これからが始まりのようです
「なあ、そこに誰かいるんだろ。ちょっと話を聞いてくれないか?」
中央塔の三階は二階への階段前に金属製の分厚い扉があり、上部には物見用の格子がついている。
そこからはドアの横に立つ人の後頭部が見えていた。
「お前の話なんか聞くやつはいないっ!」
「……あー、その声は……」
しゃーっ! と猫に毛を立てられた気がした。
それだけで向こうにいるのが誰か判ってしまうのもなんである。
何か久しぶりに会った気がした。
「クイナ……。俺、なんでそんなに嫌われてるんだ?」
「知らないっ。何も言いたくない!」
「さいですか……」
仮にも主従に近い関係でこれはアウトだろうが風見は容認している。
けれどもこういう反応をされると微妙に傷つくし、年頃の娘を持った親の心境だった。
これには「お父さんのパンツと一緒に洗濯しないで!」級のダメージがある。
いくらか顔を合わせて仲良くなったのだし、もう少し近い距離感で話してくれてもいいのではと思って止まない。
これでは野生動物を相手にした方がまだ進歩を見込めてしまう。
「うーん。これからもう少し距離が縮まる予定は……?」
「これからもずぅっと大っ嫌い! わたしはそういう優しいフリした顔なんて見たくないっ……! そういう顔をしたやつは嫌いだ!」
「厳しいな……」
優しそうな人とは額面通りに受け取ってはいけない社交辞令の代表格である。
今までそうとしか褒められたことのない風見にはこれが堪えた。
それはもう、痛烈に。
それに何より、声に溢れる嫌いの度合いには迫るものがあったから余計にきた。
気に食わないとか、気に入らないとかそういうレベルではない。
おふざけを抜きにしてお前に憎しみを抱いている、とそういう毛色の声だ。
以前、グレンから聞いたがクイナは親に売られたそうだ。
もしかしたら親がしていたそういう顔とダブらせているのかもしれない。
「このチビスケはまーたやんちゃにして。クイナは優先的にここを割り振られてっけど担当したいヤツはいっぱいなんだぜ? そうするくらいなら今度から辞退しとけ」
格子窓から見えていた方の頭が動く。
この粗野な青年の声からするに――確か、ヒュドラの洞窟へと一緒に潜ったライの声だっただろうか。
彼は屈み、クイナに厳しめに言いつけているようだった。
「そ、そんなこと言ったって、しょ、しょうがない、もん……。副団長が、ここに行けって……」
「あの副団長のことだから前は喜んでたし、気ぃ利かせてくれてんだろ?」
「うなっ――。わたっ、わたしはそんなことしてないっ! 仕事だからやらなくちゃいけないだけ!」
言葉にならない声と一緒に地団駄が聞こえた。
恐らくは腕までぶんぶんと振って抗議しているのだろう。ガチャガチャと装備が揺れる音も聞こえていた。
「んじゃ、誰のせいでもないわな。今の態度は旦那に謝っとけ。仕事なら、いくらこの人相手でもダメだ」
「いや、俺は大丈夫だから気にしなくても――」
「うるさい、お前は死ねっ!」
「あだっ!」
格子の向こうから何かが飛んできて額を打った。
落ちて転がったものを見るに、それはボタンだったらしい。
言葉と合わせると嫌われ度がかなり高いのがよく判る一撃だ。
「だからこのチビスケ! お前、八つ当たりは――」
「知らない知らない知ったこっちゃないっ!」
この年頃では仕方ないが、相変わらずクイナは感情が振りきれやすいらしい。
ライの声を無理やりに遮るとどんと突き飛ばし、下の階へと走っていくのが見えた。
今まで見てきた隷属騎士とは違ってまともな少女らしい感性の彼女だが、これで今までよくやってこれたものだ。
きっと普段は気持ちを無理に押し殺していたのだろう。
けれどクイナが今言ったように風見の優しいフリの――中途半端な善意のせいでいつも通りができなかったのかもしれない。
風見は彼女が今まで我慢してきたものも心配だったが、今の彼女も気になった。
ただ、親とダブらせているだけにしては感情が強すぎる気がする。
「旦那、チビが申し訳ない」
ライはやれやれと肩を竦め、ため息をつく。
そんな彼には首を振り、気にしていないと伝えておいた。
