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見上げた空は、今日もアオハルなり  作者: 木立 花音
第四章:桐原悠里のトラウマ
20/30

『コンクール』

 会場は、落ち着いた色合いの、レンガ調の外壁で覆われた建物だった。前面ガラス張りになっている入口をくぐると、二階ホールへと至るゆったりとしたサイズの階段と、その上に吊るされている巨大なシャンデリアが目に飛び込んでくる。柔らかい陽射しがたっぷり入り込むエントランスは、壁の白さも相まって気後れするほどに明るい。

 ……凄いな。こんな会場で演奏するんだ。


 今日の日付は、九月六日。私、桐原悠里は、宇都宮市文化会館を訪れていた。親友である楠恭子に上田律。それから――広瀬慎吾君。彼らが出場する、東関東吹奏楽コンクールの応援をする為だった。

 今年の会場が、自宅からバス一本で向かえる地元宇都宮なのは幸いだった。障害を持っている私にとって、複数の乗り換えが絡む遠出は、それだけで高難度のイベントになってしまうのだから。

 ちょっとだけお洒落もした。ベージュ色のスキニーパンツにボーダー柄のニットワンピース。まだ残暑が厳しいとはいえ、朝は雲がでていて肌寒かったので、レースのロングパーカーを一応羽織った。


 階段を上って二階に到達すると、落ち着いた色の絨毯が敷かれている広い通路を、たくさんの高校生らが、楽器を抱えて往来していた。コンクールの参加者だろうか。

 ホールに入ると、そのあまりの広さに思わず視線が彷徨った。一列辺り二十四席の椅子が、階段状に、え~と……二十列以上あるのかな。とにかく凄い。感想がバカみたいでなんだかな、って思う。

 もちろん凄く混みあっている。東関東のコンクールだから、地元栃木以外にも、千葉、茨城、神奈川から来ている遠征組だって多いだろう。この辺の学校ではない見慣れぬ制服姿の女子高生らを避けて、最上段の列、端の方に席を取った。

 エントランスで貰ってきたプログラムを開いて視線を落とす。

 参加団体は全部で二十四。照葉学院の演奏順は二十番目。『この中で全国の舞台に進めるのは、たったの三校だけなんだ。それでもあたしは、ベストを尽くすよ』恭子は、力強くこう宣言していた。

 頑張って欲しい。会場スタッフが行き交うステージに目を向けて、補聴器の位置を確かめる。

 聴覚障害のある私が、吹奏楽コンクールを見に来るなんて馬鹿げている。他の人はそう思うかもしれない。むしろそれは、普通の考え方だとすら言える。

 ……確かに、私の聴力は殆どないのだが、実のところ、補聴器の助けを借りさえすれば、ほんの僅かではあるけれど、音を拾えるんだよ。

 なんて――本音を言うとそんなのどっちだっていい。音なんて、聞こえても聞こえなくても、そんなのどっちだっていい。

 ただ私は、みんなが頑張っている姿を記憶のなかに刻みたいだけ。広瀬君にとって高校生活最後のコンクールだから、彼の姿を見て、一緒に体感して、一生忘れられない思い出にしたいから――

 それがむしろ、重要なことだった。


 やがて各校の演奏が始まる。

 神奈川県の高校を皮切りに、レベルの高い演奏が展開されていく。私は耳が聞こえないけれど、そのぶんだけ他人の一挙一動を観察する力に長けている。その為一見しただけで、レベルの高い学校はなんとなくわかる。

 第一に、動きが乱れない。下手な団体だと、同じパートを担当している人のなかですら、微細な動きの乱れが生じる。

 第二に、指揮をちゃんと見ている。もちろんずっと凝視している、という意味じゃない。学校ごとに決められてるコンサートマスターを見てタイミングを取りつつも、常に視界の片隅で指揮者の動きをとらえている。こういった差異が、観察していれば自ずと見えてくる。

