一周年記念 重要なのはゆったりです
今日という日はリズによく振り回される日だ。
昼食の片づけも終えて一息ついた昼下がりに風見はつい眠くなってしまい、リビングのソファーに腰かけたまま、うとうとと眠りに落ちてしまった。
だって二、三センチもある柔らかな毛皮が外張りされたソファーなのだ。
ゆったりと体を包み込んでくれる上に、もふりと布団にはない感触が第二のクッションになってくれる。
ベッドに勝るとも劣らない寝心地の良さに、風見は薄っすらと目が覚めても何度も寝に入ってしまった。
それはもう、いつの間にタオルケットが体にかけられていたのかも気付かなかったくらいに深い眠りであった。
と、そんな彼もパタパタと忙しなく歩く音が傍から聞こえて目を覚ました。
まっすぐ前方、窓からは茜色をした空が見える。もうとっくに夕暮れ時となってしまっていたようだ。これは不覚である。
「……?」
頭もまだ再起動しておらず、最初はよく判らなかったのだがどうやらリズが厨房や食料庫を出入りしていた音のようだ。
冷蔵庫がないこの世界なので地下に掘って作られた食料庫には数種の芋やカボチャなど。あとは燻製肉や樽酒、あとは粉類や調味料などが保管してある。
彼女がそこから持ってきたのは燻製肉だったようだ。
目の前のテーブルにはスライスして焼かれた燻製肉と良く洗われた野菜、あとはすでに手頃な大きさにカットされた楕円形のパンがバスケットかごに入っていた。
もう一つ用意されたバスケットにはワインとグラス、コルク抜きなどが入っている。
これは見間違えようがない。正しくピクニックの装備であった。
「なんだ、これ……?」
「ようやく起きたか。シンゴが眠りこけていたから準備が大変だったよ」
起きたことに気付いたのだろう。
新たにチーズを運び出していた彼女は手錠されたままでは流石に切れなかったのか、諦めてナイフと一緒にバスケットに収めに来ていた。
他の準備と言えば吊るされている燻製肉を削ぎ切りにして焼いてしまえばもう終わりだっただろうが、確かにこんな様子ではたかがその程度の作業でもたくさんの困難があったように思われた。
現に彼女はお疲れ気味である。
彼女は終いに手を腰に置こうとしたのだが、かしゃんと手錠に阻まれるとこんなところも妨害されるのを思い出してため息をついていた。
「もしかして外に行くのか?」
「この装備なのにここで食おうとは思わんよ」
尤もな意見である。
しかし外を見れば陽はすでに傾き、夕刻である。晩御飯ついでといっても目的地に着いた頃には夜になってしまいそうだ。
「ハイドラの周囲はぐるりと魔物が囲んでいるし、そのおかげで手が空いた警備は内地の巡回をしているから最近は賊の心配もないよ。川沿いに散歩でもして外の空気を吸おう」
「このバスケットと酒は?」
「今夜は満月だ。ゆったりと見上げて過ごすのもいいかと思ってね。そのつまみだよ」
ビールなどのようにいくらでもあおって酔えるものなら何でもいいと言うのが普段の彼女であったが、用意されているのはワインのボトル二本のみだ。
泥酔するまで飲むにしては少ないが、要するに月見酒としゃれ込みたいようである。
「なるほど。折角二人なんだし、たまにはそういうのもいいかもしれないな」
彼女はもう準備が整っている様子だ。
風見は酒や食べ物が詰まったバスケットを持つとリズに先導されるままについて行った。
宣言通り、二人は川まで行き着くと川沿いの土手を歩いて上流へ登っていく。
この川はハイドラが面する湖に注ぎ込む川であり、その幅はほんの十メートルかもう少ししかない。
たまにその清水で足を遊ばせて休んだり、川の中にある石を飛び渡ったりという寄り道をしながらも上流へと上がっていく。
山間部に多少差し掛かり、道が狭くなると陽も暮れてしまい、月が目立つようになってきた。
「よし、ついた。あの木のところでいいかな」
どうやら目的地に到着したらしい。
