過去編 狐と竜とマレビトと。 その3
知る者なんて数えられるほどしかいないが、竜の背は案外と乗り心地が悪い。
風を受けて揚力に身を任せたり、乱気流を制した際には内臓もぐっと競り上がる感覚があるし、翼を打つ時も同様だ。
それに加え、上空の冷たい突風が絶えず容赦なく吹き付けてくる。普通の人間なら振り落とされぬよう、竜にしがみつくだけの体力勝負である。
しかしココノビは風に身を任せ、麦穂色の髪を靡かせていた。ともすればそよ風を浴びているだけにも見える。
どうすれば最も楽なのか本能的に覚えているのだろう。
乗りこなすというより、一緒になって空を楽しむ。そんな表現の方が彼女には適切なはずだ。
「ハチ! ねえ、ハチ。もっともっと高く飛びましょう? その方がずっといい眺めなの」
生まれて、まだ自意識すら芽生えていない時から触れ慣れ、乗り慣れているからか彼女は大人しく父親の懐に収まっている時以外は首元や頭に跨ってくる。身丈が十倍以上も違うドラゴンにも恐れを抱かない。
その上、遠慮もなくばしばしと首を叩いてくるのだからハチとしては煩わしくて仕方がなかった。
背を認めた相手の娘という以外は何の接点もない。
だというのにちょくちょく世話を押し付けられたり、エトセトラ……。きっとそんなこんなで馴れ馴れしくされているのだろう。
竜がたかが小娘相手にこんなことをされているなんて笑い種にもならない。
ハチはそれに視線すら向けず、平坦に返した。
『高ければそれだけ風が強い。それに後ろの鳥も追っては来れぬ。それでは意味なかろうが』
「少しくらいは大丈夫。ほらもっと高くに――へっくちっ……!」
『言ったことではないか。戯けめ』
「ココノビ、こっちへ来い。もうすぐ欠片の場所だから高く上げる必要もない。降りる準備をしてくれ」
「うー。はぁい、お父様」
鼻をすすったココノビは大人しく背に戻るとあぐらを掻く伏見の懐に収まった。
シートベルト代わりに腕を引き寄せ、後ろから被さってもらえば完璧である。彼女は胸の前でその腕を抱え込むとはにかみ、もう満足のようだった。
やれやれ、ようやっと静かになったとハチは誰にも聞こえぬ声を呟く。
そうして数分もしないうちにあの枯れた森が見えた。伏見は後方を飛ぶナトに手信号で降下することを伝える。
片翼を下げて徐々に降下するとナトが操る大鳥も同じくしてその後に続いた。
地表までは二十メートルというところか。並み立つ木々と巨大な竜の体躯が起こす空気の乱れによって風がごうごうと絶えず鳴いている。
そんな中、ココノビは得物の大薙刀を持つと名残惜しそうにも立ち上がった。
「それではお父様、ココノビは行ってまいります」
「ああ、行って来い。あれには触れぬよう、気を付けてな。まあ、俺より強いくらいだ。心配もいらんか」
「そんなことないです。わたくしは甘えたい盛りですから、早く帰ってこいと言ってもらう方が嬉しいのです」
「そうか。なら早くまた合流するとしよう。エルフの村で待っていてくれ」
「はい。それではっ」
ぺこりとお辞儀をしたココノビはハチが失速もしないうちに森へと飛び降りた。
瞬く間に通り過ぎる木々の間を小さく丸めた体で抜ける。地面が近付いたのを目で捉えた彼女は両の手に狐火を灯らせ、地面へと投げつけた。
それは航空機で言うところの逆噴射と同じだったのだろう。
投げつけた炎を掻っ切り、勢いで地表を滑りながらも彼女は着地する。体の半分を流れる人外の血や、装備の頑強さのおかげで痛みも怪我もない。
彼女は彼方に消える父と竜の背を静かに見送った。
「さて、消えなさいな」
ちらと視線をやると残り火は燃料を失ったかのように消え失せ、そこかしこに散っていた火の粉も僅かにくゆって消えてしまった。
ナトも人の身丈の数倍にもなる翼長の怪鳥から飛び降り、彼女に続いてすたと着地する。
こちらは風の補助もあって対照的に柔らかな着地だ。
「森をあまり焼かないで」
焦げた臭いに顔をしかめた彼女はココノビを見つめてくる。
「燃え移らない程度には加減をしたつもりでしたが甘かったでしょうか?」
「火傷をすれば痛くて苦しい。それは木だって同じ」
ナトは木に触れながらに語っていた。
しかし突然に言われても、え? と疑問に思ってしまう言葉である。
ココノビは近付き、彼女の言うそれをよくよく見つめてみた。
確かに狐火に炙られた木の表面が変色しているのが判る。これが彼女の言う火傷なのだろう。
「森は生きてる」
「ごめんなさい。そこまで考えが及びませんでした」
「判ってくれればいい。このくらいならまだ治る」
素直に謝意を表し、ココノビも樹皮に触れる。
人や生き物は火傷を負えば苦しむので無暗に傷つけてはいけないと教えられてきたがこんなのは初めてであった。
けれど言われてみれば確かに納得できる。芽生え、繁茂し、枯れる植物が生きていないとはおかしな話だ。
