正体を見極めてみようと思う 前編
今回の話は解剖回です。
番外編のお肉と獣医さんのお仕事以上にグロい可能性があるので苦手な方は回避してください。
何が起こったかは希望があれば次回の後編の前書きにあらすじで書こうかと思います。
「猊下殿、猊下殿。起きてください。もう陽が昇りましたよ」
「んあ……? う、ああ。もうそんな時間か。悪いな、グレン」
「気にせんでください。団長殿に使われるよりずっと楽な仕事でした。ワシも団長殿や領主ではなく労わってくれる人の下に就きたいもんですよ」
がははと笑うのはグレンだ。
短く刈り上げた頭に無精ヒゲ。軽装な胸当てや腕当てなどをしているが、さらに常人の二倍はあろう筋肉の鎧を着込んでいるために重装兵かと見紛うほどである。
彼なら朝も早くからローマで剣闘士をやってきたと言っても違和感はないだろう。
それでもグレンは副団長でリズの部下というのが謎である。
普通の目で見るなら彼こそ団長に相応しかろうが、これも老若男女を問わない団員を持つ隷属騎士団の特色らしい。
傍でリンゴをかじっていたリズに一睨みされると彼は娘に睨まれたお父さんのように大人しく引き下がっていった。
「さて、始めるか……」
ふああと大きなあくびを一発。
風見らは結局、肌寒いながらもグール疑いの人と、それを囲んでいた野次馬と共に広場で夜を明かした。
それもこれも、彼らだけを残して帰ったら不満が噴出するだろうという配慮からだ。事件解決までは関係者を誰一人逃がさないということで今に至る。
だがリズだけには途中でこっそりと抜けてもらい、隷属騎士の方に応援を頼んでもらっていた。
用意するもの、準備することなどにいくらか人手が必要だったからだ。
「いち、に、さん……十人か。また随分と大所帯を連れてきたんだな、リズ?」
「あっちに残してきても正規騎士や領主にこき使われるだけだからね。つまらないことを押し付けられるくらいならこっちで適度に休ませた方がマシだろうさ。それにシンゴは面白いものを見せてくれるんだろう?」
城には常勤の騎士がいくらかいるが、大部分は農夫などを兼ねている者が多い。専業はほんの一部だ。
騎士本来の仕事は戦争なだけに平常時の城に勤務されてもすることがないので戦争の時だけ一定期間雇用されるのが普通だった。
それに身辺警護などは信用に足るものでないと任せられない。
その点、隷属騎士は呪い的なもので命を縛っているので反乱の心配もなく、日夜酷使されている。
「ハードル高いなぁ。そりゃあ見たことないものは見せられるだろうけど、俺が見せられるものなんて小さなことだぞ? 具体的に言うとマイクロ単位のこと」
「よく判らないが期待してるよ。なあ、グレン?」
「はっはっは、そうですなぁ。お手並み拝見といきましょう」
そう言いつつグレンは二つのケースを風見の前に置く。
解剖セットと顕微鏡のケースだ。
グール化の真相を究明するため、風見はまずこれを持ってきてくれと頼んでいた。
「風見様はこれで一体何を?」
遠くの方で朝のお祈りを終えたクロエは不思議そうに風見を見つめる。
彼がはめるゴム手袋などは身の回りにはないようだ。
けれどどこかびくびくしているし、大方の予想はしているのだろう。
風見がこれから行うのはまさにクロエが想像した通り――エグイことである。
凶悪に反った彼の解剖刀はギラリと陽光を反射していた。
「グールというか、このヨーゼフさんの検死解剖かな。まずは開腹して、各所の腐敗具合も確かめて、筋肉の状態も見て、あとは皆が潰してしまった頭から脳の損傷具合と無事な部分を見てみたり」
「え、そんな……。いくらグール化したといっても人ですよ!? それに風見様も触れてしまったら移るかも知れません!」
「大丈夫。グールは空気感染じゃなくて接触感染みたいだからゴム手袋で血を防ぐだけで十分だ。これが経口感染しかしないやつなら手袋だっていらないかもしれない」
クロエは酷いショックを覚えているようだがこればかりは仕方がない。
彼女のことはリズに任せておいた。
周囲は隷属騎士が固めているので昨日の野次馬が逃げることも他の人間が入ることもないし、グール化の疑いがかけられている三人はグレンが見張っていた。
状況は万全とみた風見はさてと息を吐き、検体と向き合う。
「まっさか人生初の人体解剖を異世界で行うとは思いもしなかったなぁ」
風見は最後にもう一度手袋の具合を整え、穴がないのを確認した。
桶にためた水に手を通し、染みてこないのも入念にチェックする。
ちなみに人間の解剖は法律で厳しく制限されたもので、普通は行ってはいけない。