「あれはただの八つ当たりだから気にしなくていいぜ。癇癪持ちなんだ」
「八つ当たり?」
「んー、まあ……なんだ。アイツ、ノーラと仲良かったから」
「……そうだったのか」
風見は得心いった。
それならクイナが怒るのも当然だ。風見はノーラを殺した犯人のようなものである。
事実はどうあれ、彼が原因なのは間違いない。
あのノーラのことだからクイナとは姉と妹のように接していたのだろう。いじけるクイナの頭をがしがしと撫でる姿が目に浮かぶ。
こんな隷属騎士のような組織の中では数少ない救いの一つだったはずだ。
それを思うと風見の胸もくっと締まって痛む。
「それなら恨まれて当然だな。なおさら謝られる必要なんてない」
「おいおい、それは違うぜ。ノーラが死んだことに旦那の責任はない。俺や副団長、団長達だって生き残ってる。あの時、生き残るチャンスは平等にあったはずなんだからそれを掴み取れなかったアイツが悪い。少なくとも理不尽はあそこにゃなかった」
「それでも、」
「それでも、だぜ? それがオレ達で、これが旦那だ。ノーラが死んだ今でも精一杯やってくれてんのは判ってる。これでもう十分だ」
むしろこれ以上だとむず痒くなると彼はおどけて笑った。
「アイツはほんのしばらく泣いたらぐずって帰ってくるから心配ねえよ。物語の聖人君子じゃあるまいし、気にしすぎだっての」
「いや、このくらい気にするのは普通だろ」
「ないない。人を気にかけるほど余裕があるヤツなんていないし、尽くす義理も普通はねえよ。それが普通だなんてどんな異世界なんだかなぁ。旦那の性格はそういうとこにいたから?」
「性格はいろいろだ。こっちにだってリズもクロエもいるんだから性格なんて違うもんだろ」
「……、」
千差万別と言ってみせたら急に返答がなくなった。
しかも空気の具合が少しばかり変わったことに風見は勘付く。
ライにはなにかしら引っかかる部分があったようだ。
「リズ団長はどうだかなぁ。なんか根本が違う気がすんだよ」
「それってどういうことだ?」
「ほら、オレらって奴隷だろ? 多かれ少なかれお涙頂戴の話ってのは持ってんだ。だから同類臭は感じるものだけど、リズ団長はどこか違う感じがするんだよ。違うって言ったら副団長も違う気はするけど」
「上に立つ人はカリスマがあるらしいからそういうことなんだろうさ」
うーんと腕を組んで考え込んでいるライに言ってみると、「そんなもんか」と納得したようだった。
彼は階段の方を向き、声を上げる。
「ほらそこで聞いてんだろ。いつまでも変な意地張ってないで前みたいに父親代わりに甘えればいいじゃねえか。そんくらいなら無礼じゃねえし笑って許してくれるさ」
「うっさい! そんなこと誰がするもんかっ」
実のところ、クイナはずっと階段の陰に隠れて話を聞いていたようだ。
どうやらライはそれを知りつつ言っていたらしい。
「クイナが父さまぁと言いつつ抱きついていたのはオレら全員が知ってるぜ?」
「……!」
クイナはぐぬぬと歯を食いしばって真っ赤になる。
よほど触れられたくない過去なのか歯も砕けんばかりの様子だった。
「もういいっ! 今すぐ副団長に言って別のとこ――」
走り出すような音が聞こえたと思った瞬間、声が途切れた。
そして代わりに階段から落ちたような音がやってくる。
風見とライはそれを聞くとたっぷり数秒間は固まっていた。
「……。クイナ、階段で滑ったのか……?」
「いつものことだから心配ねえよ、旦那」
こんなオチは周知のものらしい。
いかにもいつも通りという呆れの空気を醸された風見はクイナを不憫に思ってしまうのだった。
□
とりあえずクイナの無事は確認し、恥ずかしさ紛れの罵倒もいくらか浴び、研究道具を持ってきてほしいとの言づても終えてからしばらく経った。
そうして陽が落ち、夕食が運ばれた頃になってもリズはまだ降りてこなかった。
「まったく、どんだけ空を見ているんだか」
しょうがないと風見は息を吐くと彼女を迎えに上がった。
塔の外周に沿うらせん階段を抜けると屋上に出る。
遮蔽物がない高さなだけに吹き抜ける風は強く、秋の夜にしては身に染みる寒さだ。風見はうっと肩を抱いて縮こまる。
