普通はこうしてみたいと思うんです
目が合った――と言えるのだろうか。
ヒュドラにはもう眼球が存在しないのは確かなのだが、こちらに気付いたのは間違いないらしい。
しかし、それだけだ。何もしてこない。
体が腐り、凶暴化して襲いかかってくるのが当然のグール化とはどこか違う状態に見える。
「なあ、あれってもしかしてまだ”生きて”るのか……?」
「ふうむ、息はしているようだし生きているんじゃないかな? それにグールのような腐臭もしない」
「……。それにしてはグール以上に死体みたいだ」
このヒュドラは腐臭が漂うグール化をしていた方がまだ自然だったかもしれない。
鱗だけは今も綺麗ではあったが蛇特有の流線型は崩れ、体は雨上りの泥道のように凹凸ができていた。
生きた鼓動を僅かに見せるのも一つの頭のみ。
あとの頭は全て水中に没しており、水死体のように膨れている。
あちらは完全に死んだ部分のようだ。一部は肉が崩れて骨も見えている。
「目もないし、蛇らしく出せる舌も残ってない。かといって今までのグールみたいに内臓も腐ったようにも見えないのに体はぼこぼこだ。栄養が取れないから自己消化して最低限を維持してる……とでも取ればいいのかな。こんな状態の生物なんて見たことないけど、もう体を維持するのも限界って感じに見える」
生き物は餓えた時、オートファジーといって自分で自分を消化して最低限の栄養を維持することがある。
これが悪く作用すると筋ジストロフィーのような筋肉の疾患を起こすことがあるのだが、もしかしたら体表の異常はそれが原因なのかもしれない。
目や舌の異常は衰弱と免疫力の低下からだろうか。
「で、でもヒュドラ討伐は百年以上前の話ですよ? そのヒュドラが食料もなしに生きていられるでしょうか?」
「蛇みたいなハ虫類は変温動物って言って体温調節はしないんだ。人や犬とかは体温を上げたり下げたり、体温を一定に保とうとするんだけど、その調節のために食べたご飯の七・八割くらいは使っちゃう。だからそれをしない蛇は絶食に耐性があるし、それに冬眠もできる。これだけ大きいと蓄えも大きかったんだろ。まして、ここには定期的に人が潜ったんだろうからな」
長い眠りについていた竜が目覚める話が多いように竜は冬眠などの優れた省エネ手段をいくつか持っているのかもしれない。
そんな状態で待機し、たまに訪れる盗掘者を捉えるだけで栄養をまかなっていたのだろう。
ただし伝説が劣化してくるにつれて盗掘者も減り、“エサ”が減って次第に弱った末でこの有様と見るのが一番自然そうだった。
「ヒュドラはどうして外へなかったのでしょうか?」
「ドニの先祖は洞窟に油を流し込んで火攻めにしたって話だったよな。多分それが原因だったんだと思う」
ヒュドラはそれほど火に強いわけではない。
だから昔話の通り洞窟に油を流し込まれた時には退路がなく、火から逃げるために奥へ逃げるしかなかっただろう。
だが火は油のせいで地下の至るところを燃やした。
如何に強固な鱗を持っていてもヒュドラは生物だ。
煙に含まれる一酸化炭素などの有毒ガスにはなす術もなかった。低酸素で脳をやられて体が不自由になる人もいるようにヒュドラもそういうダメージを負った可能性はある。
動けなくなってしまえばさっきの話の通りだ。まともにエサも取れなかっただろう。
数多の伝説で勇者と壮絶な死闘を繰り広げる竜種の末路に比べればさぞ口惜しいに違いない。
「風見様、どういたしましょうか?」
「俺に聞くよりリズやグレンの方が詳しいんじゃないか?」
「まさか。竜種なんてそんじょそこらの兵が見るものか。知っていることなんてシンゴとそう変わらんよ」
「そっか。じゃあ、ヒュドラには毒のブレスもあるし、直接何かするとグール化の危険性があるよな。もしもってことがあるし、近付かないで処理したい」
こういう時、ボス級のモンスターと遭遇したからって戦闘に入るのはRPGくらいだ。
しかし現実ではわざわざ正面切って戦う必要なんてない。
むしろいかに上手くハメ、いかに少ない労力で敵を葬るかが要点になる。少なくとも風見はそう考えた。
こういう洞窟の最奥や塔のてっぺんにボスがいるパターンを見ると風見はつい思ってしまうのだが、取るべき手段は一つではないだろうか?
