キツネ様に会いに行きます 前編
ドニが統治するラヴァン領と帝都の間には弧状に長く続く山脈がある。
このカバディア山脈は北の大国との国境の役割も果たす大山脈で、一部にはドラゴンの住む火山地帯があることで名が知れ渡っていた。
そしてハドリア総本山はその山脈のうち、北と南のちょうど中間に位置している。
帝都に行くにも、総本山に行くにもこの山脈は迂回するには長すぎるため比較的なだらかなところまで歩いていき、そこから山脈を越えて向かうのが通常のルートだ。
たまに山賊などが出る点ではよろしくないが、地方からの商人や巡礼者もよく使う道なのでいくらかは整備されているし、街道沿いにはちらほらと宿もある。
なのでリイル達の一行がそのふもと沿いのルートを選ぶのも当然と言える。
それにたかが盗賊程度ならその場で叩き潰せる神官騎士が十人近くついているのだ。この道を選ばない手はない。
ハイドラの街をたってからかれこれ半月ほどが経過し、彼女らは道程の三分の一を消化していた。
このままゆっくりあと二週間ほど歩き、山脈を越えるのが総本山への最短ルートなのだが、彼女らは何故かそれから少しそれた山麓高原にある街、スシーバという場所に赴いていた。
季節はまだ早めの秋だが、標高が高いこの地ではもう霜も降りる。
山道と肌寒さで疲れた一行は昼過ぎに街へ到着すると早々に宿を取っていた。
小さな宿なのでこの人数ではまるまる貸し切り状態で、リイルの部屋前に警備が並ぶこともない。
せいぜい一人が部屋前に付くくらいなのだが、この警備の薄さには貸し切り以外にもう一つ理由があった。
「くはーっ。連日馬に乗ってるといろいろと痛いのなんの。あたしのやわいお尻もコチコチになっちゃうねー。誰かに揉んでもらいたいよ」
「慎みください。見るにも聞くにも耐えかねる醜態にございます」
「……出たな、コチコチ」
「ライラにございます。それと最初から同室しておりました」
部屋に入ると早々に背中から芯がなくなってくつろぎモードとなり、ベッドに突っ伏したリイル。
それを冷ややかに見下ろすのは“鉄”の女性であった。
重い……重すぎる視線に圧しかかられたリイルは渋々と体を起こす。
顔をぴしりと引き締め、佇まいにもぴしりとノリを利かせたようなこの姿を見れば誰でも、ああ確かに鉄だと頷く。
そんな女性はリイルの軽い語調にも全く揺らされず、用意されていた台本を読むナレーションの如く一定調につらつらと続けた。
「枢機卿。わざわざ遠回りまでして何故このような地に?」
「風の吹くままに任せてねえ。ただの気まぐれだよ」
「山からは吹き下ろしでございました。そのような誤魔化しは捨てて本意をお聞かせください」
「まったくもう、あたしにその本意とやらがなかったらどうするんだか」
厳格な表情は静かに返答を求めている。
リイルの考えをよく知っているからなのか、はたまた理由がなければまたお説教モードに入るだけなのか。
このポーカーフェイスが基本の鉄の顔を前にしてはよく判らない。
だが、今回ばかりは言った通りの気まぐれでもなかったためにリイルは肩を竦めた。
「知り合いに野暮用があってね。というわけであたしは今からちょいと出てくるけど心配しなさんな。数時間で戻るから適当に羽伸ばしといて」
「なりません。このような場所で御一人にさせるなど防衛の観点から言えば言語道断。どうして認められましょうか」
リイルが立ち上がるとライラはつかつかと詰め寄って行く手を塞いでくる。
聞き慣れた諌言だった。
歳は五十間近で皺も目立つ彼女はその溝をさらに深く刻んでねめつけてくる。
並べば母と娘ほどの歳の差に見える通り――無論、長命種のエルフであるリイルの方が十倍以上は年上なのだが、リイルは彼女が苦手だった。
「もうちっと肩の力を抜かないとコチコチになっちゃうよ?」
「慣れておりますゆえ、お構いなく。市勢の監査程度でもついて行きます」
「それは後で適当に。今はもっとかるーい用事なんだよね、これが」
「だとしてもでございます」
それはもう、ライラは厳しいことで有名だ。
