過去編 狐と竜とマレビトと。 その6
ココノビと別れてから数分が経ち、目的のヒュージスライムの本体が見えてきた。
その巨大さは山と見紛うほどで子実体を空に向かって伸ばしている。
それは大きさからしても山岳樹が天に枝を伸ばす様のようだ。だが、その雰囲気は真逆である。
山岳樹は周囲の木々の代表格――守護神のような印象があるが、ヒュージスライムは菌糸を伸ばし、森を侵食する害悪にしか見えない。風景に馴染むはずもなかった。
伏見はそろそろ戦意を研ぐかと武器の具合の確認を始めると共にハチにも声をかける。
けれど何度か呼びかけても返事はなかった。
「おい。おい、ハチよ」
『……何度も呼ばずともよい。何事だ?』
「そうは言うがお前、呆けていただろう」
『……』
これを気も漫ろという他はない。戦闘前にそれでは困ると伏見は息を吐く。
このドラゴンがこんな時に気を割くことといえば一つしか思い当たらなかった。
「お前は俺よりよほど過保護だな」
『我は貴様のように甘くなどないわ』
「あれほど可愛い娘なのだから甘やかさないでどうする? 自慢の娘だ」
『貴様がそれだからあれに素養が身につかんのだ』
かかかと笑う伏見に対し、口を酸っぱくさせるハチを見ればどちらが過保護なのかは明白だ。
こんなくだりをこれまで何度もこなしてきた二人は今さら最後まで語らない。ハチが忌々しそうに口を歪めて黙り込んで終わるのがいつものことであった。
そんな沈黙がしばらく糸を引いた後、伏見はぽつりと零す。
「……ハチよ、俺が死ねばココノビを頼む」
『たかがこの程度の敵に食われる貴様でもなかろうが。要らぬ言葉を零すだけならば叩き落とすぞ』
「わかっている。今この時の話ではないさ。だがココノビは化生だ。俺の命はそれに付き合いきれるほど長くない。例え親は早く逝くものだとしても、あれにしてみれば早すぎる」
『化け物は化け物同士が似合いか。血肉を分けた者の言葉とは思えぬな』
「……言うな。それを頼み、飲める者なんて俺は他に知らんのだ」
返す言葉の物悲しさに、ハチはいつものような皮肉った言葉は向けなかった。
人と魔物の合いの子は良いとこ取りをした存在ではない。
確かに肉体的な素養を取れば良いこと尽くめであろうが、半身に残る人らしさのせいで魔物には嫌われ、人外の力のせいで人にも疎外される存在だ。
他種族とは相容れず、自分の強さのみで生きていかなければならないドラゴンとは、孤高で孤独でいなければならないところがある意味よく似通っている。
仲間に囲まれた子を置いて逝くなら心配なんてないが、彼女に付き合いきれるのは彼が知る限りでもたった一つの存在しかいない。
それを知っていながら伏見は何もできないのだ。
覆しようのない現実を前に哀愁が漂ってしまうのも当然だった。
「ハチよ、俺が見せられるのは生き様だけだ。斯くあれと背中で夢を語ってみせることしかできない。――だが、それも似合いだろう? お前達に比べ、ほんの僅かばかりしかない命。そしてマレビトなんて伝説を作らねばならん存在だ。そんなやつが夢をみせるのはおあつらえ向きと言っていい」
突風が吹き荒れる中、ハチの背で立ち上がった伏見はしゃんと刀を抜く。
それは奇妙な日本刀だった。
刀身は陽の光を反射するように黒色の波紋を揺らめかせており、一目で妖刀と知れる。
「俺がこうしてみせるのは民のためでも、後世のためでもない。たった一人のためだ。そうして描いた夢を、お前が語り継げ。竜は幻想に生きるものだろう? ハチよ、俺達はつくづく相性がいい生き物だな」
『ふん、なぜ我が貴様の夢なぞに付き合わねばならん。図に乗るな』
「くくっ、お前はそう言いながらやる男だ。義理堅くて、過保護だからな。俺はそのような相棒が頼もしくて仕方がない」
威嚇するような声を照れ隠しに向けてくることを知っている伏見はにたにたと笑っていた。
