過去編 狐と竜とマレビトと。 その5
「さて、終わりましたか」
周囲に散らばった破片は注意深く燃やし尽くしたココノビはひと呼吸つき、警戒を一段階下げた。
常に気を張って索敵を続けた狐耳は疲労気味で心なしか重く感じる。へたり込んだそれを揉み解しながら、彼女は正しく焦土と化した地の中心で辺りを見回した。
炎を叩きつけた爆心地は埋まっていたヒュージスライムごと土砂も巻き上げ、蒸発させてしまったので数メートルのクレーターになってしまっている。
地面は元の腐葉土とはもう大違いだ。絨毯のようだった地面はざりざりと質感が変わっている。
音を立てて灼熱していた地面は次第に元の色へと戻ったが、腐葉土はもうそこにはない。鈍い色の灰と、きらきらと光るガラス質が地表を覆っていた。
陶芸では植物の灰を水で溶かし、それを塗り付けて焼くことによってガラス質や金属のコーティングを施すことがある。
灰の上にそれが張り付き、固まってしまったことでそれと似たことが起こってしまったらしい。
「土が重くなってしまいましたわね」
ココノビはそのままクレーターから這い上がろうとしたが、小さな体ではそれも一苦労だった。
そしてようやく抜け出てみれば彼女の視界は驚くほど拓けた。先程までは視界のほとんどを覆っていた樹木がほぼ焼け落ちてしまったからだ。
ヒュージスライムに浸食され、すでにぐらついていた樹木は炎を集めた影響で引き倒され、または群れた炎によって一気に燃焼させられたのだろう。燃え残りや、燃え尽きた炭がそこかしこに転がっている。
身を隠し放題だった森はぐるりと周囲を見通せる焼け野原に変わってしまい、自分の姿がぽつんと一つあるだけだ。
これは我ながらやり過ぎたかもしれない。
植物の根すら残さずに燃え散らせてしまったここは魔物の力をもってしても元の森に戻るのに一体どれくらい掛かるだろうか。
これ以外の対処法を知らないとはいえ、もう少しやりようがあったのではないかと思えてしまう。
「……ごめんなさい」
クレーターから出たココノビは炭となった鹿の死体や、木々に頭を下げた。
しかし一体いつまで頭を下げていればいいのだろうか?
悪いことをした時には謝るものと当たり前のことは知っている。だが、謝って全てが許されると思うなという言葉も放り投げられた覚えがあった。
特にこんな風に何かと戦った時や、誰かを傷付けた時には大抵どこかから聞こえてくるのだ。
父やハチは優しいから辛辣な言葉は決してかけてこないし、周囲から守る盾となってくれる。二人といる時だけはどんな雑音も囁かれることはなかった。
だがそれでも、不意に影から投げつけられた声はいつまで経っても耳から消えることがなかった。今だってそれと似た声無き声が自分に叱責を向けてきているように思える。
肉体的な痛みならいくらでもやりようがあったが、胸にしみるこのような痛みだけはまだまだ堪え方が判らなかった。
と、そんな時。一陣の風が傍をふわりと吹き抜けた。
「大丈夫。もう十分」
そう言って顔を上げさせたのはナトだった。
火が消え、戦闘音も途絶えたので様子を見に来たのだろう。
つい先程は樹皮が焼けたことすら見咎めた彼女であったが一面が焼け野原となった惨状を目に収めても何も言わないし、眉もひそめていない。
それどころか彼女は顔を上げたココノビの頭をたしたしと撫でた。
その所作はどことなくぎこちない。まるで見取り稽古から初挑戦に移ったばかりのようで、撫でられた心地は父のとろけてしまいそうなタッチとは雲泥の差だ。
だが、そんな不慣れな様子が逆に心にじわりときた。
エルフは未熟児を産みやすい体質のために子供が少なく、触れ合う機会も乏しい。子供への気遣いなんて自然に思いつくことではないだろう。
それなのにこのような配慮をしてくれるのは相当特別なことに思えた。
(……気を遣ってくれているのでしょうか?)
そう思うと不器用に頭を撫でられるにつれ、不思議と不安が消えていった気がした。
「あそこにスライムがいたのね」
「……ぁ。あう……」
そうしてしばらくするとナトは手を止め、クレーターの方を見た。名残惜しそうにココノビは声を出したのだが、子供慣れしていない彼女は気付いてもくれない。
何か気になることでもあるのか、ナトはすたすたと歩いてその中に降りてしまった。
彼女は敵を探している様子ではない。
当てもなく視線をさまよわせているのではなく、臭いを辿ろうとする犬のように視線は次第にひとところを目指し始めた。
十数秒もしないうちにピタリと止まった視線が見やるのはクレーターの中心だ。ナトはそこに歩み寄った。
しかしココノビにはその意味がよくわからない。自分は確かにヒュージスライムの欠片を無力化した。核は確実に破壊したのは間違いない。
ナトは戦闘経験がないから過度に警戒しているだけでは――?
