『桐原悠里のトラウマ②』
「見たことある人?」と、隣の恭子に訊ねてみる。
彼女は静かに首を振った。「あたしが悠里と親しくなったのは、中学二年の頃からなの。そのときにはもう、彼女の両親って離婚していたから……」
恭子の声音は限界まで潜められ、語尾の方は辛うじて聞き取れる程。流石に都合が悪いのだろう。
それでも男性には聞こえてしまったようで、苦笑まじりに彼は答えた。
「面目ない。ずっと、海外に赴任していたからね。日本に戻って来たのも、今年の春頃の話なんだ」
桐原の父親と名乗る男性は、簡潔に自己紹介を済ませた後、続けて身の上話を始めた。
仕事の関係上、昔から転勤や単身赴任が多かったこと。家事や育児を任せっきりにする自分に、妻のストレスが溜まり、気持ちの擦れ違いから夫婦関係まで壊れて離婚に発展したこと。 家族の生活を犠牲にしていた自分を悔いて、中学に進学した娘の様子を見守るため、時々学校に足を運んだこと。しかしそれも、仕事の関係でインドネシアに移住することが決まると、完全に途絶えてしまったこと。日本に戻って来られたのが、三年ぶりであること等々を、順序立てて説明してくれた。
「元を正せば、誰が悪いというわけでもないんだろう。それでも、こうして未練がましく足を運んでしまうんだよ」
父親は、桐原の部屋がある二階の窓に目を向けると、力なく項垂れた。
「桐原……じゃなくて悠里さんが、文化祭の演劇で主役を演じることは知っていますか?」
「いや、初耳だ。なるほど、確かにそろそろ文化祭の時期だと思ってはいたが、演劇で主役……信じられないな。障害のある、あの子が……」
俺の言葉に父親は、感慨深そうに呟くと、茜色に変わり始めた空に視線を移した。
第一印象でマジメそうな人だ、という感想を抱いていたが、自分の判断に間違いはなかったと確信に至る。そこで俺は恭子に同意を求めたのち、桐原が今置かれている状況について、包み隠さず伝えていった。
桐原が数日間、学校を休んでいること。本人は体調不良だと自称しているが、多分本当の原因は精神的なものだろうという予測。このままでは文化祭の演劇にも影響が出るため、みんなが心配していること。彼女を説得するため自宅まで出向いてみたものの、(おそらくは)部屋の中に閉じこもったまま、応じてくれないこと。
「あなたにお願いがあります」と俺は頭を下げる。「どんな方法でも構いません。悠里さんと話をする場を、設けて貰えないでしょうか?」
しかし彼は目を閉じ腕組みをすると、難色を示した。
「そうしてあげたいのも山々なのだが、生憎、僕と元妻の関係は冷え切っていてね。残念ながら、現状では、家にこもっている娘と接触を図る方法がない」
そうですか、と落胆しながらも、しょうがない、とも俺は思う。
もし、桐原が健常者であったなら。
もし、彼女が電話に応じてくれたなら。
電話口から父親の声を聞かせてやるのも可能だろうに。それすらも──してあげられないのか。
「では、一つだけ約束して下さい」と恭子が口を挟んでくる。「文化祭、見に来て頂けないでしょうか? 悠里なら、必ずあたし達で引っ張り出しますので。彼女の晴れ舞台を、見に来て頂けないでしょうか?」
父親は、「それくらいならお安い御用だよ」と笑顔で答えた。その後、俺たちは文化祭の日時を彼に伝えると、別れ際に一つだけ、気になっていたことを訊ねた。
「娘――悠里さんのこと、今でも変わらず愛していますか?」
彼は「勿論だ」と力強く頷いた。俺は「わかりました」と父親の返答を受け取ると、今度こそ彼とは別れる。走り去って行く車を見送りながら、一度だけ二階の窓に視線を向けた。
強くなった西日に目を細め、未だカーテンを閉ざしたままの薄暗い空間で、一人膝を抱えているであろう桐原の姿を想像してみる。
絶対に、お前を引き摺りだしてやる。
決意をひとつ胸に秘め、俺は家の前を後にした。
