番外編 異世界での医療品調達 その2
例の如く説明回のような形になっており、ストーリー的な進行もありません。
興味のない方はバックをお勧めします。
中央塔に隔離されてから二日目の朝のことだった。
風見は体調には特に変化がないことを確かめると持ち込んでもらった研究素材で早速仕事を始めるのだった。
「またお前は物好きだね。こんな場所でも何をやっている?」
部屋の片隅でタライを前にじゃばじゃばとやっていると怪訝そうなリズの声がした。
どうやら風見がやっていることがまた奇妙に見えたらしい。
「手術用の縫合糸を作っているとこです」
「……それで?」
「これで」
ざばーっとタライから上げて見せたものは羊の小腸漿膜――つまり、小腸表面の薄皮を剥いだものである。
腹膜、腸間膜、小網や大網、漿膜などと言われる膜については一般の人でもいくらか聞き覚えがあるだろう。
特に大網というものは中国料理では網脂などと言われて食される部位だ。
簡単に言うと胸膜や腹膜は臓器を入れるための大きな袋。
腸間膜や大網などと呼ばれるのは臓器と臓器を繋いで捻じれたり、絡まったりするのを防ぐための膜。
漿膜は臓器などの表面を守る薄皮である。
この漿膜は腸の薄皮を手で持ち、刃のないナイフの背を滑らせれば剥ぐことができる。
手術では刃で切って剥離させることを鋭性剥離・鋭的剥離などといい、刃のないもので剥離させることを鈍性剥離などという。
後者は主に血管や神経を傷つけずに組織を開いていくのに用いる手段で、手術などでも使いどころは多い。
今回は漿膜を傷つけずに剥がすために活用したというわけだ。
「理解できんね。それがどうやって糸になる?」
風見が手にしている小腸漿膜はハンカチのように濡れそぼっているだけで糸の姿には程遠い。
しかも引っ張れば伸縮もするので彼女には糸としては見えなかったようだ。
「まあ、今のままじゃ無理だな。灰とかみたいなアルカリの汁につけて脂肪を抜いてタンパク質を残す。ついでにそれで固くなるから今度はそれを均一に引き伸ばして糸にするんだ。あとは二酸化硫黄とかのガスで防腐処理してやれば大体完成だ。それをカットグッドって言ってな、結構強度もあるし日持ちもするんだぞ?」
「私は腸の肉詰めの方が好きだね」
「ホルモンのみそ炒めとか、もつ鍋もいいな。〆にうどんを入れるとなお良いよなぁ」
「うどん?」
リズは相変わらず医療行為に興味がないらしい。
なんだそれは? と食べ物には興味津々な顔をしているし、いつか日本食を作ってやったら喜ぶかもしれない。
それはともかく、カットグッドとはタンパク質で作られた糸でバイオリンやチェロなどの弦として使われることもあるほど丈夫だ。
また、タンパク質からできているために縫合糸として使っても抜糸せずに体が吸収できるという利点がある。
それを言ってみるとリズは首を捻った。
「別に縫えるなら何でも一緒だろう? そこらにある糸でいいじゃないか」
「まさか。例えば絹糸みたいな体が分解できない糸で内臓を縫ったら大変なことになるんだぞ?」
「……? そうなのか?」
リズにはあまり想像ができないようだが、この吸収できるかどうかという点はとても重要だ。
手術で使う縫合糸には大まかな分類がある。
天然糸か、合成糸か。
吸収できる糸か、吸収できない糸か。
そして一本の糸か、数本を編んで作った糸かというところだ。
特に重要なのは吸収できるかどうかと、単糸か編み糸かどうかである。
内臓や血管の縫合に使えば糸はもちろん体内に残る。
それを後から抜こうと思ったらまた体を切る必要ができてしまうので内部の傷を縫うにはどうしても体が吸収できる糸がいる。
仮にそれを無視して吸収できない糸で縫い、放置してしまうと悪ければ拒否反応で周囲が壊死してしまう。
良くても異物として瘢痕のような組織に固められてその部分の機能が制限されてしまったりと悪いことばかりが起こるのだ。
また、単糸か編み糸かは強度と内容物の吸い上げの問題がある。
皮膚表面なら擦れる場合もあるので編み糸のような強い糸が必要だ。
しかし、編み糸は複数の糸が絡み合ってできているために内部にはどうしても隙間ができてしまう。
こんな編み糸を腸などの縫合に使うとその隙間から腸内細菌が溢れ出し、害が出てしまうために単糸も必要になってくるのだ。