 コンサートマスターというのは演奏者の取り纏めをし、全ての演奏の起点となる人物のことで、吹奏楽においてはファースト・クラリネットが担当することが多い。

 けれど照葉学園のコンサートマスターは、サクソフォンを担当している恭子である。いや、女の子なのだから、コンサートミストレスとでも言うべきかな? それはともかくとして、敢えてサクソフォンの恭子が指名されてるのは、きっと凄いことなんだろうな。

 プログラムは進み二十番目。私立照葉学園の順番が回ってきた。

 会場の明かりが一旦落ちると、コンサートホールの空気が瞬時に張り詰めていく。私にまで会場の緊張感が伝わってきて、自然と手のひらが汗ばんだ。

 次の瞬間舞台の照明があがると、起立していた吹奏楽部全員の姿が見えた。強張っているみんなの顔を見渡して、頑張れ――と心中でエールを贈り、無心で拍手をした。

 顧問である小園先生が観客席に向けて一礼すると、全員を着席させタクトを構える。一拍ののちタクトが振り下ろされると、みんなの演奏が始まる。


 課題曲は、ルイ・ブージョワーの讃歌による変奏曲。

 冒頭のファンファーレ部分が終わると、続いて広がる美しいコラール。オーボエのソロパートからメロディーを引き継ぐように、木管楽器が柔らかく、包み込むように音を並べていく。

 次第に速いテンポに変わっていくと、金管群も勢いを増して吹き始め、コラールの再来のような雄大な響き。変奏は移り変わり、スネアドラム、ティンパニの繋ぎが決まると、そこからはトランペットのソロ。


 ──頑張れ! 広瀬君……!


 彼は凄く難しいって言っていたけれど、カッコいいよ。

 最初は緊張で強張っていた表情も、いつの間にか柔らかくなっていた。堂々と、淀みなく彼は音を紡ぎ続ける。私も一生懸命彼の演奏に耳を傾けるけれど、霞がかったような音しか拾えないのがもどかしい。

 僅かに拾える音と視覚から得られる情報を頼りに、知識と照合し映像化していく作業は、想像以上に神経を擦り減らす。

 それでも私は、会場で戦っているみんなの努力が結実する様を見届けようと、目を皿のようにして各々の動きを追い続けた。


 自由曲は、アルメニアン・ダンス・パート2。

 作曲から四十年以上経った今でも、自由曲として取り上げる学校や団体も多い有名な曲。

 金管楽器によるファンファーレと、木管楽器による走句によって演奏は始まる。

 そして中盤、パーカッションがリズムを刻むなか、サクソフォンによるソロパートが入る。ここから暫く、恭子の独壇場。

 背筋をぴんと伸ばして演奏をする彼女の姿は凛々しかった。

 流石に今日ばかりは、消極的な恭子の姿が成りをひそめている。とても力強い瞳をしているな、と思った。

 カッコいいぞ、恭子。

 そのとき視界の先のほう、何列か前方にある席に、福浦君の背中を認める。そうか、それなら力も入るよね。

 最後はサクソフォン、オーボエ、クラリネットを中心にメロディーが奏でられ、クラリネットとフルートの難しい旋律から金管楽器が加わってフィナーレへ。

 演奏が終わった瞬間の静寂と、一拍ののちに巻き起こった拍手の渦が、彼らの奏でた音楽が、確かにみんなの心に届いた事実を物語っていた。

 僅かに滲んだ視界の中、私も惜しみない拍手を贈った。


 * * *


 参加校全ての演奏が終わり結果発表も終わった後に、私はホールを後にする。一階のエントランスには、結果を受け取った吹奏楽部のみんなが、荷物を床に置いて抱き合いながら涙していた。

 私は、恭子と福浦君が並んで座ってる所や、広瀬君が項垂れてる様子を遠目に見ながら立ち竦む。

 本当は、広瀬君に声を掛けるつもりだった。でも、やっぱり辛くて。どう、声をかけるのが正解なのか答えが導き出せなくて、結局そのまま会場の外に出る。

 文化会館の敷地を抜け、隣接した公園に足を踏み入れると、池の畔に佇んで空を見上げた。

 照葉学園の結果は、金賞。

 金賞を獲得した団体は、参加二十四校のうち八団体。照葉学園の評価がその内の何番目なのかは知る由もないが、全国吹奏楽コンクールへの出場権を獲得するには至らなかった。いわゆる、ダメ金。