例えば保健所長の許可を得たり、厚生大臣に認定してもらったり、医学や歯学に関する大学の解剖学・病理学や法医学の教授・助教授、医学部学生などは教授・助教授のもとで解剖できるが風見の場合は完全にアウトである。
元の世界であれば死体損壊罪で捕まっていたところだ。
「まずは開腹。身体の正中線を切って開く」
そんなことを言いながら実行すると人は二通りの反応をする。
ほうと興味を持ってみるか、目を背けるかだ。
リズやグレンを始めとする隷属騎士はいくらか耐性があるのか前者だったし、クロエや野次馬の一部は後者だった。
風見は腹の肉を掴み、皮膚をピンと張らせるとナイフで縦に切る。
これが動物だと毛に阻まれてかなり大変なのだ。意外とハサミで切る方がやりやすい場合も多い。
皮が裂けるとまず出るのは表面の筋肉だ。それを切ると白っぽい腹膜に当たり、それを開くと初めて内臓が見える。
あとはナイフの刃を逆にし、内から外へ切ることによって内臓を傷付けずに腹を大きく開けるのだ。
鳩尾からへその下まで開けば肝臓、腸などが主に見えた。
だが、
「うわ、酷く傷んでるな。死んでから何日も経っているみたいだ」
内臓を開けたわけではないのにむわっと湿り気を含んだ酷い臭いがした。
基本的に草食獣はそれほど臭くないのだが、肉食や雑食動物は鼻に突き刺さる臭いなのである。
この死体の場合、胃は何かが入ってパンパンだし、腸はガスがたまって全体的に膨らんでいる。叩いてみれば音が風船を叩くのに似ていた。
恐らくは腐敗して溜まったガスだろう。
風見は絶対に傷つけずに処理しようと心に決めた。
こうやって解剖をする時は血とは別の臭いばかりを感じる。
というか、血の臭いなんて他の臭いに簡単に負けてほぼ感じない。
草食獣の臭いなら生センマイが焼ける臭いを十倍にしたもの、肉食獣などの臭いなら獣臭いと噂の生肉を焼く時の臭いを十倍にしたものとでも考えればいい。
ただ、胃や腸を開けると消化物がもっと別のキツイ臭いを発するのはどちらも同じ。
こういった臭いは死んでから時間が経つほど酷くなる。
それこそ服や髪に染み付いて離れなくなるほど強い臭いだ。
「で、見たいものは見つかったのかな?」
リズは涼しい顔で問いかけてくる。青い顔をして遠くの方へ逃げてしまったクロエとは正反対だ。
風見は「いや、これは違うな」と言って早々に腹を閉じてしまう。
おかしい点といえば脾臓が肥大化していないことだけだろうか。
通常、感染症では抗体を成熟させる機能を持つ脾臓は肥大化するのが普通だ。例えば扁桃腺が腫れたとか、リンパが腫れたとか病気の時に言うのと同じ変化である。
そこには目を引かれたが、あとは死後変化のようなものしか見えない。
次に口を開けさせて中を見たがこちらも腐敗が激しいように見えた。
どうやら口から内臓にかけての粘膜系が主に腐敗してしまっているらしい。
「リズ、ちょっと顕微鏡からスライドガラスを一枚取ってくれ。小さな箱に何枚も入ってるからすぐに判ると思う」
「ふむ、これだね。随分と上質なガラス板だ」
「俺の世界じゃ大量生産ものだよ。銀貨一枚で四百枚くらい買えるんじゃないか?」
風見は百枚入りで2500円だったなぁと思い返しながらナイフを水で洗う。
そして差し出されたスライドガラスにナイフですくった口腔内の粘膜や唾液をつけ、カバーガラスもかけてもらった。
リズはいつも白手袋をしているので直接触れてしまうこともないから安心である。
「次は筋肉だな。ちゃちゃっと終わらそうか」
同様にナイフをきれいに洗い、まずは腕からだ。
「なんと……血は出ないのですか?」
「大きな血管を避けたら血なんてほぼ出ないんだよ。それに主要な血管以外はもうゲル状に固まっているし」
裂いて出てきた筋肉は本当に房のように分かれて見えたのでグレンも感心したらしい。半透明な筋膜も切り取ってやれば余計に綺麗な筋の走向が見えた。
しかもこの筋肉は内臓などの粘膜系とは違って随分と綺麗な状態だった。
死後硬直しているわけでもなく、まだ死んで間もない状態のようにぴくりぴくりと数ミリ程度だが小さな反応を見せるくらいだ。
……今は死後十二時間は経っているだろうか。
普通ではありえない動きである。
やはり元の世界では通じない何かもここにはあるらしい。
風見はこの結果を認めると筋肉を刃でこすり、少しだけ採材してスライドガラスに乗せた。
あとは他の四肢も確かめ、同様だったことを確認すると振り返る。
「これから頭を開くから気分が悪い人は目と耳を塞いで後ろを向いていてください。非常に生々しくグロい感じだから」
「そ、そんなことまでですかっ……!?」
のこぎりを片手に言ってみると騎士団の人間を含むほとんどの人間が青い顔をして目を背ける。