天然糸か合成糸かはただ単純にコストや製造の問題となる。
ただ、天然糸は生物が作ったもののために異物として認識されやすく、拒否反応が出やすい難点も持っているのだがこれは異世界だと流石にどうしようもない部分だ。
使用できないほどの問題でもないのでこちらはひとまず目をつむるしかない。
……と、掻い摘んで説明してみたらどうだろうか。
「と、いうわけだな。何をやっているか判ったか?」
「んぁ?」
「……、」
リズは壁に寄りかかってうとうとしていた。
声をしっかりと向けたところでようやく気付いたらしく、ぽけっとした顔が持ち上がる。
いろいろと細かな説明までしてやったというのに、彼女は口の端からよだれを垂らしている始末だ。
じとーっと恨みがましく見てやってもマイペースにあくびを噛み殺す彼女。
背伸びまで行ってからようやく返答してきた。
「シンゴの話はつまらんね」
「はっ倒すぞ、お前!」
「おや、怖い。しかしシンゴの実力で私を捕まえられるかな?」
そう挑発されたら追いかけないわけにはいかない。
あのキリッと顔を作りながらもよだれを拭き忘れているバカに一泡吹かせてやろうと風見はいきり立って跳びかかった。
□
そうして数分が経過した。
彼は奮闘したのだが――結局、ダメだった。
リズにはひょいひょいと宙を舞う木の葉のように腕をすり抜けられ、すれ違い様ににまっと勝ち誇った笑みをされただけだ。
狭い室内だというのに何度追いかけてみても結果は変わらない。
それどころか疲れて動きの衰える風見では徐々に追うことすらできなくなっていた。
「はぁっはぁっ。もう、いい……」
「なんだもう終わりか?」
「終わりだ終わり。勝てる気がしない」
膝に手をついて息をする風見。
目の前でぱたぱたと嬉しそうに揺れている尻尾が憎らしくて仕方なかったが、この犬の鼻をあかしてやるには並の努力では足りない。
今は時間が足りないくらいだし、リズと遊ぶための時間でもないのだ。
彼は屈辱を飲んで諦める。
「明るいうちじゃないと細かい作業ができないから後でな」
「……むぅ、つまらんね」
「俺に言うなって」
こんな隔離された場所だと運動不足になってしまうのか、リズにはやたらとごねる表情を向けられたのだが風見は捨て置いて机に戻る。
カットグッドの方はしばらくつけ置きしないといけないので今は別件に当たるだけの暇があった。
風見は机の上においてある羊皮紙の束に目を向ける。
「それは?」
「クロエにもらった教会簿の写しだよ。ハイドラの大まかな人口と一部の死因なんかを押さえたやつだな」
それによるとハイドラの人口は二万を超える程度で、死因は全身の疾患が何割、消化器の疾患が何割などと大まかなことしか記述されていない。
が、この世界では病気についてはまだまだ判らないことも多いだろうから仕方がない。
むしろ人口と病気の傾向だけでも把握しているだけ儲けものだった。
「乳幼児には全身疾患が多くて、全年齢の死因でも全身疾患と呼吸器疾患が死因の大部分を占めている。その後に消化器と血管みたいな循環器の疾患が続いてるな」
「死に方なんてどれも変わらんだろうに。調べる意味はあるのか?」
「あるさ。死因が判るならその対策をすればいいんだから簡単なことだよ。怪我したらそこを治療するのと一緒だ」
言ってみればリズは納得したらしい。
死ぬという結果は一緒でも、死因にはいくらか種類があると彼女も気付いたのだろう。
例えば職場で起こる怪我にしたって切り傷が何割で、火傷が何割で――などと判っていれば対策は立てやすい。
それと一緒だ。
WHOが発表する低所得国の死因トップ十には気管支炎や肺炎、下痢、エイズ、虚血性心疾患、マラリア、脳血管疾患、結核、低出生体重、分娩時の外傷、新生児の感染症などがランクインしている。
それを基にさっきの全身疾患や呼吸器疾患と照らし合わせればおのずと原因は推測できた。
「こっちの世界ならエイズは省くとして……。なあ、リズ。こっちでは肺炎とか下痢、寄生虫、新生児の病気、あとは普通の感染症で死ぬ人が多いのか?」
「私は調べたことなんてないし詳しくは知らんよ。けれど食い物がなくて餓死したり、痩せ衰えたところで風邪になって死ぬのは多いだろうね。あとは家がない人間が凍死することもある。刀傷から腐って死ぬのはどちらかと言うとまれな部類かな」
