唾をつけるのは許しません
中央塔に隔離されてから十日目となる朝のことだった。
ヒュドラの洞窟から持ち帰ったスケルトンやその他の調査も終え、薬などの情報もまとめ終えた風見は特にやることがないので弓を引いたりと体作りに没頭していた。
「暇だよ、シンゴ。かまえ」
「陽が暮れたらな」
当初はこんな感じでリズをあしらいつつ、日がな一日調べ物や資料のまとめに時間を費やしていた。
けれどそれでもまだ足りず、研究にはもっと時間がかかるもの――かと思ったのだが、スケルトンの頭蓋骨内にいた魔物も実のところはスライムの亜種のようで大差なかった。
あるとすれば核の作りがもっと細かくなったのと、神経細胞のようなものも持っていたことだろうか。
グール化したネズミも人の症例と変わりがなかったのでほんのいくらか実験をしたくらいで終わってしまった。
そちらで判ったことといえば、
1、虫体が見つからなかったヒュドラの血を経口・経皮投与すると経皮の方が遅れるが、両方ともアナフィラキシーショックのような反応を起こす。
2、生き残ったものはグール化し、脳などに例の虫体を形成する。
3、例の虫体を健康なラットに投与するとほとんど拒絶反応は起こさないが、やがてグール化した。
というくらいだ。
やはり見えないだけで血の中にもグール化の元凶はいるらしい。
それと、もしかしたら毒と言われていたのは虫体への拒絶反応だったのかもしれないと予想することはできた。
こういう例はいくらかある。
例えばフィラリアは犬で有名だが、猫ではあまりない。
その理由は猫がフィラリアに強い拒絶反応を持ちやすく、たった一匹の虫体相手でも死に至ることがあるためだ。
他にもピーナッツのようにアニサキスに対してアナフィラキシーを起こすこともある。
このように寄生虫に何かされなくとも接触するだけで拒絶反応が起こり、命を落とすことはある。
ただ、妙なのは顕微鏡で見えるレベルの虫体では症状が少なかったことだ。
それにグール化した死体の筋肉は生前のように綺麗に残りやすい点も未だに疑問のまま残っている。
この辺りはまだ調べきれていないので何かしらの手段を用意してもう少し調べてみる必要があるだろう。
「シンゴ、今日は調べ物をしなくていいのか?」
「ああ。結局俺には何の症状も現れなかったし健康そのものだ。今日、ここを出てからやらなきゃいけないことも溜まってるしな」
「ほう。なら今度こそ私に付き合え」
リズはここに閉じ込められてからというもの運動不足なのか、ちょくちょく私をかまえと言い寄ってくる。
例えば変に悪戯をして追いかけられようとしたり、異世界の武術を見たいから組手をしろと言ってきたりと様々だ。
しかし、それはそれでいつも通りのリズらしくて良かった。
あの一件以来、彼女が妙なことをするのはなくなり、今まで通り――本当に今まで通りの傍若無人っぷりを取り戻してくれちゃった。
それはベッドや食事を独占することに始まり、かと思えば犬みたいにすり寄ってきたりと気の向くままだった。
そんないつも通りは風見自身の願ったことでもあり、しばしばイラッとしながらも文句は言わずに認めていた。
さて今日は何をしてくるやらと苦労気で腰に手を当てていると、リズは壁にかけてあった模造刀を差し出してきた。
言わんとすることは判る。
「これでお前と打ち合えとか無理があるだろ……」
「そうかな? 私はサーベルのように肉を削いだり突いたりする剣や短剣くらいしか使わないからグレンを相手取るよりマシだよ。ま、それでも私が打つばかりになるだろうが、動体視力や反射神経を鍛えるなら丁度いい。大丈夫、痛くするから死ぬ気で避ければいいんだ。頑張れ」
「俺、そんな努力家じゃないんですが」
