再契約をしてみます
グール化するかどうか判らない今、風見にはすべきことが多かった。
今まで作った麻酔やエーテルなどの作成法をまとめたり、使い方、それに関する基本の知識をまとめる作業は皆のために必須だろう。
薬の製造には手間も時間もかかる。医療行為をしながらそれも一人でこなすのは無理だ。
これは自分が無事にしろ、無事でないにしろ早めにやっておくべき仕事だった。
ここを出た後にはどこかと提携してこれらを製造、研究してもらう必要がある。
これだけの進歩をものにするために地球人がかけた時間は数百年近い。
これだけでも医学的には大きな進歩となるだろう。
しかし、如何せん情報量が多い。
夕食を食べながらも机で作業を続けていた風見は疲れのためかそのままうたた寝してしまった。
目を覚ましてみると部屋は真っ暗である。
木製ブラインドの窓から注ぐ月の光が唯一の明かりだった。
「んー……、どのくらい寝てたんだ?」
腕時計を見るとどうやら三時間ほど寝ていたらしい。
そういえば昨日はグール騒ぎで雑魚寝であったし、昼はヒュドラ退治とかなり疲れがたまっていたのかもしれない。
二十代前半はもっと元気だったんだけどなぁ、と彼は微妙に歳を感じつつ体を起こした。
机にうつぶせて寝たために節々が痛い。
「しかしまた冷えたな……」
風見は身震いし、毛布やタオルケットでもかけていればと後悔した。
もう寒いしこのままベッドに入って寝てしまおう――そう考えた時、そういえばリズはどうしたのかが気になった。
「あれ、ご飯にも手をつけてないのか」
もう冷え切ったスープはともかく、パンや酒も減ってない。
どこにいるかと三階だけでなく四階も見回したが彼女の姿はなかった。
となると残るは屋上だけである。
室内でさえこれなのに未だにそんなところにいるなんて半ば信じられないのだが、彼は心配なのも相まって確かめにいく。
「おい、リズー?」
予想違わず彼女はそこにいた。
変わらない様子で背を預けたまま目を閉じ、寝た様子にも見える。
が、外気は吐いた息が白くなりそうなほど冷たいのだ。そんな場所で寝ていたら凍えてしまう。
いくら亜人でもこれはまずいのではなかろうかと駆け寄ってみると彼女の唇は真っ青で顔の血の気も引いていた。
案の定――なんて思っている場合ではない。
「リズ!? どうしてこうなるまで外にいたんだよ。おいっ、目を覚ませ!」
「……、」
大きく揺さぶってみてもあまり変化はない。
かなり気怠そうに目を開け、またとろんと意識を失ってしまう程度しかなかった。
試しに内ももの辺りを強くつねってみてもびくっと反応を見せるくらいで文句も何も言ってこない。
この様子からするに軽度から中度の低体温症なのだろう。
こういう時はとにかく温めればいい。
ただ、欲を言うならできるだけ体の中心から温められるように脇や内股など静脈の大血管からゆっくりと温めてやるのが望ましい。
これにはいくつか理由がある。
例えば手足の先にあった冷たい血が急に全身を温めたことで流れ始め、一気に中心へ流れ込むと芯が冷え込んでしまってマズイ。
重要なのは中心――いくつかの臓器の熱を奪い過ぎないことだ。
その他にも低体温によって普段は細胞内に多かった成分が血中に流れ出てしまい、それが心臓に流れ込んでしまうと危険な場合がある。
生物の神経や細胞について知っている人なら細胞内には血中よりカリウムが多いことは知っているだろう。
これが細胞外に出たり元に戻ったりして電位差を作り、それによって神経や筋肉を反応させる。
言わばスイッチのオンオフのようなものだ。
だがこのカリウムが血中に多いと電位は脱分極という途中の状態で止まってしまい、筋肉や神経は反応できなくなってしまう。