蝉の声は、全て涼しげなヒグラシに変わっていた。太陽が地上を照らす役割を終え、月と職務を交代するのを示す赤い光に、長雲は朱に染まっていた。
二人の影が、アスファルトの上に長く伸びる。下校時間など、とうに過ぎ去っているのを確認して、学校に戻る選択肢を完全に捨て去る。俺が「付きあわせて悪かった」と恭子に頭を下げると、「あたしなら、いつでも大丈夫だから」と彼女は薄く笑ってみせた。
近場に家がある恭子と交差点で別れると、俺は駅の方角に足を向けた。
* * *
電車に乗り、心地よい揺れに身を委ねながら、一ヶ月前書店で購入した本に視線を落としていた。けれど、本の内容は驚くほど頭に入ってこない。明らかに回転数の上がらない思考で、絶え間なく桐原のことばかりを考えていた。
もしあの日、歩道橋の上。俺が桐原に声を掛けたとしたら、彼女はどんな反応を示しただろうか。俺の胸に顔を埋め、苦しい胸の内を告白してくれただろうか。涙を、流してくれただろうか。
けれど、花火の夜、確かに開いたと感じた桐原の心は、既に閉じられている。それ自体は、直接家に出向いても応じてくれないこと。Lineのメッセージに返信一つ寄こさないことからも明白だ。
俺は……どうすればいい?
どうすれば、お前の心の扉を開くことができる……?
車窓から、宇都宮の街の光が見えた。その眩しさに耐えかねて車内に視線を戻すと、女子高生の甲高い笑い声が聞こえた。周囲に気遣う様子もない能天気な声音が、胸の内にある暗い感情を嘲笑っているようで、苛々が募っていく。
どす黒い感情に支配され気怠く俯いたとき、不意にスマホがLineの着信を知らせた。慌てて画面を確認すると、送り主は桐原悠里だった。
メッセージはシンプルに一行。『迷惑だから、もう家に来ないで』
それは叩きつけるような拒絶の言葉。
驚きで目を見開いた後に、張り詰めていた緊張が不意に緩んだ。とたんに、笑いが込み上げてくる。
お腹を抱えて暫くの間笑い続けた。女の子から辛辣なメッセージを送りつけられて笑い転げる男子高校生とか、知らない人から見れば恐ろしくシュールな光景だろうな。
自分の姿を想像したら、益々笑いが止まらなくなった。
先程まで聞こえていた女子高生らの笑い声は、こちらに向けられるひそひそ話に変化していた。
最高だぜ桐原。
正直なことを言わせて貰うと、このままずっとシカトを貫かれるのが一番怖かったんだ。自分の行き場のない感情を、どこにぶつけたら良いのか、わかんなくなってたんだ。
だが、お前は油断した。たった一度とはいえ、俺にメッセージを返してしまった。だから俺は、たった今確信したんだ。
先ず第一に、体調不良という話は嘘であること。
そして、重要な二つ目。
桐原悠里は――助けを求めている。
ならば、俺から返すメッセージも一つだ。
『イヤなこった。俺はこれからも、お前の心の扉をノックし続ける』
* * *
翌日、教室に入ると直ぐに慎吾が謝ってきた。「昨日は、悪かった」と。俺は「いやむしろ、俺も言いすぎた」と謝った上で、「けれど、お前が頭を下げるべき相手は俺じゃない」と付け加えた。すると慎吾も頷いた。「ああ、その通りだな」
桐原が登校しなくなって四日目。金曜日。案の定今日も、彼女の姿は教室にない。
昨日同様、俺は授業に全く身が入らなかった。三年生の大事な時期に、何をやっているんだろうなと再び思う。帰りのホームルームの終了を告げるチャイムが鳴り響き、放課後を迎える。教室の片隅で「桐原の代役をどうしようか」と真剣に相談を始めた、二階堂と果恋を横目に、俺たちは教室を飛び出した。
向かった先は、文芸部の部室。
向かったメンバーは、俺と、広瀬慎吾と、渡辺美也。
向かった理由は、五校時が始まる頃合に、桐原が俺と慎吾宛てに送ってきたLineのメッセージ。その真意を確かめるため。
届いた文言は、短文で二つ。
『ごめんなさい。やっぱり文化祭行けません』そして、『理由は、文芸部のパソコンを見てください』