すなわち、
「爆破ってできないかな?」
「は、はい?」
面倒な場所に鎮座しているボスなんて剣を振るよりも瓦礫もろとも埋めてしまう方が良い気がしたのだが、クロエにその発想はなかったらしい。
しかし、建物の爆破解体はこう批評されている。
『安価で容易に、また人件費をかけずに短期間で解体できる』、と。
実に良い利点だと思う。
ヒュドラは半端なく強いらしい。それに遠距離攻撃も怖い。
反撃されて触れてしまうとグール化も懸念される。暴れられると崩落の恐れもある。
であれば――だ。
先に爆破して生き埋めにしたなら『少ない労力で容易に、また人手もかからずに短時間で撃破できる』んじゃなかろうかというのが風見の考えだった。
が、クロエに説明してみるときょとんとした顔は困惑の色に染まっていった。
「爆破から生き埋めコースが一番無難だよなーって思ったんだけどやっぱ無理かな」
「む、無理と言いますか、そのぅ……」
竜は剣と魔法で戦うのが流儀なのか、状況的に無理なのか判らないが、とにかくクロエは首を振っている。
それは嫌ですと頑なに首を振っている。
反面、グレンはなるほどと納得した様子で逡巡するとリズに目をやった。
「団長殿なら落盤を起こす程度なら可能では?」
「簡単に言ってくれるね。あそこまで距離があるし、範囲が広いんだ。起こそうと思ったらかなりの労力がいるよ」
「できないのか?」
嫌そうに息を吐くリズだったが風見が言うと静かに見つめ返してくる。
彼女の表情には色がなくなった。
嫌とも言わないし、良いとも言わない。ただ見つめてくるだけだ。
そして、ほんのしばらく無言だった彼女はサーベルの柄に手をかけた。
「まあ、シンゴがそうしろと命令するのなら従うさ。グレン、布」
何をする気なのかと思う暇もない。
彼女は自分の左袖をめくると抜いた刃でリストカットのように切った。
「うわっ、お前何やってんだよ!?」
「ん、何ってシンゴがやれと言ったんだろう?」
「言ってない、言ってない。俺はできるかどうか確認しただけだ!」
「できるとも。この通り出血大サービスでお送りする」
リズの反応はなんだ違ったのかというくらいで傷が痛いとかいう様子はちっともなかった。
冗談を言う余裕まである。
けれど風見は笑えない。血がぽたぽたと流れる様を前に笑えるわけがなかった。
彼は傷を診ようと手を出すのだが、リズには余計な世話だというように遠ざけられるのみなので仕方なく黙ることにした。
グレンから布切れを受け取ったリズはそれで溢れる血を受け止める。
それは止血しようと押さえるのではなく、わざと出した血を布に染み込ませているようだった。
布一面が赤く湿った頃になると彼女はクロエに腕を差し出す。
「クロエ、治療を頼むよ」
「あ……は、はいっ!」
クロエも突然の自傷行為に行動を忘れていたのだが、慌てて応じる。
彼女はいつかのように薬液を傷口にかけると律法を唱えて傷を癒した。
ヨーゼフに噛まれた人の抉れた傷とは違い、裂傷だと損傷面積が少ないからか治癒はあっという間で痕も残らなかった。
「さてシンゴ、今度はお前の出番だ。この布切れをヒュドラ直上の天井に向かって射ってほしい」
「……これって前に聞いた血は律法のブースターになるってやつか?」
「そう。遠隔で発動したり、大規模な律法を扱うためには技能者の血を触媒にする必要がある」
それならそうと事前に言ってくれと顔を曇らせる風見をよそに、リズは布を矢に括りつけて渡してきた。
「……今度からはやる前に教えてくれよ? 俺だってまだこっちのことを知りきったわけじゃないんだから」
「そうだね。言われたからには気を付けるよ」
……もうやられてしまったからには仕方がない。
風見は矢を受け取って距離を見定める。
洞窟の壁は岩と土が混ざったものなのでちゃんと狙えば刺さるはずだ。
きりきりと弦を引き伸ばし、押し手の震えも制御できた瞬間に弦から指をそっと離す。
