色が黒い。雨雲だ。もうすぐ雨が降ってくる。お墓参りまでは降らないでほしい。
そんな会話をして、しかし雨は降り始めた。俺たちがバスに乗ってすぐ、窓ガラスに斜めの線を引く。夏の雨は重たい。大粒が叩きつけ、すぐに視界を覆うほどの豪雨になる。有原は窓に手を当てて、そっと唇を噛む。結露で曇った窓には、細い指の跡が残っていた。
バスを降りる。雨はさらに勢いを増す。
屋根付きのバス停の下で、有原は途方に暮れていた。
「はぁ……。すごい雨」
「どっかで雨宿りするか。この辺、何軒かカフェもあるみたいだし」
「そうだね」
「一番近いところでいいか?」
「うん」
傘を開いて、大雨の中に踏み出す。歩道の真ん中には川ができているので、なるべく端を歩く。並んで歩く余裕はなかった。一列になって、黙々と目的地を目指す。俺が前を歩くから、有原の様子はわからなくて。心配だから、ときどき振り返った。
喫茶店までは五分ほど。その間に、靴下もズボンの裾も濡れてしまった。傘に溜まった水を落として、店内に入る。心地よいベルの音。暖色のライトと木製のインテリアで統一された店内は、コーヒーとトーストの香りがした。
案内された席について、メニューを開く。
「なに頼む?」
「私はホットミルクで」
正面から見ると、明らかに顔色が悪い。心なし呼吸も浅くて苦しそうだ。
「大丈夫か?」
「全然大丈夫じゃない。昨日は寝れなかったし、朝ご飯も食べれなくて。しかも雨でしょ。最悪の中の最悪よ」
有原は口をへの字に曲げて苦笑い。その表情ができるなら、まだ大丈夫そうだ。思い詰めているより、最悪だと笑ってしまえる方がずっといい。
「じゃあさ、俺がサンドイッチ頼むから一緒に食べよう。なんか食べないと、もたないだろうし」
「一緒にって……いいの?」
「いいよ。食べられなかったら、後は俺が食べる」
「ありがと」
強がったりしないで素直に頼ってくれる。それは本当に、俺のことを信頼してくれている証なのだろう。一人では行けなかった場所も、俺となら。そんなふうに思ってくれたことが誇らしいし、その期待を裏切らない自分でありたい。
注文が済むと、有原はそっと目を閉じた。
「眠いのか?」
「ちょっとね。でもここで寝るわけにはいかないし……ねえ、面白い話してよ」
「うーわ、一番嫌な振り方」
面白い話をしろと言われてできるやつが、教室の隅にいると思うなよ。
「私、物部のこと信じてるから」
「間違った信頼を押しつけるな」
有原が身を乗り出し、やけにキリッとした顔で見つめてくる。そんな顔をしてもだめ。面白い話って、プレッシャーかかるほど出なくなるから。
「信じてたのに……」
「くっ……」
そんなに純粋な目で見られると、なんだかこっちが悪いみたいじゃないか。俺は全然悪くないのに。俺は、全然、悪くないのにっ!
「そんな目をしても無理なものは無理!」
「お笑い芸人だったら断らないのに」
「よそはよそ、うちはうち! っていうか俺とお笑い芸人を比べるな! 過酷すぎるだろ!」
「そっか。物部はもうお笑い芸人じゃないもんね……」
「もうってなに? 夢破れて東京から実家に戻ってきたわけじゃないぞ俺は」
スターになることを夢見て上京したものの、夢が叶わずやさぐれて帰郷。久しぶりに会った同級生に励まされるみたいなシチュエーションじゃないから。
普通に実家から追い出されて田舎に来ただけだから。あれ、こっちのが悲惨じゃない?
有原は頬杖をついて、ぷっと吹きだした。
「変なの」
「さんざんからかってそれかよ」
「ねえ物部。お腹空いた」
「もうやりたい放題じゃん。サンドイッチ食べろよ」
まだ来ないけど、もうすぐ来るだろう。食べたいなら、全部食べてしまっていい。俺は生活習慣が改善されてるから、正直まだ腹は減ってないし。
「ねえ、物部」
「ん?」
「大好き」
なんでもないことのように、有原は言った。
ボブカットの下で、大きな目が猫みたいに綺麗な曲線を描く。柔らかい声は、しなやかに鼓膜を叩いた。
窓を叩く雨の音がやけにはっきりと聞こえる。店内のBGMが遠のく。入り口でベルの音。新しい客。近づいてくるホールスタッフが、俺たちの前に飲み物とサンドイッチを並べる。
その全てが終わってから、ようやく脳が追いついた。
「え」
有原が、俺のことを――好き? 違う。好きじゃない。大好き?
それってつまり、有原は俺のことが大好きってことで。要約すると、有原は俺のことが大好きってことだよな。
「返事はしないで」
「いや、でも……」
でもなんだ。俺は返事がしたいのか? なんて返事がしたいんだ。
一番にはできないと言った。夏希がいるから。家族を一番にする。したい。それが俺なのだと、もう既に電話で伝えている。それを繰り返すのか? 有原はもう、知っているのに。
下唇を噛んだ。言葉を呑み込むには、痛みが必要だから。
「……わかった」
「よろしい」
ゆっくりと頷いて、有原はホットミルクに口をつける。頬がほんのりと赤い。
目が合ったら心臓が跳ね上がって、慌ててストローに口をつけた。オレンジジュースが酸っぱい。
雨はまだ止まない。
この感情の行き場所は、どこにもない。