川沿いには二階建ての建物くらいの低くて緩やかな丘があり、その上にぽつんと一本の大きな樹が立っていた。
それは幹がとんでもなく太いのに葉はあまり茂っていない一風変わった樹であった。
随分と老齢の樹なのか幹は歪で貫録がある。風見が知るところで例えるなら縄文杉のような樹であった。
ビニールシートやマットなんてものはないが、リズはその場に座り込むと幹を背にする。
「ほら、早くしろ。風で月が隠れて見頃を過ぎたら元も子もないだろう?」
「月見は見えなくなっても楽しむもんなんだよ」
「はあ? 見えないものをどうやって楽しむ? それは動作が遅くて見逃しがちな老獪の言い草だろうが」
そんなことはいいからと、リズは隣の地面をたしたしと叩いて着座を促していた。
まだまだ花より団子という感じに風見は苦笑する。彼とてまだ若いのだから食い気が先行してもいいのだが、こんな彼女らの手綱を常日頃から握っているせいかがっついた感じはもうなりを潜めてしまった。
はいはいと穏やかに返事をするとまずは手始めにパンと具材で簡単なサンドイッチにして手渡してやる。
余分なチーズや燻製肉は切り分け、おつまみとしての準備も万端であった。
今回ばかりは手で食べられるので彼女も一人で問題なく食べている。
両手で支え、中の具材がはみ出して落ちてしまわないように気を付けて食べるところはナッツを食べる小動物のように見えて微笑ましい。普段なら片手で支えつつ、パクパクと食べて終わりだっただろう。
そんなところを見ているばかりでは睨まれそうなので風見は自分のものも用意した。
二人がそれらを平らげ、小腹が満たされたところで今度はお酒時である。
「ほら、さっさとこっちも開けるよ? 今日の戦利品だ」
するとリズがすぐにボトルを差し出してくる。
パンなんてあくまでおまけ。彼女が楽しみにしていたのはこちらの方だ。
「あんまり飲みすぎるなよ?」
「そんな量は最初から持って来とらんよ。見れば判るだろう?」
そういえば確かにそうだ。苦労がなかったためについ忘れていたが、普段の彼女なら風見が持つ手が疲れるほど持ってきていてもおかしくなかった。
だというのに今回はこればかりと自分で自重したらしい。
何か手痛いことでもなければ学ばないリズにしては珍しい。痛い思いでもどこかでしたのだろうか――と風見は少々失礼なことを考えて彼女を見ていた。
「……、」
「特に理由もなく私が自重したらおかしいか」
「何も言っていないのに何故バレたし……!?」
「シンゴは判りやすいからね。顔を見ていれば大体判るよ。喜怒哀楽を顔で文字にしているじゃないか」
「一回り下の女子には言われたくない言葉だ、それ!」
「別に貶してはいないよ? 他人はどうだか知らんが別にシンゴの顔を見て不愉快になるわけでもなし」
人生経験もずっと豊富だというのにそこまで見透かされてしまっては立つ瀬がない。簡単に判る程度の人生と揶揄されているようなものだ。
クロエやキュウビならもう少し良い言い方もできただろうが、リズとしてはこれでも十分に配慮してくれた言葉なのだろう。
風見はとりあえず頭の中では『あなたの笑顔を見れば元気になれますから』とクロエの声で意訳することにしていた。そう思えば憎らしい発言である。
「さっきの話ね、シンゴの言うことも判る気がする」
「言われたくない言葉の話か?」
「そのもうひとつ前。月の話の方だよ」
きゅぽんとコルクを開け、酒を注いでもらうとリズはひとしきりその香りを嗅いでから月を見上げ、舌の上で転がすように味わって飲み始めた。
一口。二口……。
三口目を味わい、風見もグラスに注いだところで彼女は話を再開した。
「こうやって目の前にあるものだけを楽しむなら誰にでもできる。ただ酔うためだけに安酒を飲み下すのと変わらんね」
安酒と称すためなのか彼女はぐいっと飲み干してグラスを空にした。