この時、無駄な反動が体に返らないのが上手く射られた証拠だ。ぱん、と弦が返る音もほぼ残らない。
弓道で言うところの残身。アーチェリーで言うとフォロースルーのまま、矢の行方を見据える。
布の重さはあったが標的は距離にしてたかだか三十メートルほど。これなら狙ったリンゴも外さない。
ガスッと抜けた音を立て、矢じりは土に突き刺さった。
それを認めるなりすかさずリズの言霊が走る。
「――Eu escrevo isto Broto Innumerably」
無数に撃て。それがリズの命令だ。
応じるように矢を中心にしてぱっと茶の幻光が花開き、宙に立体的な文様を刻み込む。
直後、びしりと音を立てた天井からボーリング玉ほどの土の塊が叩き落とされ、次々と射出されていく。
地底湖はまるで艦砲射撃を受けるように水しぶきを上げ、天井は急に大量の土砂が失われたためので落盤にまで発展していた。
「お、おい、リズ……? これ、俺達は大丈夫なのか……?」
「心配ないさ、それくらいは計算している。ま、なんとなくだがね」
「だと思ったよ!」
土と岩による大瀑布を目の前に絶叫する。
このリズが物理演算やらをわざわざするはずがない。というか計算している様が想像できない。
がっくんがっくと揺さぶって抗議をしてみたが、彼女の薄ら笑いが溶けるはずもなかった。
そんな中、「まあまあ。音的にここはまだ安全ですから」とノーラがフォローしてくる。
どうやら勘だけでなくそういう安全要素もあったらしい。
どや? と、また小憎らしく微笑んでくれるリズにはメイドさん直伝のお怒りスマイルで返しておいた。
と、そうこうしているうちに重く響く音が静まる。
地底湖の窪みはすっかりなくなって天井がすり鉢状に広がっていた。
天井にも生えていたコケも落ちてしまい、視野が一層暗くなっている。
「リズ団長、もう崩れそうな気配はないですね。他の異音も感じられないです」
ウェアバニーであるノーラの耳は誰よりも鋭い。
「そうか」と旨を受け取ったリズは風見に目をやる。
「だそうだよ。シンゴ、これからどうする? トドメもさせただろうし、またヒュドラも切って開くか?」
「相手は竜種だろ? 油断はしたくないからこのまま放置しよう。とりあえずここから先に出入り口があるか確認してあったらそっちも封鎖するくらいでいいんじゃないか?」
「そうですな。とりあえず今日はその辺りで切り上げて後処理はまたワシらがやっておくとしておきましょう」
グレンとノーラ、それにもう一人の騎士が先に歩いて地面に異常がないか確かめている。
幸い土砂崩れ後の地面と違って土は固く、沈み込むことはない。
むしろ大きな塊が無数に落ちてきた感じなので大岩が転がる川の上流を歩いている感じだった。
と、その時。
前衛の三人について行こうといくらか足を進めたところでリズは急に横手を上げて行く手を阻んだ。
「どうした?」
「あんまり騒いだからいらん歓迎がやってきたみたいだ」
「歓迎?」
わけが判らずに首を捻った時、剣を抜いた音した。
それはリズやグレンだけではない。前方の、地底湖があった場所からもである。
たくさん切り立つ岩のモニュメントの間からすっと人影が這い出てきた。しかも一つや二つではなく、無数である。
凝視するとすぐに判った。それらは、どれもこれもが白骨化した――
「スケルトンってやつか?」
「ご明察。ヒュドラ退治の強者だけじゃなく盗みに入った輩もお仲間になったらしいね。いやはや、数えるのも億劫になる多さだよ」
ぞろぞろと出てくる数は優に二十を超える。
スケルトン達は生前の衣装と装備のままらしく白骨体という以外ではバラバラな見かけをしていた。
得物も剣から槍や弓に至るまでいろいろである。
落盤のせいで五体満足なのは少ないが、それでも立って歩けるらしい。
風見にはそれが見えない何かに操られるマリオネットのようにも見えた。