俺はより確信を深めていた。桐原はやはり、塞ぎこんだ心のどこかで、”救いを求めているんだ”と。
文芸部の扉を勢いよく開くと、既に部室の中に居た下平早百合が、ひっと短く悲鳴を上げた。突然なだれ込んで来た男女三人の姿に、怯えた表情を浮かべた早百合に慎吾が言った。
「僕たちは、怪しい者ではありません」
「それ、怪しい人が吐く台詞だよ」
即座に美也に突っ込みを入れられ、慎吾は納得できない、という顔になる。
「驚かせてすまん早百合。不躾で申し訳ないんだけど、桐原のパソコンってどれだ?」
俺が質問をすると、早百合は、自分が座ってる席の隣にあるノートパソコンを指差した。「これか」と呟きながら椅子を引いて座ると、早百合にもう一度質問した。
「中身、見ても良いか?」
「わ、私に言われても……困るよう……」
天井を見上げて思案して、一拍遅れて確かにその通りだな、と思う。一応心中で桐原に謝罪をしながら、パソコンの電源を立ち上げた。
Windowsの起動画面を見守っていると、極限まで潜めた声で美也が訊ねてくる。
「ねえ。勝手に見たりして、ホントに大丈夫なの?」
「全然、大丈夫じゃない……かもな」
俺の言葉に、美也は肩を竦めた。
「そんな自信たっぷりに言われても、リアクションに困るんだけど……」
まったくである。
「けれど、しょうがないだろう。桐原が『見てください』って言ってんだから、見るしかないだろう。それに、今はとにかく情報が欲しい」
一方で慎吾は、「そうだな」と首肯した。
ホーム画面が表示されたのを確認して、マウスを操作していく。並んでいるアイコンの中に、『文芸部』というフォルダを見つけて展開してみると、更に二つのフォルダに別けられていた。
一つは『小説』。もう一つが『日記』。
「日記。こっちだろうな……」呟きながら、クリックしていく。
花火の夜、確かに桐原は言ったんだ。『毎日、日記を付けてるんだ』と。この中に日記が入っていれば、確実に何かヒントがあるはずだ。彼女が塞ぎ込んで、不登校に陥った本当の理由。
「とはいえ、他人の日記を盗み見るのはやっぱり気が咎めるよ。なあ斗哉。僕は席を外しているから、お前が代表して見ればいい」
慎吾が、気後れしたように提案してくる。
「なる程。確かに慎吾の言うことも一理ある。うん、見る人数は限定しようか。じゃあ悪いんだけど、慎吾と美也は、暫く席を外してくれるか?」
『了解』
二人から同意の声が返ってくるのを確認した後、俺は隣の早百合に問いかけた。「早百合――?」
「え、……はい?」
突然話を振られ驚いたのか、早百合の背筋が軽く伸びた。
「お前も一緒に見てくれ。旅は道連れ世は情けって奴だ」
「ええ……その言葉って、”世の中を渡るには互いに思いやりをもつのが大切”って意味だよね? その使い方は多分誤用だよ」
理屈っぽいなコイツ。流石文芸部だ。
「そうだっけ? まあ、何でもいいや。端的に言って、俺一人で見る勇気がないってことなんだ」
しょうがないな、と早百合が肩をすくめて嘆息する。俺はスマンねと呟いた後、『20**年』と書かれたフォルダを開いた。
20**年6月9日 (月曜日)
金曜日の放課後プールに行ったとき、渡辺さんから、自分も広瀬君のことが好きだと告げられた。同時に、正々堂々と勝負したいから、私に遠慮しなくて良いよ──とも。
正直言って、凄く困惑している。
遠慮なんてするまでもない。私が渡辺さんに勝てる要素なんて、何一つないのだから。
ごくり、と自分の喉が変な音で鳴るのを意識した。さっそくこの内容か。やっぱり美也と慎吾には見せなくて正解だったろうか。
20**年7月23日 (水曜日)
昨晩、勇気を出して、広瀬君を花火大会に誘ってみた。けれど、断られてしまった。
彼は花火大会の当日、渡辺さんのインターハイを応援しに行くらしい。
この瞬間になんとなく察した。広瀬君が想いを寄せている相手は、恐らく渡辺さんなんだって。
私が入り込む隙間、最初から無いのかな?