「心配するな。血を滲ませる努力はしよう」
「それはただの虐待だっ!」
一向に受け取ろうとしなかったら押し付けられた。
そしてもう決定事項にしたらしいリズは自分だけさっさと屋上に上がると鞘から剣を抜いて肩を叩いていた。
「遅い」
「お前が速いんだよ」
刃が潰してある模造刀とはいえ、結局は金属を刃状にしたものである。
それなりの角度と力さえ込めれば鈍器としても刃としても使える代物であり、竹刀や木刀代わりではないのだがリズのスパルタには関係ないらしい。
……語学といい、体育といい、この世界にはまともな教師がいない。
不安げな風見はリズに恐る恐る問いかけた。
「え、えーと……ルールは?」
「ないよ。できるのならどんな手段でも取ってくれて構わない。生き残ればそれだけで価値がある。ここはそういう世界だ」
さて、と息が吐かれた。リズはもうやる気らしい。
どうやってしのごうかと風見は策を練りつつ彼女の正面に立つ。
その途端の出来事だった。
「ちょ、おまっ――!?」
風見がまだ剣を抜いていないにもかかわらず、リズは情け容赦もなく突撃してくるのであった。
□
「かざみ、さまぁ…………」
死ぬ寸前の病人にも似た声。
この十日間、麻薬を絶った重度の中毒患者のようだったと誰かが言った。
それは概ね正しいとクロエにも自覚はあった。
夜は必ず風見が隔離された扉に縋りついて寝ていた。
しかし彼がグールとなる夢を何度も見てしまうせいでロクな睡眠も取れやしない。
彼が家畜や死肉を漁るグールとなった様は何度も夢の中に見た。
クロエはその度に拳を握り、どうすればいいのかと道を失っていた。
困窮する人々を救うはずの人がこんな様になるはずないと信じたいのに、悪夢はいつもいつも一番見たくない様を見せてきた。
一度目は彼を殺した。
二度目は後悔で動けなくなって彼に食われた。
三度目は縋り付いてどうにか止めようとした。
四度目は――。
そんな悪夢の末は毎度叫びを上げ、涙を流して目が覚める。
これを気の毒に思った門番が風見にどうにかするように直訴してからは彼も扉の前で寝てくれることとなり、クロエの悪夢はようやく半分程度に減った。
だが、それでもまだ半分だ。彼女の心労は絶えなかった。
朝、陽が昇ってから「風見様っ……」と不安に満ちた声で安否を確かめることから彼女の一日は始まる。
「ん。ああ、おはよう。……クロエ、ちゃんと寝たか?」
「はいっ、クロエは……大丈夫です」
「そっか。大変だろうけどご飯もちゃんと食べて頑張ってくれ。俺は大丈夫だから」
「はい」
クロエはなけなしの元気を全て絞り出して声にしていた。
せめていらぬ気苦労はさせまいとする努力だったのだろう。
しかし扉越しにくる風見や門番の視線から感じる心配の色も日に日に濃くなっていくのは彼女自身も気付いていた。
顔を洗いに行くと日に日に濃くなっていくくまを水面に見る。
嘘をつくならもっと上手くつければよかったのだが、彼女はそれほど嘘をつき慣れていなかった。
「もう、少し……。もうすこしだけ、です……。あと、すこしで……」
クロエは寝ても覚めてもうなされた声を出していた。
最低限の身支度だけ整えると頼まれた通り、教会へ行ってグールについての情報を人々に正しく伝える。
不安な面持ちをしている人には「大丈夫です」と微笑み、何故大丈夫なのか懇切丁寧に説いた。
グールがまだいるんだと実しやかな噂に踊らされる人がいたら、それが噂に過ぎないのだと証明するために隷属騎士と共に街中を奔走した。
「グールの元凶はヒュドラでした。しかしそれももう猊下によって討たれ、完全に燃やし尽くされました。その様はあなた方も広場で見たはずです。過度に心配する必要はありません」
こうやっていくら説いただろうか?