ココノビは申し訳なさそうに耳を垂らした。
「そうなのですか。しかしそれならわたしはもっとごめんなさいと言わなければならないかもしれないですね」
薙刀を構えた彼女は遠心力に任せて腐葉土や根を一閃する。
そこには僅かばかりの炎も混ざっていたらしく、地面は一文字を描かれて削れていた。
地面から現れるのは根だ。
太い根からひげ根まで。地中をびっしりと埋め尽くし、行き交っていた。
だが、そこに妙なものが混じっているのにナトは気付いた。黒い糸のようなものが根と同じように走っているのである。
見覚えのないそれに注目していると、それは抉られた地面にとろりと染み出してきた。
じわじわ体積を増していくそれはうねうねと揺れながらスライムのように伸び、地上に這い出ようとしている。
「枯れた森の周囲はもうこれに侵されていますわ。決して触れないでくださいましね? 触れたが最後、燃やすしかありませんから」
そう言うココノビの薙刀の先端では僅かにこびりついていた粘体が動こうとしていた。
彼女はちらとそれに視線を遣ると勝手に炎が生じ、それを焼く。
目の前で起き上がろうとしていたヒュージスライムの欠片も手をかざして焼きつくした彼女はくるりと踵を返して枯れた森から遠ざかった。
「まずはどこまで侵されているのか調べましょう。焼くのはそれからです」
「焼かないで済む方法はない?」
「ありませんわ。石や岩でもない限り、生物は吸着されてたちまち同化されてしまいますから。手にでも張り付かれたら腕から切り落とすしかありません」
それは憶測ではなかった。今まで何度となく見て、試してきたのが判る瞳でココノビはナトを見つめ返す。
年齢相応とは言えない、玄人じみた瞳だ。そこには伏見と呼ばれた男と同じものが感じられる。
すると彼女も納得したのだろう。悲しそうに眉を寄せ、「そう」と頷いていた。
確かに言われてみれば木の葉が若干萎れ、元気を失っているようにも見える。もうすでにヒュージスライムによって侵されているのだろう。
それを我が身の痛みのように見つめ、彼女らはじきに足を止めた。
「この辺りはまだ無事なようですわね」
また地面を切り払ったココノビは肩を慣らし、着物の帯や薙刀の金具に緩みがないことを確かめると、ふうと息を吐いた。
ほんの十二、三の少女だというのに漏れ出る静かな気迫はナトでも初めて目にするくらいに研ぎ澄まされる。
「ナトさん、あなたは決して手を出さないで避けることに集中してください。わたしはあなたを助ける余裕までないと思います。あれは地面から急に大きく触手を広げたりするので、もし襲われたとしたら最低でも大股十歩分の間合いを残しておいてくださいな」
「わかった」
「小娘が差し出がましくてすみません。でも、これに関しては立ち回りを間違えると危険ですから」
「気にしてない」
ぺこりと頭を下げたココノビは薙刀を構えると前を見据えた。
古くは魔力とでも言っただろうか。身の内にぞわりと燃えるものを感じながら彼女はそれの矛先を定めるための祝詞を口にする。
「――Eu escrevo isto Seque Maximo Ligacao」
ぼう、と彼女が纏う衣や薙刀から白い光が溢れて森へと散った。
それに続いて彼女がかざした手のひらには赤い幾何学模様が浮かび、漏れた幻光は白い光と絡み合うようにして広がっていく。
最初は緩やかに。
けれどココノビが指を鳴らしてからは速かった。瞬時に散った光はあっという間に見えなくなり、消えてしまう。
炎を巻き起こすわけでも、植物が動くわけでもない。なら一体何の律法だったのだろうか――?
そんなナトの疑問に答えることなく、ココノビは前へと踏み出していった。
しかしその一歩一歩で踏みしめられる腐葉土は何故かぱりぱりと乾燥しきった植物のような音を上げている。
割れた木の葉屑は舞い上がり、遠くでもそれと同様のことが起こっていた。
まさかとナトが思ったと同時、ココノビは薙刀を地面に突き立てて次の呪文を詠唱する。
「Eu escrevo isto Queimo Eternamente!」
途端、地面を割るように炎が噴き出した。
本来はそうそう燃え移ることのない生きた木々にも瞬く間に燃え移って炎上する。
空中に舞い上がった屑にも次々と引火し、膨れ上がった炎は猛烈に唸る火球となった。だがそれはナトとココノビの間を綺麗に隔て、外には決して漏れ出ない。
「病んだ森は全てわたしが焼き払います。できればその後、何に謝ればいいのかまた教えてくださいな。それでは、また」
くるりと振り返ったココノビは全てを炙る熱波を背に負いながらぺこりと頭を下げた。
彼女はそれを終えると何の苦もなさそうに灼熱地獄を歩いて進んでいく。
渦を巻き、轟々と燃え上がる炎の中に彼女の小さな姿は消えてしまうのだった。