「そっか。ならやっぱり基本的な消毒と食料は重要そうだ。それだけあれば大概の大人は死なないで済むだろうな」
生物の免疫能力は高く、十分な食料があるなら死ぬほどの病気を患うことはあまりない。
それが子供を生める若い体ならなおさらだ。
よくある感染症にかからないよう、最小限の消毒さえ整えれば抗生物質なんてなくても大概の大人は生き延びられる。
ただ、それだけでは“人口を維持するだけの対策”にしかならない。
人口を増やそうと思ったら話は少し変わる。
「また回りくどい言い方をするね。ならその大概の大人以外はどうなる?」
「あんまり効果がないだろうな。この資料にも書かれてるけど、ハイドラの人口は二万。毎年の死者は五千人くらいで生まれるのは五千人とちょっとだ。このうち五歳以下の死亡率が死者の六割くらいであとは年寄りが多め。残る大人は二十代でも三十代でも平均的な数しか死んでないんだ。この死亡率の差ってどうしてか判るか?」
「ただ単に子供や年寄りは体が弱いんだろう? 大人は重い病気などで平均的に死ぬだけ。だからそうなる」
「俺もリズと同意見だよ。子供や年寄りはいくら食料があっても元々の免疫能力が弱いから薬で補助しないと感染症で命を落としやすいんだと思う」
かつて中世では新生児の一年以内の死亡率は二十五パーセントだったそうだ。
現状はこの死亡率で平行線をたどっている。
それは古代から中世のヨーロッパでも同じ推移だった。
しかし産業革命で食料と医療が整うと人口は爆発的に増えた。
アフリカでも満足な食料はなくとも最低限の食料と医療が揃っている今、人口は爆発的に増加している。
つまり人口を増やそうと思ったら問題となるのはいかに低年齢層を救うか、である。
これは人だけでなく家畜の増産でも同じことだ。
この世界に関して言えば恐らく人と動物の間でも死亡率や死因には大差がないだろう。
それに病気に対する対処法も基本的には同じためにこれらは同時に救えるはずだった。
「なら今から研究するのはなんだ?」
「消毒なら純度の高い酒と熱湯と消石灰だけあれば事足りるから、あとはマニュアル程度でもさらっと書いて周知してもらえば済むだろうな。だから必要なのは薬の方だ。抗生物質と寄生虫薬もできれば死亡率は少なくとも今の三分の一以下にできると思う」
「医者にとっては嘘みたいな話なんだろうね」
「そりゃあそうだろうな。風邪を綺麗に直せる薬なんて魔法みたいなもんだと俺も思う」
死因トップ十のうち肺炎、新生児の感染症などは細菌に起因するものが多い。
あの有名な結核も細菌が原因の肺炎である。
下痢には細菌性もウイルス性もある。
一部の赤痢やO-157などは前者だし、カキなどを食べた時の下痢はノロウイルスが多い。
これらはちゃんと効く抗生物質さえあれば死亡率も一桁台までに抑えられるはずだった。
また死因の十三位前後にはいつも寄生虫感染症が控えており、これも重要な疾病となっている。
それにマラリアは赤血球に感染する原虫なのでこれも寄生虫だ。
こちらには蠕虫用と原虫用の薬があれば大部分は対応できる。
具体的に現代で使う薬の名前で言うなら、抗生物質はテトラサイクリン、アミノグリコシドというものが欲しい。
蠕虫ならイベルメクチン、原虫ならサルファ剤というものがあればほぼ確実な治療も可能だ。
これらがあれば、それこそ五年も経たずに人口を倍にすることだってできる。
「その薬はどうやって用意する?」
「抗生物質はとことん微生物を捕まえて培養するしかないな。虫下しならある程度目星はついているんだけどこっちにもあるとは限らないし、できるなら民間療法で今まで使われてきた薬の話から調べていった方が早そうだ」
抗生物質ならこちらで微生物を培養し、ペニシリンのように発見すればいい。
アオカビだけでなく、排水溝の放線菌という細菌から抗生物質が作られたこともあるくらいで選択肢は幅広い。
ただその幅広さは問題でもある。
今まで発見された抗生物質は数万とあるが、実用化されているのは百種程度とも言われるくらいなのだ。
ちゃんと使える程度に効果があるものを発見するのは至難の業である。
これはもう運に頼るしかない。
寄生虫の薬は古いやり方だと虫下し用の植物があった。