そう考えたものの、彼女の表情はただの警戒とはわけが違って見える。
「スライムはまだいるの?」
「え、ええ。お父様とハチが相手にする方が大物ですもの。これはほんの欠片ですわ」
「一つが二つになったなら二つが三つになっていてもおかしくない」
「……私が焼いたものがまだ他にも分体を残しているかもしれないということですか? 確かに無きにしも非ずなのですが――」
問題ないと言おうとしたその矢先、ナトの詠唱が邪魔をした。
空気に開いた緑色の紋様はすぐに風を呼び、ナトが振った手の動きをトレースして地面を吹き飛ばす。
「この辺りにはいくつか水脈がある。それに、通った跡も」
風に掻き殴られた地面は巨大な鉤爪で払われたように抉れていた。
そこには指ほどの太さのミミズが作った通り穴のようなものが地下へと道を伸ばしている。ヒュージスライムの本体がここにいた以上、何がこのように穴を作ったのかは明白だ。
牙も爪もなく、相手を飲み込むしかない柔らかな粘体のスライムではあるがこの土は若干の湿り気を帯びているし、柔らかいので染みて進むことができたのだろう。
ココノビもそれをよくよく見つめる。
「なるほど。地下水脈に枝を伸ばしていたのですね」
ココノビがその穴へ指を向けると次の瞬間、穴の内部には火が満ちて膝の高さまで炎を吹きあげた。
これは完全に見逃しであったが彼女は特段、気にした様子がない。たった今の炎も念のための処置と、その程度の配慮しかないようだ。
「心配ありませんわ。ヒュージスライムは核と粘体が繋がっていなくては生きられません。加えて、核の大きさが律法の強さにも比例しています。もし仮に分体を作っていたとしても、この程度の体を通すのが限界だったのなら実力は恐れるほどもないでしょう。自然に朽ちるか、森の魔物に食い散らかされて終わりですわ。何より、あれは陽の下でなければ実を結ぶことも異常に増えることもありません。地下水脈から出る頃にはもう体も成せないでしょう。あれは獲物を食べてから実を結び、核を成長させてより強力になる生き物です」
キュウビがそう言ってみたものの、ナトの表情はまだ懸念があるのか険しいままだ。
「この先に水が流れ出る裂け谷がある。それに、もっと先ではその水を井戸水として汲み上げる村もある。放っておけない」
「そうなのですか? なら私も――」
すぐに風の跳躍で去ってしまいそうだったナトの袖を掴んで止めようとしたのだが、不意にくらりときた眩暈にココノビはよろけて取り逃がしてしまう。
あれだけの力を使えるとはいえ、肉体・精神ともにまだ未熟な子供なのだ。そう無理はできないのだろう。
よろけたところへじっと注がれる視線は、それでは無理と指摘の一言を乗せていた。
「平気。それに人を抱えて跳ぶのは危ないから」
「しかしヒュージスライムは甘く見てはダメです。魔物ならともかく、人間のように体が弱い生き物ならば食う力くらいはあるはずですわ」
「距離を取って戦えばいい。スライムのことは甘く見ていないから大丈夫」
肉と植物、そして頑強な魔物の身体。比べてみなくともその差は理解できた。
それに遠目からとはいえ、ココノビとヒュージスライムの一戦は見ている。あの化け物スライムを相手にまともに戦おうとは思っていなかった。
近付かず、遠くから律法で核のみを狙えばいい。風の律法でも小さなスライム相手ならば十分であった。
「ここで待っていて。ドリアードが許したこの場所なら魔物に襲われることはない……と思う」
「その程度なら心配はいりませんわ。魔物混じりですもの」
むしろ心配なのはそちらと視線で語るのだが、ナトはぽんと頭を撫でて跳んで行ってしまうのであった。
□
ナトの言う、裂け谷というのはココノビが戦った土地からそう遠くない位置にある。
長さ数百メートル、対岸までは広い場所で三十メートルほどもある、地割れで出来たような縦穴の谷のことだ。
樹の枝から枝へと風の跳躍で跳び進んでいたナトはそのまま谷へと飛び込み、新たに生み出した上昇気流をクッションにして着地した。
エルフの老人の話によるとここは昔、地下水が流れる洞窟でありミスリルや銀鉱石も取れる場所だったらしい。
なんでも、ミスリルの鉱石が存在する鉱脈へと続く道を、そこに住むゴーレムたちが掘って作ってしまったなどとも聞いた覚えがある。
そのような洞窟は近辺にいくつかあるが、ゴーレムたちは洞窟を広げるだけ広げると鉱石と共にどこかへと消えてしまうために空洞のみが残されてしまうそうだ。それが経年劣化で天井の崩落を起こし、出来上がったのが現在のような地割れである。