クロエはそうして口にする度に風見を思い出し、気が気でなかった。
自分がこうしている間にあの悪夢が再現されてしまったら――と、怖くて仕方がない。
こんな風に離れ離れにされるくらいならいっそ殺してもらった方がずっと楽だった。
だが、風見の命もまた彼女にとっては絶対。
苦しかろうときゅっと唇を噛み締め、何とか期待に応えようと努力し続けた。
誰かが信じてくれるのなら自分にできる限りのことをする。それがハドリアで尊ばれることであり、彼女も守ろうとする信念だ。
しかし、空元気にも限界がある。
色々な感情に板挟みとなった彼女は風見が隔離されてから七日を過ぎる頃には幽鬼のような様子で仕事し、それが終わるとどこにそんな元気が残っているのか城の中央塔に一分一秒早く帰っていた。
けれどそれも今日でおしまいだ。
陽が昇り、みなが仕事をし始める朝の鐘と共にようやく風見のグール化はないと認められるのだ。
「あのっ、鐘はまだなのでしょうか。今日は本当に人が向かっているのでしょうかっ……!」
「その言葉、日の出前から聞いています。それに猊下は今日も無事だったじゃないですか。心配することなんてないですからもう少々お待ちください。今はまだ仕事に出かけ始める時間ですよ」
「なら駆け足の号令をっ!」
「無茶言わんでください」
それはもう、待つに待ちきれず扉の前を行ったり来たりするクロエ。
彼女が猫だったなら扉をかりかりと爪で掻いて切なそうに鳴いただろう。
事実、彼女には猫のような爪はないがしばしばすがるように扉に手を当てて待っていた。
待ち遠しい。
ああ、早く頭を撫でて抱きしめてもらいたいとクロエはうずうずしていた。
クロエは言いつけを守って仕事をこなしましたと早く言いたかった。
それを聞いた風見に与えられるご褒美を思うと狂おしくなるばかりだ。
「今しがた催促の伝令を走らせました。きっと普段よりは早く鐘楼が鳴りますから今しばらく――」
お待ちくださいと門番が告げようとしたその時、がらんがらんと高い音が遮った。
するとクロエの顔は輝く。
ようやく鳴った!
ようやく許された!
一瞬だけ神に感謝の祈りを捧げたクロエは直後、“鋼鉄製の扉”を蹴破った。
体の捻り、角度、重心などなどどれをとっても会心の出来な回し蹴りである。もしも人間がくらっていたなら余裕で脊椎が断裂していたはずだ。
どうやら彼女は重い扉がちんたらと開くのを待つ間すら惜しかったらしい。
「ああーっ!?」
やりやがったと門番に声を上げられても関係ない。
放たれた矢のように走った彼女は三階と四階には見向きもせずに駆け抜けた。
どこにいるかは知らされていないのだが、彼女の中にある風見様レーダーはしっかりと屋上を差していた。
「かざみさまぁっ!」
屋上に出ると遠い朝日を見据えていた風見が微笑みを向けてくる。
――クロエはそんな美化した図を思い描いていたのだが、現実は違った。
「な、なぁっ……、」
「……、」
ちらりと目を向けてきたのはリズだけだった。
まあ、彼女がいるのは別にどうでもいい。
風見の慈愛は領主の魔の手を見過ごすはずはないのだから、リズの命を助けるためにここに置くのも当然だ。
そこは認める。
一億歩譲って隣に立っているのも、クロエは許すつもりでいた。
だが。
だがしかし、である。
風見の腕をちろちろと舐めるのは許し難い蛮行だった。
彼は傍らに模造刀を手放し、目を回して壁を背にしていた。恐らくは剣の稽古でもしたのだろうとクロエは推測した。
リズはそれをいいことに怪我を負わせ、さらにはこれ見よがしに自分のものと主張するように唾をつけているのだ。
なんというか、これはどうしようもなく許せない。
クロエの中では完全にレッドカードものの反則だった。
「あっ、あ、うぅっ……!」
歯を噛み締めずにはいられない。
あれだけ耐えがたかった日々を何とか切り抜けたのに抱きしめてもらえないどころか、こんなものを見せつけられるなんてあんまりな仕打ちだ。
クロエは今ほど他人を呪ったことはなかった。
「ど、どろぼう猫っ……!」
「いや、だから私は犬だと言うに」
申し訳程度の声なんてクロエは聞く耳も持たなかった。
すぐにでも引き剥がそうと足を踏み出す。
「ぐうっ。いってぇぇぇ……」
と、そんな時に風見は後頭部を押さえて目を覚ました。
そして、血が流れる利き腕に舌を這わすリズを見るなり目を点としていた。
「……リズ、待て。お前は一体何をしてるんだよ」
「む、消毒だが?」
「~~……っ!」
自分が負わせた傷だから、と殊勝ぶる雌犬がクロエには腹立たしかった。
そこはお前の居場所ではない。私の居場所なのだと知らしめてやりたかった。
けれどでしゃばる幕ではない。