例えばセンダンという植物の樹液は虫下しに使われたことがある。これは日本の四国や九州には自生しているくらい一般的な植物だった。
こういった植物などをそのまま使った薬を生薬といい、前に作ったモルヒネは生薬であるアヘンから抽出した薬だ。
抗生物質や抗寄生虫薬を作ろうとした時、風見がまずやるべきことは二つとなる。
まず抗生物質はどの菌が抗生物質を出すのか調べるためにそれぞれの菌で培養したコロニーを作らないといけない。
なぜ単独で培養しなければいけないかというと、抗生物質と一緒に毒成分を分泌する菌も混ざっていたら大変だからだ。
次に寄生虫薬では虫下しとして使われてきた生薬の情報から探すべきだろう。
もしなければ寄生虫に対して地道に生薬を与えて確かめるしかない。
そんなひたすらに地道な作業に聞こえる研究はリズの性分に合わないらしく、いかにも退屈そうな顔で話を聞いていた。
「病はまだ判るが、たかが寄生虫如きに人が殺されるものかな」
「グールだって寄生虫みたいなもんだぞ?」
「あれも目に見えん時点で私にとっては病と一緒だよ。寄生虫といえば腹に住むあれのことしかないさ」
「それは蠕虫な。あれは確かに害の少ないやつが多いけど重度に感染するとやっぱり命に関わるぞ。消化管に付くタイプは害が少ないけど、肝臓なんかに付くやつ害がかなり大きいんだ。しかもな、俺の世界では発展途上国なら七割くらいの人が何かしらに感染していたらしいからここでもそのくらいの割合で感染してると思う」
「ふむ、それはつまり私にも?」
「あー……、」
確率的に言えば十分あり得るが、面と向かっては言いにくくて風見もはぐらかしてしまう。
だが、リズはそれで察せないほど愚かではなかった。
入っているのだろうかと不安そうな面持ちで腹をさすり、若干気持ち悪そうにしている。
「それはどうやって調べる?」
(それを聞くなーっ!)
リズは風見が最も困る質問をさらっと突き付けてくる。
セロハンを使った蟯虫検査やら、糞便検査が思い出されたがまさかその風景を赤裸々に言うわけにもいくまい。
ああいうのは調べる人と調べられる人が面と向かわないからこそ気楽に判決を下せるのだ。
面と向かって、しかも異性に対してそれを説明するなんて色々とマズイ。社会的にマズイ。
子供ってどうやって作るの? と子供に聞かれるくらいに困り、風見はたらたらと脂汗を流す。
実感する。無知とは罪だ。
「え、えーと……牛なら肛門を見て確かめたり、糞を水に溶かして顕微鏡で確かめたりする……かな。こっちだとそれ以外の方法は無理だ」
「ほう、なるほどね。そうやって調べるわけか」
腕を組み、静かに頷いた彼女はしばし目を閉じていた。
その姿はさながら判決を考える裁判官のようで、風見はびくびくとしながら様子をうかがっていた。
彼女はたっぷり三十秒ほどは静止していたが、どうにも判決を出し辛かったらしく気まずそうにしている。
「まあ、私だって奴隷だ。脱げと言われれば脱ぐし、股を開けと言われるならそうしよう。道具の管理も主の仕事だ。シンゴが求めるなら別に拒まんさ」
「いや、その、だな。リズとかは健康に見えるしすぐにどうこうなるってわけじゃないと思うからその、女の人とかに担当してもらってまた追々にだな――」
「ただ、脱ぐのとはまた違った抵抗感があるね。正直、今までこんな心境になったことはない」
彼女は物思いであまり風見の言葉が耳に入っていないようだった。
彼の傍にいるのはどこか居心地が悪いのか、身を抱いている。
「うおおおい、ちょっと待ていっ! いつの間に俺が調べる予定になってるんだ!? 牛だからっ! 今言ったのは牛相手の方法だからっ!」
「私も犬。奴隷だし、同じ家畜みたいなものだよ。もちろんシンゴも医療目的で、相手を心配して考えているんだろうさ。けれどね……」
「そうっ、変なことなんて微塵も考えてない! 判ってくれるなら助かる。俺もこれからはそういうのに配慮した取り組みを――」
「だがこれだけは言わせてほしい。変態め」
「判ってないじゃないか……!」
珍しく普通の女の子のようにぼそっと言い残し、リズはどこかへ逃げてしまった。
「うう、必要な医療行為でもあるんだからやましくなんて……」
そんな判決が胸に深く突き刺さり、風見は日中の内のほとんどを『orz』で過ごしたのだった。




