一周年記念 エピローグ
酒がなくなってしばらくし、月も高く昇った頃合いになると風見は片付けを始めていた。
そんな間もリズからは反応が全くなく、すでに寝てしまったものとして彼は片付けを終えると彼女を背に負って帰路についた。
「随分と遅くなっちゃったなー、リズ?」
「……、」
歩いている中、そう問いかけてみてもやはり返事はない。
起きている気配は一つも感じられず、風見は一人言でもいいやという気で彼女を運んでいた。
こうやって静かにしているとようやく相手を心と体でじわりと感じられる時が出来たと思える。
例えば背で静かに疲れている呼吸。ゆっくりと上下する胸が背に当たる感覚。あとはリズの体温もそうだろう。
当たり前の感覚も、周囲に当たり前にあるはずの音も頭の中で描いたものと実際は違うものだ。風の音、虫の音、水が流れる音に加えて自分が歩む音。音だけでも探せばいくらでも見つかる。
そういうのを自分自身や、隣にいる誰かに感じてみるのは素面の時にはなかなかできない。お酒を飲み、体に大きな変化が現れている時こそ感じやすかった。
だから背にいる彼女が不機嫌そうにしているのも何となく感じられてしまう。
気付いているかどうかは別として、風見が独り言のように言葉を向けたのもその謝罪のようなものだった。
「リズ、今日は気を利かせてくれてありがとうな」
「…………別に何もしていない」
寝ているとばかり思って彼女が答えそうな声はかけていなかったのだが、実は意識だけはあったようだ。
言葉と共に彼女の目がぱちりと開く。
「いや、そんなことないだろ。いろいろしてくれていると思った」
「どうだか。むしろやらかしているのは全部シンゴじゃないか。このっ」
「あいたたたたっ!」
肩に頭を乗せていたリズだが言葉と共に起きると首筋に噛み付いてくる。血が出るほどではないが歯型はつきそうな程度だ。
彼女としては自分に被害がなく反抗の意思を示そうとなるとこれが限度なのだろう。
「ああ、悪かった! 悪かったってば!」
痛みに彼女を支える手を離しそうになってしまうも、何とか耐えて噛み付きを受け続ける。
隙を見つけて謝ってみれば噛む力は段々と弱まり、甘噛み程度に落ち着いてくれた。
だがそれでも噛んだ口を離さないのはきっとこれに続く言い訳で裁定を下そうというものなのだろう。
次の言葉選びは重要そうだと風見は強く心に意識していた。
今日の彼女は普段通りにも見えたが、そもそも配慮してくれていたのは判っていた。
彼の目の前にはそれがぶら下がっているのだから気付かないはずはない。
「今日一日、リズは付き合ってくれたけどそもそもそんな手錠なんてリズなら簡単に外せるじゃないか。理由をつけて俺に合わせてくれたに決まってる。そこはありがとうって言いたい」
「……、」
何も答えなかったが、彼女は肩から口を離した。
そして「Eu escrevo isto Lagrima」と耳元で小さな声がしたかと思えば茶色の幻光が手錠にまとわりつき、パキリと一筋のひびが入って割れてしまった。
それが終わった彼女はまた肩の上に頭を乗せ、だらりと身を任せてくる。起きてはいるものの、酔いが体に回っているのは確かなのだろう。
しかしながらさっきまでの不機嫌そうな空気は薄れ、ほとんどなくなっていた。もういいかと許してくれたようである。
「なあ、シンゴ……」
「ん?」
「人の背中は暖かいね」
「そうだな。父親とか母親の背中って凄く落ち着いたのは俺も覚えてる」
そんな覚えがないリズとしては誰かに負われるなんてほとんど初めての体験なのだろう。
以前このように負ぶってやったのはハイリザードとの戦いを終えた後だったろうか。あの時には感覚に浸る気分なんてなかっただろうが、今は違っていた。
「さっきの罰だ。屋敷まで私を負ぶって連れてけ」
「そうだな。この時期、まだ寒いしこれなら暖かいから丁度いいかもな」
さっきとは違い、トゲのない声だ。風見は笑って答える。
深呼吸のように深い吐息をした彼女はそれっきり喋らなかった。恐らくは本当に寝入ってしまったのだろう。
明日からはまた忙しく仕事が始まる。
まあ、それはそれで嫌なことなんてない。誰かのためになる仕事をそれだけできているのだし、進歩しているということだ。
風見は本日という日の思い出を記憶に刻めるよう、今の感覚をしかと覚えながら一歩一歩屋敷へと帰っていくのだった。




