塔に隔離されました
風見は地下道から出るなり、ひたすらに消毒と洗浄を受けた。
それはもう念入りに、である。
これでヒュドラの体液に潜むはずのグール虫に対してはできる限りのことをしたはずだった。
それから医者に診てもらったが特に異常は見えず、自分でも体調の変化は特に感じていなかった。
本来ならもうとっくにもだえ苦しんでいるはずらしい。
ヒュドラの血や毒が体内に入ると重い熱病を患ったような苦しみで、最終的にはグールのように暴れるか耐えきれずに死ぬ末路だと聞いた。
しかしながら風見は依然平熱であり、飛び跳ねる元気もある。
なので猛毒らしいヒュドラの血については医者も獣医も首を捻る結果となってしまった。
その後、風見は中央塔に隔離されてから自分の皮膚を擦り取ったり、血を取って顕微鏡で観察したりしたのだがやはり異常は見つけられない。
至って平常であり、ヨーゼフに見た原虫らしきものは一つも見えなかったし、自分の血液に関しても特に問題のない様子だった。
「おかしいな……?」
不思議に思ってグローブについていたヒュドラの血を生理食塩水で薄めて覗いてみたが、ここにもグール原虫は一つも見えなかった。
ヒュドラの血や毒からグールが生まれる――その情報は確かだと思ったのだが、若干違ったのかもしれない。
原虫や蠕虫など寄生虫は大体の場合、中間宿主・終宿主というものを持つ。
終宿主というのは最終的に寄生する相手だ。
中間宿主というのはその宿主に感染するまでに寄生する仮の宿主で、この時期に終宿主に感染できる状態まで成長する。
寄生虫は何も卵さえあれば誰にでも感染できるわけではない。
例えば中間宿主を一度経由して成長しなかったら終宿主には寄生できないものもたくさんいる。
尤も、それも種類によって微妙に違うのは注意点である。
ともかく、有名なアニサキスで例えるなら中間宿主がイカやサバなどで、終宿主はイルカやクジラだ。
イルカやクジラはアニサキスに寄生されたイカやサバを食べ、そのまま胃に寄生される。
その胃で成長しきったアニサキスは体内で産卵をする。
そうして卵は糞と一緒に海中へ放出される。
それがオキアミなどに食われ、オキアミをイカやサバが食い、またイルカやクジラ達が――と、そういうサイクルで循環する。
他の寄生虫も宿主は違えど、そういったサイクルをそれぞれ持っているのだ。
「……ヒュドラが終宿主で他の動物は中間宿主だと思ったんだけどな」
ヒュドラの糞や体液に混じった原虫の卵を小さな虫が食べ、それをネズミやコウモリが捕食し、さらに感染していく。
狂って何にでも襲いかかるようになったグールは最終的にヒュドラにも襲いかかるが、当然返り討ちに合ってまたエサにというサイクルだと思っていた。
もし本当にヒュドラの血で人がグールになるのならここにも原虫、もしくは卵が見つからなければおかしいはずなのだが――肝心のそれが見つからない。
もちろん、ほんの数滴程度の血液だからたまたま入っていなかった可能性はある。
それならそれでグール化の恐れがないので風見としては安心なのだが、どうにも腑に落ちない。
風見は眉をひそめた。
「うーん、ダメだ。さっぱり判らんな。そもそもヒュドラの血が猛毒になる理由って何なんだ?」
そこからして判らない風見は完全に煮詰まっていた。
聞いたところによるとヒュドラの血が入ると苦しみ、後にグール化するはずだった。
だとしたら普通はヒュドラの血には毒の成分が混ざっており、そこに原虫もいたと考える。
しかしそうなると風見自身が毒に冒されていないのが不思議なところだった。
神経毒なり、出血毒なり、体に作用するなら体調か血液に異常が見えるはずなのにそれも見当たらないのだ。
「だぁーっ、判らんっ!」
今は全くもってお手上げだった。
あの地下からはスライムやスケルトンなどいくらかのサンプルを瓶詰にして持ち帰ったが、それでも判るかどうか。
本気で調べるならせめて電子顕微鏡と、遠心分離機と、成分の分析機くらいはほしいところだ。
「研究者殺しだよなぁ、この世界は……」
けれど手元にあるのは相変わらず顕微鏡のみだ。