 金賞取ったのにダメって、なんか残酷だな。

 抱き合って涙していた、律や広瀬君の姿が脳裏を過る。空の色は今朝見たときよりも、暗く、重く濁っていて、なんだか今にも泣き出しそうだ。

 やだな。泣いて欲しくない。

 みんな頑張ったんだから。あんなにカッコよかったんだから、泣いて欲しくないな。

 池の中では錦鯉が泳いでいた。池の畔にはハトが数羽いて、誰か知らない男の人が餌をあげていた。

 ぼんやりと周辺の様子を視界におさめていたそのとき、誰かが私の肩を叩く。驚いて振り返ると、頬っぺたにその人の指が突き刺さった。


 ──あはは、引っ掛かった!


 もちろん声は聞こえないけれど、口の動きと表情から、そんなことを言っているのは推測できた。

 なんか、失礼な人だな、と思った。なんなんですか、と思った。

 ……けど、そこに立っていた女性の姿を見て、私は暫し呼吸を忘れる。

 第一に、彼女の心の扉は”全開だった”。え、なんなのこの人? 初対面からここまで心を開いている人、上田律と広瀬慎吾君くらいしか前例がない。

 驚いたことの二つ目は、彼女の容姿。

 すらりと伸びた細い手足。背中まで伸ばされた髪は深い艶のある黒。切れ長の瞳と長い睫毛(まつげ)。整いすぎたその顔立ちは、いっそ作り物めいて白々しい。辞書で『美人』という単語を調べてみたら、おおよそ彼女の姿を形容した単語が並んでいるんじゃなかろうか。

 そんな雰囲気の女の子が、目の前で屈託のない笑顔をみせていた。彼女が着ているのは照葉学園の制服で、しかも校章から見たところ、同じ三年生のようだ。

 驚きで、開いた口が塞がらない私に、彼女は手話でこう告げた。

『こんな場所で』

 立てた人差し指を左右に振って、それから右の手のひらを倒すようにしてこちらに差し出した。意味は、『何をしているのかしら?』そして『三年B組の桐原悠里さん』

 突然手話を使われたことに、私の困惑が更に強まる。同級生の中にも手話を使える人間は三人だけいる。具体的には、広瀬君と、恭子と律。みんな、私の為に手話を覚えてくれた面々。でも……私は彼女のことなんて知らない。


『私の名前を知っているんですか? どうして?』

『どうして?』


 復唱し彼女は首を傾げる。心底意外だ、とでも言いたげな瞳。隠し事など微塵もなさそうな澄んだ瞳。隠し事だらけの自分との差を意識して、なんだか少し居心地が悪くなる。


『だってあなた、凄く有名人ですもの。一度話をしてみたいとは、思っていたの』


 有名人──? と訝しんでから納得する。確かにそうかもしれない。ただし、悪い意味で。

 それから、ああ、とでも言いたげに口元に手を当てると、こう続けた。


『自己紹介が、まだだったわね。私は三年C組の立花玲(たちばなれい)。よろしく。私の名前、覚えておいてね』


 彼女は目を細めると、頬に喜色を湛えた。この段階になって私はようやく思い出す。二年生の秋頃から体調不調でたびたび学校を休んだ末に長期間の入院生活に移行し、今年の六月から学校に復学したという女生徒、立花玲――の存在を。