「植物の魔物は……いない?」
このヴィエジャの樹海ではトレントのように植物の姿をした魔物というのが存外に多い。樹の姿をしているものがいれば、藪や樹に巻き付くツタの姿を取った魔物までいる。
そういったものを気取るのはなかなかに訓練が必要なのだが、どうやらこの場所にはいないようだった。
これは幸いとナトは周囲を見回し、水がちょろちょろと流れ出てくる壁の裂け目を見つけた。
この裂け目を潜り抜けた先には直径十メートルほどの釣り鐘状の縦穴があり、その壁から地下水が流れ出してくるのである。
彼女は早速そちらへと向かった。
無論、暗がりに入る時は物音や気配にも細心の注意を払って進む。
「……もう、いた」
裂け目を抜けてみれば正面の壁にはちょろちょろと流れ出る水に混じり、黒い粘体が蠢いているのが見えた。
それは壁に黒いペンキをぶちまけたようにいくらかの面積は覆っているものの、大した動きも見せていない。
「陽が当たらないから……?」
そういえば、陽が当たっているところでしかこのスライムは律法を――恐るべき速度での同化をしてこないという。
まともなスライムに比べても劣りそうなその様子には身構えていたナトも拍子抜けであった。
けれど、念には念を入れて近付かない。
五メートル以上の距離を置き、敵の核はどこのあるのかと目を凝らしていた。
と、その時。
かさりと何かの音が聞こえた。
途端にナトは警戒をして目を走らせ、周囲の気配を探った。しかし、前後左右――何もなし。ならば一体どこからと思考を挟もうとした時、自分の陰に歪な影が重なっているのに気付いた。
「Eu escrevo isto Lagrima!」
反射的に律法によるかまいたちを頭上に放つ。すると天井に張り付いていただろう、両手で抱え込めそうなサイズのクモが両断された。
僅かに反応が遅れていればのしかかられ、毒針で噛みつかれていたかもしれない。だが、これでもう安心だ。
彼女はそう思ったのだが――突如、クモの中でぐじゅっと何かが弾けた。
飛沫を上げた体液か何かが飛び散り、ナトは咄嗟に左手で顔を庇う。
「痛っ!?」
飛沫を受けた手は毒液でも吹き付けられたかのようにじんと痛んだ。
何が一体どうしたのかと目を向けると、ナトは言葉を失った。手の甲に黒いものが付着し、皮膚と同化して根を張ろうとしていたのだ。
「クモに寄生していたなんてっ……」
外見に油断し過ぎたと歯噛みしたナトは腰につけていたナイフを取ると躊躇なく自分の手の甲を削ぎ落した。
皮と一緒に中指骨や軟骨の表面まで削がれてしまうが、背に腹は代えられなかった。
幸い、皮膚より下まではまだ浸食されていなかったらしく、赤い血に粘体が混ざることはない。
けれども、異変はそれで終わりではなかった。
弾けた飛沫は手だけで受けられたものではなかったらしい。額や頬でも痛むし、服に黒い粘体がいくつかついているのもわかる。
「くっ……!」
後ずさりながらクモの死体を律法ではね飛ばし、壁に叩きつけた。これ以上あれから不意打ちをもらいたくはない。
こうなれば痛む場所は全て律法やナイフでそぎ落とすしかないかとナトが歯噛みしながらじりじりと後退していると、背後にやって来たはずの出口がないことに気付いた。
いや、正確には出口はそこにある。しかしながら幾重にも垂れてきた黒い流動性のある網がカーテンをかけていたのだ。
それだけではない。
周囲をよくよく見てみれば壁全体からヒュージスライムの身体が染み出してきて、壁のほとんどで影と共に黒いものが蠢いているのが見えた。
ヒュージスライムの欠片どころか、相当量がここに流れ着いていたらしい。ただ、この場が暗いのと核自体が成長をしていないためか生物の浸食力だけは今までよりずっと低いようではある。
だがそれでも、この量はマズかった。
壁という壁に粘体が蠢き、ここはすでに粘体で作られた鳥籠のようなものだ。唯一の脱出口と言える天井の穴付近にも粘体がいるが、あの逃げ道は明らかな罠である。
今、ナトがまだ生きていられるのは影に入っているからだ。彼女は壁を背にしようと下がるのだが、そちらにもまた粘体がいる。
中心には降り注ぐ陽光があり、壁では粘体が這う。
あのココノビの過剰なまでの心配はこういう意味だったのだ。それほど恐ろしくないなどとはとんでもない。
どちらに行こうとも危機しかないと、ナトは自分の軽率さを今になって呪うのであった。
次回は数日後に、以前の工事中だった場所を書こうと思います。