口を開けば『なりません』であり、頭がお堅い神官の中でも輪をかけて融通が利かないルールブックだった。
その礼儀作法は食事に始まり、一挙手一投足にも向けられてくる。
文句を言わずこれについていった人間は漏れなくクロエのような人格にされた実績もある。
要するにそういう観念を人型にしてできたのがこの“白服”の女性統括長、ライラ・リスト・クローウェルだ。
外の警備が薄いのも彼女がいつもリイルの傍で控えているからである。
白服のエース級と知られるクロエでさえライラには足腰が立たなくなるほどしごき倒されるのだから実力は言うまでもない。
恐らくハドリアでも一、二を争う実力であろうし、南の帝国でも十指に入るだろう。
彼女は長らくリイルのお付きをしており、言動の軽いところを見ればすぐに鞭を打つ。
言わばお付きという名の躾け担当だ。
普段からいろいろと緩すぎるリイルにはそれがちょうどいいくらいで機能している。
「んもー、固いこと言わない。防衛だか知らないけどそんなのは誰にも見られなきゃ心配する必要もないっしょ?」
「その誰かがどこに潜んでいるか不明でございましょう」
「少なくとも部屋ん中にゃいないよ。それにあたしゃ、“外に出ないでも外出しちゃう”から問題ないんじゃないのかい?」
「だとしても同行させていただきます」
即答にげんなりとしたリイルは早々に諦めた。
ライラを相手にして我を通せるビジョンなんて浮かばないからである。
一度なりませんと言われたら撤回されることはない。この四十年ほどで嫌と言うほど思い知らされたされたことだ。
「あーもう、あんたは昔っからあたしの言うことなんか聞きゃしないんだから。年寄りの言うことにゃ従うもんだよ?」
「ならば尚更。老いに寄っているのはどちらとお思いでございましょう?」
「へいへい、降参でございます。にしても、どうせ連れてくんならあれも若い男の方が喜ぶんだけどねー。……あとで食われちゃうんだけど」
だから男の神官騎士は連れていけないなぁとリイルは頭を掻く。
そんな様子にライラは何か感づいたようだった。
「……! キュウビ様がこちらにお住まいなのですか?」
「あはは、それだけで判られちゃうなんてあれも素行がなってないね。ともかくあたしも長らく会ってないから伝書鳩で知らされただけなんだけど、そうらしいよ。最後に会ったのはいつ以来だっけかなー」
「四十年前にございます」
「あー、ライラがあたしの小間使いなのに礼儀作法に口を出し始めた時代だったか。懐かしいねえ。あの時はこーんなに小さくてかわいかったのに。例えばリイル様、こんなお花を見つけましたって――」
リイルは感慨深く思い出していたのだがライラはごほんと咳払いをして邪魔をした。
どうやらこの鉄の女も昔をだしにされるのは堪えるらしい。
悪女はにやりと心のライラ対策手帳に戦法を一つ追加しておく。
「しかしキュウビ様に何用でございますか?」
「面白い男の話でも聞かせてやろうかと思ってね」
「猊下のお話にございますね」
ライラの推察にこくりと頷いたリイルは「知ってるかい?」と問いかける。
「あの男、早速グール退治をなしたそうだ。しかもそれだけじゃなく、ヒュドラまで仕留めたって話だから驚きじゃないかい。ま、仕留めたって言ってもかつての領主の討ち漏らしを仕留めたってのが正しい解釈だろうね。大方、領主の見栄っ張りに付き合ったんだろうさ」
「悪問にございます。はや半月も移動したのですよ? 後追いの旅人が口伝するまで枢機卿以外に知る者などおりません」
「あっはっは、そういうことだね。土産話にゃちょうど良さそうな鮮度だろう? そういうわけで腐らないうちに持ってってやるとしようか」
Eu escrevo isto Gravata、と。
詠唱と共にリイルがつうっと空中を撫でるとペンで線を引いたように黒が走り、空間が裂けて広がった。
その先に見えたのは獣道が一本通っただけの深い森である。
彼女の律法は異なる二つの場所を繋げるものだ。