じわりと喉の奥に広がるアルコールの感覚。ほうと息を吐いた彼女はもう一杯とグラスを傾けて催促してくる。
(あれ、俺ってばボトルを持って傍に控えっぱなしのクライスみたいな扱いになっている気が……)
不意にそんなことを思った風見は複雑な心境だ。
第一、深くて良い話をしようとするのが年下の女の子で、それを静かに聞くのが自分という逆転した構造がどうなんだろうと前提条件からして悩ましく思えてしまう。
「……人の話を聞けっ」
「おふっ」
と、そんなこと考えていたらリズは頭を振って勢いをつけた長髪で風見の顔面を叩いた。
人が真面目に話しているのにと独り相撲を取らされた彼女は、今度そうしたらもう止めると視線に言葉を詰めて睨んできた。
風見は「ごめんなさい」と正直に謝ると正座で聞き入る。
「はぁ、こんなのなのに……」
「本人の目の前でこんなのって言わないでください。へこんでしまいます」
「本当のことだろうに」
改めてそう言われてしまうと色々な周囲の評価がある風見としてはぐうの音が出ない。物言いたそうな目をしながらも押し黙ってリズを見つめていた。
「まあそれでも一人よりはいいこともあるよ。さっきの月の話もそういうことだろう? 何を飲むかじゃなくて、誰と飲むかが大事とか言うのと一緒だ」
少しだけ気恥ずかしいのかリズは風見に肩を寄せながらも空を見上げたまま視線を合わせようとはしなかった。
「酒がじわっと体に染みる感覚を味わいながらたわいもないことを話して過ごすだけでいい。そういう時間もね、私は良いと思えるよ。月はおまけで、そういうことをする方が主眼だから見えなくともいいんだろう?」
注がれた酒をちびりちびりと飲みながらリズはそう語った。
今まさにそういうことをしているのだと言外に言い表しているような言い回しが自分でも小恥ずかしいのだろうか。酒の火照りとは別に少しだけ頬が赤らんでいる。
彼女の言葉を聞いてから風見もちびりと酒を飲みながら月を見上げ、間延びした時間を味わっていた。
応答にしては長すぎるほどの時間を挟み、二人は自然と視線を合わせる。今度は風見が答える番だった。
「え。それは違うぞ?」
何気なさすぎる言葉は酷くすっとぼけた声だった。
言った瞬間、風見は食材の蓋代わりにかけられていたタオルを顔面に投げつけられる。
それが落ちてみれば方向違いの解釈を披露してしまったリズが、あぐあぐと何かもの凄く言葉にしたくてもできない様子で顔を紅潮させていた。
「いや、だってな、無月や雨月はそもそも月が見えなくても想像で補完して月の風流を感じようっていうものでな――」
「そんな御託は聞いていないっ!」
ぐっとグラスの酒を飲み干すことで誤魔化そうとしたリズであったがそれも一瞬の時間稼ぎである。
それが空になってしまえばまた恥ずかしさを我慢するしかない時間だ。
彼女は追加で誤魔化そうと酒を注ごうとしたが、ボトルは風見が持っているままである。
ああ、ああ、また無理な飲みをして……と風見は心配そうに目をやっていたところに目が合ってしまうと意固地になってそっぽを向き、もう一本残っているボトルに手を出した。
そしてコルクに噛み付いて無理やりに開けるといつもの安酒を飲み下すやり方である。
「リ、リズ、やめろってば! ほら、体に悪いし、もったいないだろ!?」
「知ったことじゃない! お前なんかと一緒に居てもつまらんっ。不愉快だっ!」
「さっきと言っていることが違うぞ!?」
わあわあと暴れる彼女を押さえ、ボトルを奪った時にはもう半分ちょっと飲まれた後だった。
その後は言わずもがな。いつも通りに看病が必要な酔いどれが出来上がっただけである。
背中をさすってやったら触るなと怒られたり、ふらふらと体の軸が定まらなくなったので膝枕をしてあげたらそのままふて寝をされたり。
彼女が言った、ゆったりと感覚を大事にして過ごす月見はまた今度の機会となってしまうのだった。