そうか――桐原の奴、ちゃんと慎吾を誘ってたんだな。お前思ったよりも度胸あんじゃん。エライよ。うじうじと思い悩んでいる俺なんかより、よっぽど勇気あるよ。
なる程なあ。だからあの時、涙を流したんだな。
おっと、しんみりしながら見てる場合じゃないんだよ。もう少し最近の日付けを確認しないと、ダメっぽいな。
次第に八月、九月と日記を展開していく。
そうして九月の日記を読み始めたとき、不意にソレは見つかった。俺の脳が明らかな違和感を検知して、マウスを持つ手が震え始める。心臓の動きと呼吸が同時に止まりそうな程の衝撃が全身を駆け抜け、足元がぐらりと傾く感覚に襲われた。
20**年9月11日 (木曜日)
昨日の帰り道、誰かに尾行されている気配を感じた。
大きい通りを外れ、自宅周辺の小路に入ってからのことだった。
足音が聞こえない私にとって、それは微細な違和感でしかない。誰かが向ける視線。もしくは気配のようなもの。
何度か振り向いてみたものの、結局誰の姿も確認できなかった。
なんだか怖い。気のせいだったら、いいんだけど。
20**年9月12日 (金曜日)
昨日も一昨日と同じように、尾行されてる気配を感じた。
自宅まで残すところ五十メートルくらいの場所。一瞬だけど着けてくる人影が見えた……ような気がする。聴覚で異常を察知できないぶん、どうしても発見が遅れてしまう。
明日から、防犯ブザーを握りしめて帰ろうと思う。
桐原の日記は、この日付けで途切れていた。
だが、それも必然だ。翌週の火曜日から今日までの間、桐原はずっと学校を休んでいるのだから。
とはいえ――このタイミングで終わっている日記に、嫌な妄想しか浮かんでこない。何か見落としているんじゃないのか? 桐原が見て欲しいと訴えてきたのは、この日記のことなのか?
そのとき、後ろで様子を見守っていた早百合が、俺の肩を叩いた。
「そこ見て。何かメールが届いてるみたい」
メールだって?「早百合? この部室ってWi-Fi環境あるのか?」
「……あるよ」と言いながら早百合は、壁際に置いてあるルーターを指差す。「部室の備品だよ。……だから、悠里のパソコンにアドレスが設定されていたら、外部からメールを送信できるよ」
なるほど。桐原の個人用パソコンのアドレスを知っていて、外部からメールを送信できる人物。この筆頭は、どう考えても桐原本人だ。
つまり、この受信メールこそが、彼女が見て欲しかった内容。
緊張で乾ききった喉を潤すため一度つばを飲み込むと、受信ボックスを開いてみる。そして直ぐに、今度は息を呑む羽目に陥った。
「おい、嘘だろ……」
俺の呟きと、早百合が息を呑む音が重なって聞こえた。
「慎吾、美也、お前らもこっち来て確認してくれ!」
この情報は皆で共有しないと駄目だと判断した俺は、即座に二人を呼びつけた。




