過去編 狐と竜とマレビトと。 その7
ココノビは焼け野原の中心で一人、膝を抱えて座ったまま『の』『の』『の』と地面に文字を書いていた。
いじけた時などはこうするものと父から教わったが、深い意味は不明だ。学がないから語源なんて知らんとのことらしい。
理屈云々を抜きに文化を伝える時の父はたまにわけがわからないと彼女でも思う。春の初めに、イワシの頭や柊の葉を軒先に吊るし始めた時にはどこぞの蛮族の風習かと言葉を失ったものだった。
異邦の知識に準じるマレビトは、概してこんな人種ばかりなのだろう。
今のココノビとしてはそんな意味の分からない紛らわしより、優しく撫でてくれる手の方が万倍恋しかった。
「でもお父様やハチとの合流はエルフの村ですし、帰り道はわからないですし……」
ナトは三十分ほど前に出たまま、未だに帰ってきていない。
いつまでに合流するといった相談も彼女とは交わしていなかったのが非常に悔やまれる。
これだけ広大かつ深い森では下手に歩き回っても迷子になるだけなので彼女は膝を抱えるしかなかったのだ。
のの字をいくら書いても気分が晴れるわけはなく、惨めさが一層増して「ううー……」と声が漏れた。
彼女の耳や尾は青菜に塩をかけたように萎れ、元気を失っている。
「お父様たちはもう戦いを終わらせて帰っていますわよね……」
つい数分ほど前に大きな爆音と煙が立ち上っていた。
それは十中八九、ハチと相加術を放ったということだろう。それならば勝敗はもう見えている。一戦を終えた彼らは今頃帰路についているはずだ。
こちらから現場へ駆けつけても森を走るココノビには気付かず、すれ違ってしまうだろう。合流は予定通りにエルフの集落で行うしかない。
そういうわけで、彼女はひたすらナトを待つしかなかった。
「どうしてこう、わたしって他人と歩調を合わせられないんでしょうか……」
膝を抱えたまま、項垂れる。
生来のテンポの違いはすでに取り繕いようのないものなのだろうか。努力していないわけではないが、そう思うと落ち込んでしまう。
そうして下ばかり向いていた時、彼女はふと自分の影が一段と濃くなったことに気付いた。自分の影に別の大きな影が重なったのである。
今さらながらに気付いた彼女は耳を立て、慌てて音を拾う。
すると頭上から風を切る音が聞こえ――直後、土砂をひっくり返すほどの衝撃と共に大きな影が着地した。
「ひゃっ!?」
総身の毛を立てて驚いた彼女であったが、それに反して獣の本能は即座に鎌首をもたげる。予期せぬタイミングで背後に現れたものに爪を立てようとする猫と同じだ。
興奮で細まった瞳は背後に着地した何かを鋭く捉え、反射的に掌に溜めた炎の塊で迎撃する。炎は狙いに寸分違わず的中し、激しく炸裂した。
それは並の魔物では吹き飛び、多少強い魔物でも確実に怯むほどの爆発だ。
けれども受けたはずの影は微動だにしない。もくもくと立ち込めた黒煙に浮かんだ巨大なシルエットは苦々しそうに呟いた。
『このうつけ者が。かような土地で気を緩めるな』
耳の奥に不思議と響く音だ。
耳慣れたその音を聞いた途端、ココノビは我を取り戻す。
「ううっ、ハチぃ~~っ!」
鱗が煙たくなるだのとハチが愚痴を零していたところ、ココノビは巨大な顎に抱き着いた。
『……』
口を塞がれては喋るに喋れない。
眉間に皺を寄らせたハチは無言のまま彼女の首根っこを咥えると自分の背に乗る伏見に預けた。
ココノビは彼の膝の上についてしまうと一分もしないうちに機嫌を直し、和みきった猫のようになってしまう。
ハチがため息交じりに『小娘が』と毒づくと、伏見は笑った。
本来の合流地点であるエルフの集落に直接戻らず、わざわざこの場を見に来た他ならないハチだ。彼は誰に言われるでもなく翼をここに向けていたのである。
『して、小娘よ。欠片は灰にしたのであろう? 何故ここにあのエルフがおらぬ?』
「それが、ヒュージスライムは浅い水脈に根を張っていたようでナトは下流を見に行ったきり、戻ってこないの。どのくらいの距離があるかはわからないけど、流石に遅くて待ちぼうけていました」
ナトが向かったはずの方向と、裂け谷とやらについて語ると伏見とハチは表情が険しくなった。
そのような場所を見に行って一向に戻らないとなると最悪の場合を想像せずにはいられないのだ。
「ハチ、ついでだ。その地を見てから戻るぞ」
『しぶとい下等生物めが、我が翼を煩わせよって。今度こそ破片も残さず焼き尽くしてやろうぞ』
忌々しげに口を歪めたハチはその裂け谷を目指して羽ばたき始める。
この緑に覆われた森にそのような谷があるのだとすれば空から見渡せばすぐに見つかることだろう。
そして、案の定。
高度を上げるだけでそれらしき場所を捉えたハチは滑空してその場を目指した。空から行けばほんの数分の距離である。
しかし到着まで待たされる合間、ココノビは不安げな表情を隠しきれていなかった。
それに気付いた伏見は娘の頭にぽんと手を置く。
「ココノビ。わかっているとは思うが、この距離でなかなか戻ってこなかったんだ。あまり期待はするな」
「…………はい」