クロエに至ってはよほど恐ろしいのか、しゃがんで頭を抱えていた。
生き残っているのはリズやグレン、あとは少数の野次馬くらいだが流石に全員がごくりと息を飲んで緊張していた。
彼らの目には平然とのこぎりを持つ風見が悪魔のように見えたに違いない。
いつの時代でも死んだ人間は丁重に扱うものだ。
宗教などの背景によっては生前からも手を加えるなんて言語道断だとするものだってある。
それなのに風見はためらいのない顔で……しかも時折、何かを発見した悪魔のようにぱっちりと目を開いたり、納得したような表情を浮かべたりするのだ。人々の慄きは想像を絶するものだっただろう。
彼個人としては身体構造的に自分とほぼ変わらないことが発見できて感心していただけとは誰も知らない。
「よし、始めるぞ」
こきこきと首をならすと風見は検体の頭を掴む。
やめてくれ! と叫べる人間なんてもう一人もおらず、震えながら固唾を飲んで見守ることしかできなかった。
脳を出そうと思ったら特別な技術はほぼいらない。
必要なことは簡単に言うと脳を傷付けず、かぽっと外せるようにいろんな角度からのこぎりで切って頭蓋骨をどけるのみである。
この時注意するのは骨と一緒に脳を切らないことくらいだ。
けれど誰かが農具か何かで頭を強打し、挫傷させてしまったので前頭葉の辺りが陥没していたし、首の骨も折れていた。これではゾンビやグールでもやられてしまう。
ごりごりとのこぎりで頭蓋骨を切ることほんの五分程度。
上から見て脳の全容が見えるくらいまで骨を取り除くと風見は脳を後ろに倒し、視神経などを切って除くと綺麗に外してしまった。
出てきたのはSFもので培養液に浮いているようなあの姿である。
「リズ、この脳のどこがおかしいか判るか?」
「さっぱりだね。殺すならこんな風にしないし、見たのも初めてだよ」
飛び散る脳漿くらいなら見たことはあるとリズは補足し、グレンも頷いていたが他の若い騎士達はぶんぶんと首を横に振って否定していた。
この二人を基準に考えるのは間違っているようだ。
「じゃあ、簡単に説明しよう。死ぬと七個くらい変化が起こる。1、冷たくなる。2、粘膜などが乾燥する。3、たまった血が黒くなって死斑が浮く。4、血管の血が固まり始める。5、死後硬直する。6、胃液みたいな酵素で組織が自己消化されていく。7、腐る。確か順番にそんなとこなんだけど筋肉でもおかしいことがあったよな?」
「ふむ。少なくとも硬直はしてなかったね。だが、腐敗していた」
顎を揉みながら考えるリズに「そうだな」と相槌を打つ。
「そこがちょっとおかしいけど今は置いておこう。とりあえず、グールにはほんの多少は理性がある。同じように歩く死体みたいなゾンビと言い分けているのは微妙なとこだったかもしれないけど、俺から見れば半分死んでいるのがグール、完全に死んでいるのがゾンビって感じだな。多分神経と骨格筋だけを生かす妙な何かに感染するのがグール化なんだと思う」
風見そのままナイフを手に大脳を差して示す。
「この大きな部分を大脳って言うんだけど表面は新皮質って言って深い物事を考えるのに使う部分だ。そこが炎症を起こしていたり、色が悪くなっているな。それに比べて辺縁系って言って人間の基本的な感情を司る部分は綺麗なんだよ。あとは小脳とかも綺麗に残ってる」
脳をひっくり返したりしながらおさらいや確認程度にやってみせたつもりだったのだが気付くと全員が表情を固めたままだった。
どうやら言葉が通じていないらしい。
そういえばここは中世の西洋と同じような状態だった。
ということは医者でも解剖学をほぼ知らないだろうし一般市民に至っては内臓があるということは知っていても『大脳? なにそれ』という状態かもしれない。
というかまさにそれだ。
リズは説明に飽き出して空を飛ぶ鳥に目を寄せ始めていた。
こんな状態ではどこにどんな機能があって――と講釈を垂れるのは無駄に違いない。
とりあえず風見は頭の中で判った事を確認する。
1、グールはやはり何かが感染して起こる。それは脳の炎症から推定できる。
2、脳の寄生部位から言って、やはり理性を司る部分や神経伝達物質の放出量に異常をきたすものらしい。
3、死後十二時間ほどしかたっていないのに口から内臓は腐敗し始めていた。これは前から腐り始めていたのかもしれない。
と、リズにこんな説明をしても理解はしてくれないだろう。
観念した風見は「じゃあ、こっちだな」とゴム手袋を外して顕微鏡を手にする。
今度は何をしているのかと人々の目は困惑気味だ。
彼が始めたこと。それは今までいくらかの組織を採集したスライドガラスの確認だった。