大雑把に言うなら二人で話をしている時、傍で誰かが大声を上げると声が通じなくなってしまうのと同じで、神経と筋肉が会話できなくなってしまう。
この状態がもし心臓で起こったらどうなるか? 想像に難くないだろう。
塩化カリウムは即座に心停止させるの薬物としてアメリカでは死刑に使われる代物だ。
正座をしたり、寝ている間に腕を押し潰して一時的に動かなくなってしまうことがあるだろう。
その痺れもまさにこの脱分極の状態である。
血の流れが減っているから酸素の供給が減り、酸素の供給がないからエネルギーを作れず、エネルギーがないからカリウムの濃度勾配を保っていられない。
そうして細胞の中にあるはずのカリウムなどが外へ出てしまうと、脳の『動かせ』という命令よりも常に高い電位になっているので命令の電気信号が掻き消されてしまうのである。
他にも鉄骨の下敷きになったりなど、何か異常が起こった部分からの血を急に巡らせるのはクラッシュ症候群や高カリウム血症といって急死の要因にもなり得る。
重度の低体温症では裸で抱き合って温めるなんてことをしたら逆に死なせてしまうこともあるので注意が必要だ。
ともあれ、今のリズの状態はそこまではいかない。
低体温症でそういう症状が起こるのは中度から重度の時。体温が三十度近くかそれ以下になった時の話だ。
リズならせいぜい毛布にくるめて腋などにお湯を挟んで温めるくらいで十分だった。
「くそっ、このバカ!」
ただ、いくら軽症だからといってなっていいものではない。
それとこれとは別で、彼女の自己管理のずさんさには風見も呆れた。
彼は苛立ちを飲み込んでリズを背負うとすぐに階段を下り、ベッドに寝かせた。
あとは外の門番辺りに彼女を預け、毛布やお湯で早く温めてもらうのが――
「しまった。こいつは出すなって言われてるし、俺が触ったじゃないかよ……」
今さらだが頭を抱えたくなる。外に任せるのは無理だった。
門番をしている隷属騎士にはとりあえず急いでぬるま湯を持ってきてもらうように言いつけ、彼は暖炉に向かった。
置いてあるのは大小のまきとおがくず、それに白っぽい石と金属塊。
要するにこれで火打ちをしなければならないらしい。
「あーもう、ライターとかバーナーがあれば良かったに……!」
くそっと何度目か判らない悪態をつき、石と金属を手に取った。
滑るように打ち合わせておがくずに火花を落とそうとするが角度が良くないのかあまり上手くいかない。
焦る気持ちのせいか、一度ミスして金属で自分の手を打ってしまったくらいだった。
暖炉に火をくべられたのは十分ほどしてからである。
「リズ、具合はどうなんだ?」
顔を叩いてみると今までよりは反応が返ってきた。
これならもう適当に放っておいても大丈夫だろう。
そう判断すると気苦労なのか疲れがどっと吹き出てきた。
「……目を覚ましたらこってり絞ってやるからな」
ぶつぶつと呪う彼はベッドの縁に寄りかかり、睡魔にやられて目をつむってしまうのだった。
□
「う、んんぅ……?」
ぱちりと目を開ける。
暗い部屋を弱く照らす光があると思ったら燻ぶっているおき火だった。
「部屋、か」
さっきまでいた屋上ではないらしいと判断すると同時、リズは自分の手が握られているのを感じた。
横を見れば風見の顔があった。
疲労の色が隠しきれない彼はすでに寝入っている。
記憶では外にいたはずで、今の自分は薄着で、傍には湯たんぽも落ちていて。考えるとこの状況はすぐに理解できた。
まるで重病者の看病みたいにぎゅっと両手で握られていた手。
少し引いてみると放すまいと圧力が返ってきた。
ぷいぷいと振ってみても離れない手に、リズはやれやれと顔を緩める。
「……なんだ、お前は私がいるのか?」
小さな問いかけ。
もちろん、寝ている彼から返答がくるわけもなかった。
「おい、シンゴ。おい。おーい?」