 人伝に聞いていた彼女の印象は、凄い美人で、身体が弱くて、反面気が強くて、ちょっとだけ偏屈。こんな感じだった。間近で見るのは今日が初めてだ。


『でも、手話なんて使えるんですね? 学校でも使える人は殆どいないし驚いてます。どこかで勉強でもしたんですか?』

『ええ』と彼女は少し寂しげに笑った。『あなた程ではないにしろ、私の父も聴覚障害を持っている人だから。それでね』


 立花さんの返答で私は得心した。


『そうだったんですね』

『私と桐原さんって、どこか似ているのよね。それが、あなたを追いかけてまで話しかけた理由の一つ』


 はあ? と思った。


『似てないですよ!』

『似てるわよ?』

『私の髪の毛なんて、見ての通り染めすぎでボサボサですし!』

『私は、心がボサボサなのよ』


 と笑う立花さん。言い得て妙だなと思った。


『私は自分に自信が持てないから……濃い化粧をして本当の自分を隠していますし』


 これは事実だ。化粧の下の顔なんて、とてもじゃないけど見せられない。


『私もそうね……一番最後に本音で話したの、いつだったかしら?』


 立花さんは顔を上げると、重苦しい灰色の空に視線を向ける。彼女の発言を、私は意外だと思った。私にさえ心の扉を全開にしている彼女にでも、隠し事なんてあるんだろうか?


『私は障害があるから、人生半分、捨てているようなもんですし』

『私もそうね、進路希望の用紙を白紙で提出するくらいには、人生捨てているわね。いっそ捨てられるもんなら、丸めて生ゴミの日に出したいくらい』


 冗談めいた台詞とは裏腹に、寂しげな顔を見せる立花さん。その反応に私は、自分の軽はずみな発言を即座に後悔する。


『ごめんなさい……同情を誘うつもりで言ったわけでも、愚痴を吐き出したかったわけでもないんです』

 遠くを見ていた目を私の方に向けて、ピントを合わせてから彼女は告げた。『大丈夫。わかっている』

『なんか立花さん、伝え聞いていたイメージと、ちょっと違いました』

『あらそう? イメージが良くなったのかしら? それとも、悪くなったのかしら?』

『良くなりました』

『ありがとう。元のイメージが奈落の底まで落ちていたら、上がるしかないんだけれどね』

『そんな意味ではないです』


 なんかこの人、時々卑屈になるな。なんでだろ。


『一つだけ、質問――いいかしら?』

『……? どうぞ』


 質問をすると告げたのに、立花さんの手話が止まる。突然気まずい空気が流れ始めたのに気がついて、でも、澱んだ空気を払拭するだけの社交性が自分に備わってないと考え自嘲した辺りで、ようやく彼女は次の言葉を紡いだ。


『吹奏楽部に、恋をしている相手がいるんでしょう? ついでに言うと、その恋は片想い』


 心臓を直接握られたみたいにドキリとした。先程からずっと内心を見透かされてるようで落ち着かなかったが、その正体がわかった気がした。

 読点が三つ並ぶほどの時間逡巡したの、首を縦に振る。何を告白しているんだろう、私は。


『やっぱりそうかあ』立花さんが、小さく息を吐いた。『ホールで、あなたのことを盗み見ていたの。ゴメンなさいね。でもこれでわかった。ああ、この子の眼は、恋をしている女の子の眼だって感じた理由』


 そこで一旦言葉を切り視線を外すと、彼女は控えめにこう付け加えた。


『そんなところも、私とそっくり』

『立花さんも……好きな人がいるんですか?』

『いるわ』と彼女は淀みなく宣言する。『けれど、私は気持ちを伝えてはいけない。私が気持ちを伝えると、その相手を苦しめてしまうから』

『どうして、ですか? 立花さんは綺麗だから大丈夫ですよ。気持ち、絶対に伝えたほうが良いです』


 言いながら、自分の言葉がナイフのようになって、自らの心を傷つけていくのを感じてた。

 私だって──告白する勇気もない癖に。


『お世辞でも嬉しいわ。でも、ダメなの』

『どうして? 私にはわかりません』

『はぐらかしてばかりも卑怯か。そうね。例えば……親友と同じ人を好きになってしまったとしたら……どう? それでも桐原さんは、彼に告白できる?』


 三度目となる「どうして?」が頭に浮かぶ。どうして立花さんは、私と渡辺さんの事情を心得ているんだろう?