科学的に判別するための試薬も皆無である。用意できるのはアルコールやエーテルくらいしかない。
……つまり、八方ふさがりだった。
せめてグール化した時のために薬を作ろうとするくらいが今の最善策なのだろうが――
「……寄生虫への薬かぁ。ダメだ、レベルが高すぎて手に負えないな。せめて細菌が原因だったらまだ何とかなったのに……」
風見は大きなため息とともに項垂れる。
微生物が原因の病気に対してはペニシリンのような抗生物質を投与すれば全て解決――なんていうほど世界は甘くない。
実のところただのペニシリンで殺せるのは微生物の中でも細菌くらいで、しかもその内のグラム陽性細菌とグラム陰性細菌の一部ほどしかない。
簡単に言うと、これは万能薬には程遠い。
そもそもどんな微生物も殺せる薬は毒薬くらいだ。
そしてそれは大概、他の生物にとっても有害である。
そもそも優秀な薬とは”何にでも効くもの”ではない。“狙ったところにだけ作用してくれるもの”だ。
効き幅が広い薬はそれだけ副作用を持つ可能性がある。
なにせ、生物を殺すための薬なのだから。
微生物に対する薬はたくさんある。
抗菌剤、抗寄生虫薬、抗ウイルス剤などといって用途によってそれぞれ使い分けをしている。
例えば抗菌剤なら細菌の細胞膜に穴を開けて体を壊したり、細胞壁を作るのを邪魔したり、タンパク質の合成を邪魔したり、DNAやRNAの合成を邪魔したり、細菌が生きるのに必要な栄養素作りを邪魔したりして働く。
ペニシリンはこのうちの細胞壁合成を邪魔する薬だ。
フィラリアのような蠕虫という大きな寄生虫の薬なら神経を麻痺させて殺すものが多い。
原虫のような小さな寄生虫を殺すならいくらか細菌と似た薬が使われる。
抗ウイルス剤ならウイルスのDNAの侵入を邪魔したり、DNAやRNAの合成を邪魔したりする。
こういった中で人にはなく、微生物だけが持つ機能を邪魔して殺す薬は副作用が少なくて済むのだが、そんな都合のいい薬はそうそうない。
有名なペニシリンにも注意すべき副作用はしっかりと存在しているくらいだ。
それに実はアオカビに作らせただけの初期のペニシリンは効果が薄く、生産能力も弱かった。
そのペニシリンの中でも有効な成分を選り分け、生産能力をずっと高めるのに要した歳月は十年以上。
現代ではさらに色々と手を加えて改善したものが実用化されている。
材料が判っているペニシリンですらこれだ。
風見が今まで使ってきた寄生虫用の薬は科学的に合成されたものばかりだったので目星も立たない。
薬は科学的に合成したり、品種改良したり、それができても安全性を証明したりと途方もない時間を対価にしたりしないと作れないのだ。
今から作ろうとしても風見自身や他の人の発症には到底間に合わない。
「……もう少し落ち着いてできることを考えるか」
とりあえず今はクールダウンして別の方法を考えようと彼はため息を吐くのだった。
□
「結論、できることはないか」
塔の屋上へと上がり、しばし考え込んだ風見の答えはそれだった。
薬、血清などと一応はいろいろと考えてみたがどれも時間がネックで不採用だ。
グール化に対してはそれらしい兆候があったら感染場所を切断するくらいしか今は方法がなさそうだった。
腕などから感染したのならまだいいが、風見の場合は何かがあったとしたら額からとなってしまう。
これでは流石に手の施しようもない。
なのでできることといえばクロエと同じように何もないようにと祈るくらいだった。
「俺、どうすればいいかな……」
やるべきことが見当たらなかった。
ひゅうと吹き抜けた風だけが話し相手であり、ここにはクロエもいない。リズもいない。一人っきりだ。
こうしてやることもなく、一人でいるとノーラのことを思い出して気が沈んでしまうだけだった。
「何かはしないといけないか」
彼女を思うとなおさら何もしないわけにはいかない。
グール化の恐れがあるからと隔離され、今後十日間はこの塔で過ごすこととなっている。
例え一人きりでもそれを有効活用するべきだ。
当初はクロエが、