目は届かなくともハチにはそれが判ったのだろう。顔を歪めた彼は何の警告もなく翼を畳むとハヤブサのように急降下を始める。
その猛烈な降下に伏見は吹き飛ばされそうになるが片手で手綱を握り締め、残る片手は妖刀を握ったまま踏ん張って堪えた。
『ならば貴様は我らを魅せるだけの物を勝手に描いてゆけ。貴様の語りに傾ける耳などない!』
「おうよ!」
ハチは超低空まで急降下するとその勢いのまま地表すれすれを飛翔する。
枯死した木々の上に根のように網掛けされた菌糸は、魚を捕食しようとするイソギンチャクのように触手を躍らせるが掴めるのは残像ばかりだ。
だが飛翔を続ければ次第に多くの触手が集まり、先の道を塞ごうとしてくる。
流石のドラゴンもその巨体ではこの物量を掻い潜ることはできない。ハチは大気を掴んで翼を打つと宙で急制動をかけた。
無論、追い詰められたのではない。これはわざと相手を誘ったのだ。
すでにハチの口腔には紅蓮の炎が滾っており、触手に群がられるよりも早く放つ。
吐き出された猛火は膨大な量だ。ハチの体躯よりも巨大ではないかと思われるほどである。それに炙られた触手は瞬時に沸騰して崩れ、燃えカスとなって炎に包まれたままぼとぼとと落ちていった。
伏見はその隙にハチの背から飛び降りる。
ココノビのように無茶はできないが、数メートルくらいならば土も柔らかいので着地は容易だ。
それを見届けたハチは翼を打ち、さらに火炎を吹き付けながらまた上昇する。
無数に向けられる触手も焼き払い、または翼によって巻き起こす突風で阻み、絡み付くことを許さない。
「派手に頼むぞ、ハチ。でないと俺が大変だ」
声はきっと届いてはいないだろう。
しかしながら意は察している。ハチの周囲には巨大な円環型の立体魔法陣が出現し、口腔から今までのブレスとは全く異なる閃光が放たれた。
それはすでに炎の域ではない。
まさに熱線と例えるのが相応しく、それが舐めた場所は溶けた金属や溶岩のようにどろりと融解して炎を噴き上げた。
膨張した空気は爆発じみた勢いで周囲に拡散し、熱波をまき散らす。
目も喉も焼けるようなそれを受けながら伏見は妖刀を正中に構える。
付加武装発動の呪文を前以って呟き、くんと手首を返すと共に大気を切り上げた。
直後、世界が割れた。
熱波も、そこにいたヒュージスライムの一部も、刃の射線上にいた全てが真っ二つに分かたれる。
音さえ割られた無音の世界。伏見は息を挟むと共に構えを直し、次の一刀を袈裟切りに振り下ろした。
「太刀筋ばかりはココノビにもまだ負けんな。さて、まずは一つ」
射線上の百メートル余りが音の揺れ戻しと共に地面に落ちた。
伏見はその合間に懐から指ほどの太さしかない竹筒を取り出すと腐葉土に突き立て、踏んで土中へと埋めてしまう。
わざわざハチと別れ、危険な地上へ降りた理由がここにあるのだ。
彼は妖刀を半ば鞘に納め、その刀身で指の腹を浅く斬る。その手で矢を取ると柄に血を塗り付け、弓を構えた。
「Eu escrevo isto Metorno Ninharia」
ぱん、と弦が戻る僅かな音だけを残して矢が放たれる。
詠唱が進むにつれて漏れ出した赤色の幻光はその軌跡をなぞり、矢に追いつくなり炎に姿を変えてまとわりついた。
それはドラゴンのブレスとは違い、矢の周囲一定空間にのみ広がるがそれ以上は拡散しない。
その炎が尽きた後には人の身長の倍ほどもある大穴が穿たれ、枯死した木々とヒュージスライムの身体を崩す。
呪詛の意味は、灰燼に帰せ。まさにその通りの炎だった。
彼は同じことを四方向に行うと走り始めた。
攻撃しているうちにまた押し寄せてきたヒュージスライムが大波のように殺到してきたからだ。
鞭のように打ち付けられる触手を伏せ、または跳んで避けながら彼は走る。それもスライムの子実体を中心にぐるりと外周を走るような形だ。