そんな場所でリズは壁に背を預けて座っていた。
眠っているわけでもなく、抜け殻のように空を見上げている。
意外にも彼女は仕事がないと暇を持て余してしまうタイプなのかもしれない。
寒くないのかと疑問に思ったが、肌を温めている様子もない。
亜人は人と違って耐寒性があるのだろうか。
「ご飯を持ってきてくれたんだけどどうする?」
「ん、一緒に食えという命令か?」
「いやいや、そんな命令はしないから」
「そう。ならいい。別に空腹でもないよ」
ちらと向けられた翡翠の瞳は興味を失ったらしくまた空に戻った。
空は茜色もとうに追いやられ、夜のとばりが覆っている。
一番星が煌めき、その後に続く無数の星々。それに三つの衛星――月っぽいものが見える異世界の空。
そういえばこちらに来て初めて夜を迎えた時だって見たのは地平までで空を見上げたのは初めてだった。
これは新たな発見だ。
こんなに綺麗な星空は田舎に行ってもそうそうお目にかかれない。
地球でなら人が全くいない大自然にでも行かなければ見れない空だろう。少なくとも日本ではもうなくなってしまった空だ。
「綺麗な空だな。星が数えきれない」
「うん、空くらいなら埋め尽くすさ」
「俺の世界じゃこうはいかなかったな。煙の塵で空がこの半分以下しか見えないんだよ」
「ほう、それは良い世界だね」
「はい? ゴミで空が汚れてるんだぞ。それのどこが良いんだよ」
大気汚染だの酸性雨だのとマイナス方向でしかないはずなのだが、リズはふふっと鼻で笑っていた。
こんなことも判らないのか? と小バカにした顔に少々腹が立つ。
「きっと人があまり死なない世界なんだろうね」
「あ……、」
「だから良い世界だ。少なくとも私はそう感じた」
死んだ命は天に昇る。そして、お星さまとなる。
小さい頃、誰しも聞いた覚えがある言葉ではないだろうか?
それはどこの世界でも言われるものだったらしい。
しみじみと語るリズの目に映る満点の星空には綺麗以外の意味があることに風見はようやく気付いた。
もしかしたら彼女はずっとここで誰かに黙祷を捧げていたのかもしれない。
だが命のやり取りが絶えないこの世界を、まだ平和に染まった目でしか見られない彼にはリズの心が見通せなかった。
気まぐれで、自由奔放で、物騒なリズ。
そんな印象で固めてしまうのはまだ早計なのかもしれない。
「……そうだな。多分昔の人が努力して、努力して、星を隠した世界だ。俺がいたトコはこっちよりずっと人死にが少なかったよ」
「そうか。なら、その世界のシンゴが何をできるか見ものだね」
「少なくとも、そこら辺の勇者や英雄よりは人を救ってみせるさ」
「ははっ、あの程度の力しかないのに?」
「できる」
くつくつとリズはけなして笑うのだが、風見は真面目な顔で見返した。
視線の圧力で声はすぐに止み、喉の奥に押し込められる。
代わりに興味の瞳が戻ってきた。
「できるさ。勇者も英雄も、暴力で何かを解決するしかない連中だろ? だったら俺はもっと凄いぞ。生かすことも殺すことも、絶対にそいつらを越える自信がある」
「……面白いね。言うじゃないか、シンゴ」
淀みない声にリズは何かを嗅ぎ取ったのか。
普段は真面目にしろと言っても背に力が入らない彼がこんな物言いをするのに興味を持っているようだ。
「もういろいろと重すぎるものをもらっちゃったからな。それに応えられるくらいには胸を張るし、成果だってあげてみせる。ハドリア教はそうしろって教えるもんなんだろ?」
「残念ながら私は無宗教者だ。よく判らない」
リズは肩を竦める。
いつもの様子とは違って控えめな受け答えだった。
「うー。にしても寒いな、ここ。俺は先に降りてるから気が向いたら来いよ?」
「気が向いたら、ね」
ふっと微笑むリズ。
今までに見ない彼女の透き通った表情に風見は一瞬ドキリとしたが、リズは気にもしないでまたぼうっと空を見上げ始めた。
彼女がもしあんな表情を自然に見せられる子だったら惚れていたかもしれない。
風見はしてやられた感を味わいながら珍しく心臓を持て余し、逃げるように階段を下りるのだった。