「いやですっ。例えグール化しようと離れたくありません! 風見様に何かあるなら私も同じことを望みます。私をお傍から離さないでくださいっ、お願いします!」
と、涙ながらに訴えてきて大変だったのだが、そこはぴしりと「駄目」の一言を言いつけておいた。
防疫の基本は感染源、感染経路、保因者の三つへの対策だ。
下手なことをすると感染を広げかねないと職業柄で熟知していた風見は厳格に対処した。
相手がクロエだろうと例外はなしである。
「グールは何がどうして悪いのか。どうやって広まるのか。それを広めて理解してもらうのも重要なことだ。それを一番上手くやれるのはクロエがいるハドリアの教会だろ? クロエにはそっちを任せたい」
理解すればそれぞれが考えられるから変な噂や誤情報は立たない。
グールは危険なものなのでしっかりとした理解が必要だ。
病気に対する偏見や差別はこういうところから生まれてしまうので芽は摘み取っておくべきである。
「…………はい、」
それを言い含めるとクロエは真実、涙を飲んで引き下がった。
そういうわけでここには誰も入ってこない。
十日間は一人だし、持ち込んだものも私物くらいなので今は何かしらの研究もできない。
時間を有効活用するのならあとで色々と持ってきてもらう必要があるだろう。
「グールの研究はひとまず置いといて、門番にお願いでもしに行くかな」
時間を無為にしないためにも彼は早速向かった。
「おお。猊下殿、ちょうどいいところに」
すると待ち構えていたのはグレンだった。
どういうわけなのか彼は扉も開けて中に入ってきている。
その傍らには頭を押さえたリズが立っており、
「なにゆえの大惨事だよっ!?」
血の滲む包帯を巻いた様子が痛々しく、風見は駆け寄った。
が、すぐに触れない方がいいと思い出して立ち止まる。
「簡単に言うと責任問題で八つ当たりされたということですな」
「……ドニか」
人のことを悪く言うのは好まないが、彼が良い人間から程遠いのは風見もよく判っていた。
村狩り云々からして聞こえてくる悪評は絶えない。
彼はセルゲイがどうのこうのとは言うが結局は自分も典型的な悪代官だ。
この領地を復興するならまずはそこから叩かなければいけないのではと思えてしまう。
そして、八つ当たりされたリズがどうしてここに来なければならなかったのか。
――風見にはすぐに粗方の察しがついた。
要するに、ここは駆け込み寺なのだ。
「……で、俺はどうすればいい? ドニを引っ捕まえてお灸を据えてほしいって言うなら努力はするぞ」
「そこまではやらんでいいのです。あれでも領主の仕事をしてもらわねばなりませんし、いつものことです。猊下殿は団長殿をずっと匿ってくれませんか?」
「おいおい、俺は一応隔離されてる身だぞ? 一緒にいるとまずいって」
「いえ、むしろここにしか安全がない。出れば癇癪を受けて刎頚にされてしまいます。団長殿の命はもう猊下殿が握っとるのですよ。だから、どうか」
「それってつまり、俺に何かがあったらリズも道連れってことか?」
「そうなります」
リズはまだ十代の少女だというのにその命が自分にかかっているなんて予想外の重荷だった。
だが断れるわけがない。
「判った」と重く受け止めるとグレンは安堵した様子で下がっていった。
ぱたんとドアが閉まるのを見送り、風見は振り返る。
リズは手持ち無沙汰そうに立ち尽くしていた。
「シンゴ、私は何をすればいい?」
「何って言われてもな。俺もここでは何もやることがなくて困ってたところなんだ。グール化の経過が判るまで十日間は適当に過ごすしかないな。とりあえず空でも見ていたらどうだ? 景色はいいみたいだぞ」
「……そうか、そう言うならそうしよう。用があったら呼べばいい」
「あ、おい」
こんな状況だというのにリズはいつも通りだった。
怪我をおしてふらふらと歩き、階段の先へと消えてしまう。
怪我は大丈夫なのかと聞きそびれてしまった。
風見はのばした手が空を切るとまあいいかと放っておくことにした。歩ける元気があるならひとまず心配ないだろう。
リズは奔放なので自由にさせておくのが一番。
そう思った彼は門番に声をかけるのだった。