 暫く考えたのち、遅れて私は理解する。きっと彼女は、自分のことを言っているんだと。そして、立花さんの友人として唯一私が知っている人物。それは、楠恭子だ。

 そういうこと、なのだろうか? たとえそうだとしても、私は、


『それでも私は、告白します。正々堂々勝負しようと、彼女に宣戦布告された身なので』


 答えてから気がついた。誘導尋問に引っ掛かったんじゃないのかって。思わず頭を抱えた私に立花さんは言った。


『なるほど、桐原さんは良い友人に恵まれているのね。でも──私は言わない。気持ちを伝えてはいけない。私はあと半年もすれば、この街から存在が消えて無くなってしまう人間。この切ない感情は、墓場まで持っていかなければならない物だから』

『あの――』


 ここから先の質問に、立花さんは一つ一つ丁寧に答えてくれた。掻い摘んで説明を加えると、私は別の場所に住所が変わってしまうから、告白はできない。私は想いを告げなくてもいい。むしろ、親友の恋を応援している方が性に合っているから。そんなことを、彼女は淡々と告げた。

 そんな彼女の表情はやはりどこか寂しげで、何かを隠し、自分の想いを押し殺しているように見えた。

 隠し事は無さそうだ、と思った前言を撤回する。この人はむしろ隠し事だらけだ。誰にも言えない大きな秘密を、抱えているようですらあった。

 そうか。確かに私とそっくりだ。胸の内に秘め事ひとつ。表情は化粧で覆い隠し、誰にも悟られないように、ただじっと、懺悔のときを待ち続けている。


 最後、別れ際に彼女はこう告げた。『桐原さんは、頑張って告白しなさい。私も、あなたの恋を応援しているから』


 何度も振り返りながら去って行く彼女の背中を、手を振って見送りながら、私は告げられた言葉を何度もかみ締めていた。

 卑怯だよ。私にだけエールを贈って。

 告白……か。

 広瀬君は、私のことを異性として見てくれているのだろうか?

 私なんかが愛の言葉を囁いても、彼は耳を傾けてくれるだろうか?

 そして、私はこの感情に蓋をしたまま卒業の日を迎えても、後悔しないのだろうか。

 私は――

 決意を胸に歩き出した。私の気持ち、届かないかもしれないけれど、今やれることを全部やりきって、その上で胸を張って後悔したいから。このまま立ち止まっているのはやっぱり辛いから。

 立花さんに背を押され、私は前を向く。文化会館のガラス張りの入り口を潜りエントランスに入ると、備え付けのソファの一角に、広瀬君が座っているのが見えた。

 良かった。まだいてくれた。安堵の溜め息を落とし駆け寄ろうとした私の足は、次の瞬間凍り付いたように動かなくなった。

 渡辺さん……

 未だに(こうべ)を垂れ塞ぎ込んでいた広瀬君の傍らには、渡辺美也さんが座っていた。彼女は二言、三言、励ましの言葉を贈ってから、ぽんぽんと慰めるように背中を叩く。

 どんな言葉を掛けているんだろう、嫉妬の感情が、私の心をちりちりと焼き焦がす。やがて二人は暫く見つめあった後、周囲の視線を気にしながら、静かに唇を重ねた。


 次の瞬間、竦んでいた私の両足が動く。会場の外、逃げる方向に。

 視界が滲んでぐらりと歪む。

 やっぱり、恋なんてしなければ良かった。やっぱり、私なんてずっと一人でいれば良かった。不必要な感情を知ってしまったから、こんなにも苦しくて、こんなにも辛くて、こんなにも視界が滲んで。

 どこに向かっているのかもわからぬまま、必死に走って足がもつれて転んだ。

 上半身を起こすと、ニットワンピースの裾は汚れ、スキニーパンツの膝には穴が空いて血が滲んでいた。

 また”痣が増えちゃう”。相変わらずどんくさい。何やってんだろ、私。

 ああそうか、これって漫画でよくある、負けた方のヒロインの気分なのかな、と場違いなことを考える。知らぬうちに零れる溜め息と、涙と嗚咽が自分の足元に降り積もっていくようで、そのまま立ち上がれなくなってしまった。

 止め処なく零れ落ちる私の涙を、降り出した雨が優しく覆い隠してくれていた。



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