「水脈を流れたというのにエルフの戦士を捉えるくらいの欠片を行き着かせるなんて正直、想定していないことだ。よほどこの地の水が豊かだったのだろう。下は俺が確かめてくる。お前はハチと一緒にいるんだ」
伏見は穏やかにそう言うがココノビの不安げな表情は一向に溶けなかった。
「私もついていった方がお父様も安全ではないですか?」
「確かにな。だがお前は人を焼くのはまだ躊躇うだろう? その一瞬が危ういから連れて行かない」
ココノビは瞬時に律法を発動できるし、身体能力も人間のそれとは比べ物にならないが、戦闘力には揺れ幅が大きいのだ。
感情を抑え、いつでも安定した結果を残せるのは戦士としての最低条件である。
そういう意味で言えばまだまだ見習いだとココノビを撫でてあやした。
だが、別にそれは悪いことではない。心もなく力を振り回せる人間なんて凶器と同じである。いつまでも甘えていられるならそれに越したことはない。
「避けられるうちは避けていけばいい。ハチのようにしかめっ面で長い人生を生きていくなんて、何とも言い難いものだ。感情を抑えられるようになっても良いことなんて何もないぞ。他人が泣いて、笑えるのを羨むようになるだけだ。だから今はまだ俺に任せておけ」
「……はい」
『話はそこまでだ。ついたぞ』
「おう」
またも萎れてしまった狐耳を撫でてあやした伏見はハチが裂け谷に着地したので降り立った。
上空からも確認していたがこの谷は見かけだけならば特に変化がない。しかし細かな横穴はどうであろうかと彼は確かめるために足を運んだ。
先に進めば進むほど薄暗くなる。
ヒュージスライムのような黒い生物ならば容易に紛れてしまえそうな場所だ。伏見は火を灯して周囲を明るくしようと呪文を口にしようとする。
と、その時のこと。
「だーれだ?」
何の気配もなかったはずなのだが、背後から視界を塞がれる。
このやたらと無邪気で温厚そうな声色にはよくよく覚えがあった彼は、取り乱さずに手を下ろさせた。
「このような場で悪戯なんてされても困る。ドリアード殿はこんなところで俺に何の用だ?」
振り返るとそこにはドリアードがいた。
触媒である細かな根を森中に行き渡らせている彼女は山岳樹周辺どころか、どこにだってこの姿を生み出すことができる。この体は彼女が律法で生み出した木偶人形のようなものだ。
彼女はほんの僅かにおどけて肩を竦めたが、すぐに真剣な眼差しとなった。
「その先はね、行き止まりなの。行ってはダメ」
「行ってはいけない?」
ぼそりと詠唱をした伏見は浮遊する火の玉を生み出し、場を照らす。
ただの行き止まりに見えた最奥は岩や土が作ったものではなく、太い植物の根によって作られた壁だったらしい。暗がりでは樹皮の隆起が岩に混同して見えてしまったようだ。
けれど不自然だ。
こんな谷深くまで太い根を張る植物なんているはずはない。これはドリアードが故意に生み出したものと考えるのが正しいのだろう。
推測して視線を戻すと彼女は言葉を続けた。
「この先にはヒュージスライムがいるの。私がそれに気付いたのはエルフがここに向かっていると森の植物から聞いた後。ここに来た時にはもう、エルフはスライムに食いつかれて手遅れだった」
「……だから手を出さないでいいと言ったはずだったんだがな」
こういう例を何度か経験している伏見としては早まらないようにと何度か念を押していたはずだったのだが、配慮が足りなかったらしい。
エルフは仲間意識が特に強いと言うし、彼女は寡黙ながらも正義感は人一倍強かったのだろう。
「せめて、介錯してやろうか」
ヒュージスライムに取り付かれてからでは助ける方法がない。
彼女がやろうとしたように、周囲に害を広めないことがせめてもの弔いだろうと彼は刀に手を掛ける。
が、ドリアードはそれを止めた。
「ダメ。この先はもう全部を閉じてしまったもの。今さらそれを開いてはダメ。ヒュージスライムは破片が大きな塊に集まる習性があるの。そもそも、そうでなければ本来の生息地である鍾乳洞からだって地下水に乗って際限なく広がってしまうでしょう? ここに封じられたのなら、この塊だけは残しておいた方が被害を防げる」
「……だが、それでは封じるだけで何の解決にもならないぞ?」
「いいえ。真っ向勝負では負けてしまうけれど、それなら暗がりの中、ゆっくりと時間を掛けてスライムを食べてしまえばいい。それができる植物はもう中に入れておいたわ。自然はね、そういうのが得意なの。生物も、毒も、何でも受け入れるのが私たち。もうこれは受け入れ、包んでしまった。そうして出来たものを、エルフ一人のために揺るがすことはできないわ。だから許さない」
穏やかな物言いだが、それ以外は認めないという言外の圧力をひしひしと感じる視線だった。
彼女はただ単に力があるだけの魔獣ではない。
この土地の頂点としてあり続け、数千年と森を仕切ってきた名君なのだ。外から来た若造がそれに異を唱えることなんてできない。
この森にはこの森なりの規律がある。
しばし沈黙していた彼は「わかった」と頷き、その場を後にする。
すると、その場に残っていたドリアードの姿も間もなく消えたのだった。