べちべちと割と強めに叩いてやれば彼はすぐに起きた。
一瞬、ぼけっとされたが彼は我を取り戻すとすぐに青筋を浮かべる。
「リィーズーっ……、お前なぁ!」
「うん、なにか?」
「なにかってお前、……それは流石に怒るぞ?」
「なにを?」
リズは白々しくも疑問顔だ。
安否を気遣って精根使い果たす看病をしたのにこんな態度を取られては堪忍袋も切れかねない。
風見にしてみればなんでこうなったのか詰問せずにはいられなかった。
「なんで。なんで、か」
リズは言葉を舌の上で転がし、何かをおかしがっていた。
その理由に見当がつかなかった風見は「騎士なら報告も義務だろ」と返事を催促する。
「いや、私はもうその隷属騎士でもないんだろうがね」
薄っぺらい笑みを浮かべた彼女は続ける。
「まあ、しいて言うなら理由はない。一つもない。だからこうなった」
「お前、ふざけてないよな?」
「ふざけてないさ。至って真面目に言っている」
リズの表情は軽薄だが、それでも嘘が混じっているようには見えなかった。なので風見は彼女の言い分だけでも聞いてやろうと口を閉じる。
すると彼女は眼前に指を突き付けてきた。
「では私からも質問させてほしい」
「なんだよ」
「シンゴはどうしてここに――この世界にいる?」
「どうしてって……なりゆきだろ。しょうがないじゃないか」
僅かに逡巡したが出た答えはそんなところだった。
けれどもリズはそれが気に入らないのか首を振る。
「なら別の質問。シンゴはどうして生きてる?」
「なんだよそれ、誤魔化そうとしてるのか?」
「滅相もない。私は本気で聞いている。シンゴは私よりも生きた人間だろう? だから教えてほしい」
「理由なんてないだろ、そういうのには」
「理由がない、ね。それは私のとは違ってる」
「いや、よく判らんって」
変に真面目な答えを用意するのにも疲れた風見は呆れ交じりに返した。
しかし、リズの瞳は見竦める重さを持ってじっと注がれていた。放って返すような態度を見咎められた気分である。
どうしていつの間にか攻守が逆転しているのだろうか。
「シンゴは家族とか仕事とか、そういうものがあるから生きている。しなければならないことを持っている。大勢に何かを望まれている。明日には何かがある。ずっと先にも何かがある。だから生きなきゃいけないとか、そういう強迫観念に生かされてるんだろう?」
「極論で言ったらそうなるんだろうけど……お前、どうした?」
「どうしたもこうしたもない。そういう理屈がなくなったから私はこうなんだ。今この瞬間に死んだとして何の不都合もない。生きることなんて勝手に動く他人を半眼で眺めることと何が違う?」
彼女はまるで機械のような言い分をする。
それは悟りきった人の答えのようでもあり、何も知らない少女の答えのような気もした。
「哲学だなぁ。生きる定義なんて難しいこと、俺はあんまり言う主義でもないんだけど。まあ、そうだな。人生の先輩として一つ言うなら、」
「いや、私は学がないから難しい話は頭が痛くなる。いらんよ」
「待てぇい! 自分で聞いておいてそれはないだろ」
「聞いてもあまり意味がない気がしてね」
あとは自分で察しろと言いたいのか、リズはベッドに沈んで目をつむってしまう。
ついでに犬耳をぺたりと倒して外界からの音も完全にシャットアウトだ。
いつもの気まぐれで喋ることに飽きたのだろうか。もう寝る体勢である。
しかしこの狼娘は隣に男がいることも気にしないのだろうか? 自分が薄着姿なのも全く気にせずベッドに体を預けている。
普通ならもう少し異性との距離を考えて然るべきであろうに。
(……まったくこいつは)
風に身を任せるだけの草を相手にしている気分だ。話はここで終了らしい。
彼女と同衾する気もない風見はソファー辺りで寝ようかと立ち上がる。