風見は「あのな、」と呆れ顔をしている。
そう。そのまま見咎め、もう二度としないようにときつく罰してほしい。とクロエは期待を込めて視線を送っていた。
「そんなんで消毒にはなりません。いいか、傷口の消毒において重要なのは血や血漿で薄まっても殺菌能力があること、有害過ぎないこと、浸透能力があることなんかだ。こっちだと今のベストは燃えるレベルのお酒だな。あと、他人の血を舐めるのは病気とかが移ることもあるからやめた方がいい。まあ、水も薬もないなら傷口の異物を取るためにも有効な手ではあるんだけどな」
「違いますっ!」
「あれっ、違った?」
クロエはとぼけた顔をする風見が少しばかり憎らしかった。
それを正したい気もあったけれど、リズのことは認めた風なところが悔しくてこれ以上言葉が紡げそうになかった。
下手に口を開けば喉まで込み上げた嗚咽が外に漏れだしてしまいそうな気がしたのだ。
しかしそちらばかりに気を取られていたらはたはたと涙が零れてしまった。
それを見た風見は「わっ、どうした!?」と驚きながらも優しく涙を拭ってくれる。
この優しさが卑怯で、しかも誰にでも振り撒いてしまうからクロエは心配でたまらなかった。
いつかは自分にくれる分の優しさもなくなってしまうのではないか? そんな漠然とした恐れが彼女の中にはある。
「かざみ、さま。あなたにとっては、リズだけが特別なのですか?」
「そんなわけないだろ。クロエも十分に特別だ。だから俺にはできなかったことを代わりに頼んだんじゃないか。あれはクロエにしか頼めないことだった」
彼は慌てながらも「ありがとう」と言って頭をくしゃくしゃと撫でた。
それだけでもクロエは報われた気がして胸が僅かに晴れたが、まだ足りなかった。
他人の唾をつけられたままでは胸にもやもやが残ってしまう。
ここで見過ごしてしまうとなんだか掠め取られてしまいそうな気がして嫌だった。
クロエはまだ血が浮く彼の腕を手に取る。
「……なら、クロエにも舐めさせてください」
「はい?」
風見は言葉が理解できなかったらしい。
だからクロエは「――て、ください……」と消え入るような声でもう一度申し入れていた。
いくら相手は風見でもこういうことを異性に面と向かって言うのは彼女も恥ずかしかったようだ。
「いや、な? ほら、多分どこかの良識ある人がおまわりさんこいつですって言うと思うからやめるべきだと思う。それにさっきも言ったけど他人の血にはあまり触れない方がいいんだぞ?」
「リズは良くて私ではダメですか……? 私なんかが癒すのはお嫌なのですか……?」
絶対に肯定されたくない問いだった。
もし万が一、ああ。と言われる様を思うとクロエは目がさらに潤んでしまう。
そんな様を見せられると風見は言葉を喉に詰まらせて何もできない。
もろいガラス細工に触れかねるように手も恐る恐るという感じだったが、意を決した彼はクロエの方を掴み、「……頼む」と恥ずかしそうに目を逸らした。
その顔色を見、クロエは自分の居場所がちゃんと残っていたのを認められた。
こんなに嬉しいことはないと彼女は傷口に舌を這わせる。
優しく、丁寧に。
決してなぞり残す場所なんてないように念入りに。
同時に律法で癒しを込め、それ以上に自分の想いを込めてクロエは傷口と対していた。
「うぅ、なんだか果てしなく背徳的なことをしてる気がする」
「してるではなく、正確には“させてる”かな。鬼畜度合いではそれこそドニと変わらんね。あれはたまに気に入った娘がいると村からでも街からでも連れ込んで飽きるまで好きなように――」
「俺はそんなつもり、毛頭ありませんっ!」
「ふむ、ならシンゴがやらせたことを表現してやろうか。歳は十五、六のいたいけな少女二人を侍らせ、おもむろに傷口を差し出すとー」
「おおっとそこまでだ。それ以上はやめろ、本気でやめろっ! じゃないとアグなんとかさんがっ。都知事が来るからっ!」
紳士諸君の愛情表現である少女ぺろぺろではなく、少女がぺろぺろは社会的に非常によろしくない絵面である。
衆目があったなら二度目の拘置所送りになっていたところだ。
いや、少女ぺろぺろもよろしくはないのだが。
風見はすぐにでも止めようと声を張ったが、クロエはさらりと聞き流していた。
彼女の中の火はむしろそれで一層に高まっている。
なぜならこんなに騒いでいても風見は逃げない。
なら、それだけ自分は認められているということだからだ。
あのリズもすぐに取り払われていたのだからこの勝利はなによりも誇らしい。
だからこそ、彼女は愛しさを込めて一心不乱となっている。
そうして風見は通常の二倍や三倍は時間をかけた回復の後にようやく解放されたのだった。