距離が遠くなるほどにこの穴も小さくなるので現在地とハイドラでは覗き穴一つを作るのが精一杯であるが、距離がそう離れていなければこのように移動にも使える。
尤も、これは体力の消耗が激しいので旅路に使うのは不向きなのが難点だった。
二人はその穴をくぐって森へ入る。
ライラは詳しい場所などは聞かなかったが、鼻に香ってくる深い緑の匂いからして人里からは遠く離れた場所だと感じられた。
周囲を見回しても木だけしかない。
怪しい気配はないと確かめた上でリイルを呼び、二人は獣道を進んでいった。
だが、その途中。
ライラは歩いてすぐに歩みを止め、リイルを背に隠した。
「枢機卿、御下がりを」
彼女は鋭い眼光で森の奥を見据え、白服の袖を横一線に素早く振り払った。
リイルの目では何も捉えることはできなかったのだが、ひゅんと二つの風切り音だけは残る。
実際には二つの寸鉄が投擲されたのだ。寸鉄とは簡単に言うなら金属の杭のようなものである。
この森の暗さでは見切るのは至難の技だろう。
だが、直後に返ってきたのはカカッと木に突き刺さった音のみだ。
ライラは怪訝そうに眉をひそめる。
「……! よもや避けられようとは。付加武装を使用しますのでご注意を」
「随分と本気だねえ。そんな風に対応するだけの相手かい?」
ライラは白服の裾を翻すと三つに折りたたまれていた武器を取り出した。
瞬時に組み上げられたそれはクレセントアックスである。
ライラが二、三ほど何かを口ずさむと武器にはめられた黒色の魔石が輝き、黒い淀みが武器を覆う。
彼女は自分の身長にも等しいそれを軽々と振り回すと構え、敵が間合いに入るのを待った。
耳を澄ませば枝や葉をはねる音が前方からやってきていると判る。
速さや足音からして人ではなく、獣の足取りだと推測できた。
と、その時だ。
「待ちな。ライラ、死にたくなければ今すぐ目と耳を塞ぎなさい」
先程からの音がさらに高まり、獣の息遣いまで聞こえてきた瞬間のことだった。
ライラは急に投げられたリイルの声に意識を向ける。
「――、御意」
臨戦態勢の最中にやられた声だったがライラは忠実に従う。
主のための諌言ならいくらでもするのが彼女であり、主のためなら多少は無礼であろうとも口答えはする。
けれども命を捨てろと言われれば迷うことなく従うのが彼女という女の在り方なのだ。
このように意図の読めない命令だろうと関係ない。『主は絶対』。それが彼女の中にある規律である。
次の瞬間、獣道から飛び出てきた巨大な狼がライラの首下に食らいつく――はずだったのだが。
白い牙が彼女に触れた直後、風となって跡形もなく消えてしまった。
もういいと肩を叩いて知らされるとライラは目を開く。
「枢機卿、今のは……?」
「キュウビの幻術。幻術だから攻撃当てても効かないし、あれは下手すると心を噛み殺しにくるから気をつけなよ? ここは結界の内側で、あれのテリトリーなんだよねー。招かれてないあたし達は不法侵入者として認識される。当然、自動防衛に晒されるから家に着くまではその都度指示に従いなさい。やれやれ、あたしからでもあいつに手紙を飛ばせたらよかったのにねえ」
言われた途端、今度は薄暗かった森に濃い霧が立ち込め始めた。さらにはボウと火の玉が無数に上がり、木々の間を揺蕩う。
先程の幻術で制圧されなかったからか防衛のレベルが一段階上がったようだ。狐色の炎は肌を焼く熱気を散らしている。
「やーやー、キュウビったら今度は狐火まで持ち出してまーたド派手な歓迎だこと。ちゃんと家を見つけるまで無事でいられるかねえ?」
「こちらの火は幻術ではないのですか?」
「本物の火だよ。あれは人とはちょっと違うからいくつかこういうのが使えるって言い伝えられてたっしょ? あんの女狐ったらほんとに見境ない。はぁ、こりゃあ大声で呼びかけた方が早いか」
狐火は二人を囲い込むようにどんどんと輪を狭めてくるのだ。大木でさえ火に炙られると即座に炎上してしまう。
幻術はリイルに通用しなくともこのように炙られてはひとたまりもない。
肩を竦めた彼女は「おーい!」と大声で叫びかけてみるのだった。