「かかっ! ハチはまったく剛毅な戦い方をするものだな」
彼に襲い掛かってくる触手はせいぜいその場に取り残されたものが反射的に飛びかかってくるくらいだ。
ヒュージスライムの身体の大部分は引き潮のようにハチが戦っている方向へと引き寄せられ、密度が減っている。
そこを走り抜けることくらい彼には造作もないことであった。
□
ドラゴンの戦い方は全てシンプルだ。
牙で噛み千切るか、鉤爪で引き裂くか、尾で薙ぎ払うか、大翼で吹き飛ばすか。その身を武器にするものが大半である。
如何にヒュージスライムの同化能力が強力であろうと竜鱗を即座に吸収することは叶わず、例えハチに触れることがあったとしてもブレスによって焼き払われてしまって終わりだ。
このブレスもドラゴンの戦法としては重要な一つである。
空気をふんだんに混ぜ、高火力で一気に燃やし尽くすものか、もしくは空気に乏しい状態で吐き出し、標的に触れて空気に混ざった瞬間に一気に燃焼して爆裂するものの二種類が灼熱の息の主な形だ。
ハチはそれらを上手く使い、ヒュージスライムの注意を逸らせていた。
ヒュージスライムは子実体の下を飛ぶ羽虫にばかり集中して触手をくねらせるばかりで他のものには気付いていない。
考える頭も持たずにひたすら肥大化したが故の愚鈍さだ。
最後に一つ。ドラゴンには虚数属性の律法がある。
人と魔物の律法は対照的だ。
人の律法は決まった型に合わせて発動する術であり、力に乏しい。
魔物の律法は力のみで発動する術であり、引き起こせる現象の幅が狭い。
だからこそ、互いの欠点を補って発動する相加術は通常の二節や三節からなる律法よりずっと強力だ。
ドラゴンの律法はそれらの力や型を正しく働かせるための式だ。
故に人の律法も、魔物の律法も後出しでドラゴンの律法を発動されてしまえば全ての力を操らせ、跳ね返らされてしまう。
ヒュージスライムが恒常的に発動している陽属性の代謝活性化もハチが律法を発動させた時には一切が効力を失い、無防備に焼き払われる。
そして――。
ピィーッ! と指笛の音が響く。
それを耳にしたハチは羽ばたくと音源のもとへ低空に滑降し、そこで待ち構えていた伏見を拾った。
「待たせたな。ケリをつけるか」
『無論だ。この醜悪な生物には飽いたところよ』
彼らは触手が到達できる高度を優に超え、子実体の頂点と同じくらいの高さまで到達すると息を整え、精神を再び集中させる。
戦場でドラゴンを駆るマレビトは敵には最悪の恐怖を、味方には最上の戦意高揚を与える。
それは何故か?
単純にドラゴンが強いからではない。それならばマレビトなどただの道化だ。
彼らの一騎当千は、彼らにしか許されないものだからこそ、幾多の戦場で謳われてきた。
伏見は人の律法を持つ。
付加武装として魔物の律法も持つ。
そして、共に戦うドラゴンの律法もある。
律法の力がそこにあり、力が発現するための型が定められ、それらを働かせるための式まで揃っているのだ。
それだけの事実が列挙されれば、彼らのことを知らない者でもまさかと勘付く。
「Eu escrevo isto Queimadura Maximo Ligacao」
伏見の詠唱によって周囲に赤色の幻光が広がり、幾何学模様を作る。
不秩序に揺蕩っていたそれらはハチが律法を発動させ、立体型の魔法陣が出現するとその内で意味ある配列のように並び揃っていく。
と、同時に枯死した森にも異変が起こった。
子実体の周囲五ヵ所でこの魔法陣とよく似たものが出現したのである。
「――ハチ、焼き尽くせ」
その言葉と共に熱線が放たれた。
それも一つではない。彼らの周囲の空中に展開していた魔法陣からも、地表にある魔法陣からも熱線は溢れ出したのだ。
子実体の根元と、さらにその周囲に幾条も突き刺さった熱線は周囲の物に原型を残すことすら許さず、消し飛ばし、燃やし尽くすのだった。