「む、そうだ忘れていた。そういえば朝に剣を向けた詫びがまだだった」
リズは自分の用事のみを思い出し、むくりと再起動した。
風見はもう不服は言わない。言っても疲れるだけだと悟っていた。
「お前のことだから体で払うとか言うんじゃないよな?」
もうそういう態度で惑わされるものかと訝しむ瞳をすると、彼女はけたけたと笑う。
少しも否定をされなかったのですが、これ如何に。
「まあ、シンゴが望むならそれでも構わんよ。生憎と奴隷身分の私は財産なんて持ってない。残っているのは家名とこの体くらいさ。あとは全部借り物だ。さて、品数が薄いのは心苦しいが何が欲しい?」
「大人をからかうな。そういうのはあんまり嬉しくないっての。お前はそうやって命令されるのが好きな人か」
「くくっ、それはいいね。首輪をつけて命令してもらえるなら楽だよ?」
冗談をたしなめるつもりで言ったのだがリズは満更でもなさそうに表情を深める。
風見はすっかりと忘れていた。彼女は狼の亜人種だ。
狼のように獰猛な部分ももちろんある。けれども群れのリーダーに従う方が落ち着くという根っこの部分も大して変わらないのかもしれない。
「ま、所詮は犬ですから」
「いやいやいや。亜人だろ、あ・じ・ん!」
「大差ないね。さあさ、私になんなりと言ってみろ。尻尾を振って応えてやる」
そう言って犬歯をのぞかせる彼女はもちろん従う者の顔ではなく、どちらが上の立場か判ったものではなかった。
もしこの世に同じ態度をするランプの魔人がいたとしたらランプを放り投げていたかもしれない。
じとっと視線で抗議を送ってみるのだが、むしろ催促の視線で押し返されてしまう。
こんなリズでも女の子。ねだる瞳はしたたかさの一つとして持っていたらしい。悔しいが、一応威力のある瞳だった。
「はぁ、参ったよ。じゃあお願いさせてもらう」
「ああ、どうするね?」
お手上げを見せるとリズは満足そうな顔だったがいいように扱われるばかりでは気に食わない。
だから風見も風見で反骨精神は旺盛に、傍から見てもわざとらしい従った振りをしていた。
視線を絡め合う僅かな間。
二人は揃って挑戦的な顔をしていた。
「リズは今まで通り――いや、今まで以上にしっかりと俺の警護をすること。それこそ犬みたいに忠実にだ。お前が何と言おうと、ドニが何と言おうと関係ない。絶対にそうさせるからな」
「なんだ、そんなことか。元の鞘ね。……やれやれ、別に構わんがシンゴは存外つまらん男だね。他人が言わないことを言うかと思った」
「でも、拒否はしないんだろ?」
「まあね。従ってはやるよ」
「じゃ、返事は『わん』で」
途端、あぁん? と睨みが飛んできた。
心に突き刺さる視線で辛いのだが、ここで下手に引くと余計に悪い結果となるのは明白だ。
風見は自信満々に開き直ってみせた。
「他人が言わないことを言ってみました」
「シンゴ……。お前はバカだろう……」
「バカで結構。人生、楽しんだもの勝ちじゃないか。俺は難がない生き方が好きだ。楽が多いならなお嬉しい。生きるなんて突き詰めればそんなもんだろ? ただ呼吸してるだけならそれは生きるじゃなくて生かされるっていうんだと俺は思う。俺にとっての生きるにはこういうのが必要なわけで。だから命令したいな!」
「……、」
命令の一言でリズは口をつぐんだ。
はぁぁぁと深いため息をつかれたものの、彼女はさっきの宣言通りに尻尾を振ってみせ、少しばかり躊躇いながら言った。
「はいはい。わんだ、わん。これでいいんだろう? お前はこれから仮のご主人様だ。認めてやる」
ふてぶてしい限りの返事だった。目はそっぽを向いているし、尾の動きもオイル切れの機械のようである。
だがそれが良いと風見は断言できた。
そのふてぶてしさやぎこちなさこそ我々の業界では最高のアクセントだった。




