そろそろお出かけの頃合いらしいです
「えーと。つまりこの領地と接している東の隣国とはお互いに資源が欲しくて争ってるんだな?」
「そうですね。私達がいる帝国は土が豊かで作物は良く育つ方です。対して東の隣国は土地が貧しいですが鉄などの鉱物資源が豊富です。お互いに足りない部分を相手が持っているので他国侵略の足掛かりにはまずここからということで争っています」
「ほうほう、なるほどなぁ」
地図を前に風見は頷く。
この帝国領は新期造山帯の山脈が縦断しており、それが北に向かって段々と西へ弧を描いて北の大国との国境を作っている。
東の国はといえば古期造山帯や安定陸塊が国土の多くを占めるようで石炭や鉄が多く出土するらしい。
こちらはまさに地理の教科書通りの資源状況だ。
と、ここまで伝え終えるとクロエは羊皮紙のメモ書きを閉じた。
「この周囲のことも一通り終わりましたし、今日はこの辺りにしておきましょうか」
「そうしよう。流石に疲れた……」
風見はテーブルに突っ伏した。
毎朝のことだが夜明け前にクロエが天使の顔でモーニングコールをしてくれてから昼が天高く登るまではノンストップの授業である。
小中高は四十五分授業、大学は九十分授業と過ごしてきて二十六歳を迎えたら九時間の苦行。
……これは辛いどころの話ではない。生死をかけた問題だった。
夜の勉強が終わって目を閉じたと思ったら朝が始まっていた時、風見はこのままだと身がもたないと確信した。
だから今朝は、
「クロエー……、一緒に寝よう」
前に偉そうなことを言った体裁もあったものではないが、起こしにきたクロエを布団に引き込んで睡眠時間を稼ごうと抵抗してみた。
が、結果は「駄目です」ときっぱり突っぱねられた。
あんなに乙女になっていたのに公私を混同しない辺りは素晴らしい教師をしている。
神官よりもそちらが向いているのではと思ったくらいだ。
さて、本日の授業はこちらの言語で地理や常識を教えてもらう感じであった。
ちなみに英語でいう分詞構文など参考書レベルはすでに終わってしまったのでリスニングとスピーキングの繰り返しが現在の授業風景となっている。
人は一週間と少しでここまで成長できるものらしい。
「午後は城下街へ出てみませんか?」
「え、街に出られるのか?」
「そうした方がいいと思います。多くの人と話す方が上達の近道ですし、読み書きのみでは判ることも少ないでしょうから」
そうか、そのための過酷な準備だったのかと考えることにした風見は頷く。通常運航であの鬼畜授業とは思いたくなかった。
「私はドニ様に伝えてくるのでリズにお召し替えを手伝ってもらってください」
「いやいや、着替えなら一人でできるって。むしろ手伝われると恥ずかしい」
「街中では目立たないように騎士の格好をしていただこうかと思ったのですが、大丈夫でしょうか?」
「あー。それは微妙に判らないかもな」
ノックと一緒に入ってきたリズは皮の胸当てと男物の服を抱え、その隣にいるクイナは短めの剣を持っていた。
ただの服はともかく胸当てや剣の装着には若干の不安が残る。
風見は少々迷った末にリズの助言を得ながら着替えることにした。
「では、お願いしますね」
が、リズはクロエを見送った途端に「ほら、適当に着てしまえ」と着替えを放ってよこすとタイを緩めてベッドに寝転がった。
ふあーっと息を吐き出して緩みきった彼女はベッドに匂いをすりつけるように二、三度転がり、動物のようにぐっと体を伸ばしてから脱力する。
……犬が寝床を占拠したようだ。
「……あぁ、本当にこのベッドは柔らかいね。シンゴ~、どうせなら夜には私を侍らせればいいのに。私達は四六時中そこに立たされるだけなんだからいつでも呼んでいいよ?」
「休憩はともかく、恋人でもない女の子はベッドに呼べません。それより騎士ってこんな格好をするのか?」
「私のような隷属騎士でなければね。戦場へ行く時は鎧を着るからそれは軽い旅装というところかな。何か不具合は?」
「剣が重くて腰が衣擦れしそうなんだけど」
重さにして一キロ未満ではあるようだがベルトに引っかけられたホルダーは下がり、明らかに腰へ食い込むのだ。
少々歩く程度は問題なくとも長く歩けば衣擦れは免れなさそうである。
ベッドに倒れ込んで尾を振っていたリズには申し訳ないが、剣道の心得もない風見には余分な飾り以上の何物でもない。
それよりは防具を固める方が利口な選択だ。
しかしリズは鼻で笑う。そもそも危険なんて度外視しているのか、もしくは警護に強い自信があるらしい。
「猊下ともあろうお方が随分とひ弱な。どうせ飾りだがね、騎士としては一本くらい下げないと見栄えがしない。なんならクイナを走らせてマインゴーシュやスティレットでも用意させようか?」
「あー、いい。なら我慢する。そういう短剣なら自分のナイフがあるし」
「ほう。それまたどんな?」
刃物の匂いを嗅ぎつけたリズは耳をピンと立てた。
彼女はそういう危険物が大好きらしい。
けれど今さら恋しいベッドから離れるのも嫌なのか獣の微笑を浮かべ、ちょいちょいと手で誘ってくる。
(持って来いってか。誰かがいる時と大違いだな)
心の中で毒づいていたら彼女にはふふんと笑われた。
もしかしたらジト目をしていただけで心を読まれたのかもしれない。
「早くしてくれないかな。小うるさい神官様が来たら自由にできないだろう?」
「はいはい」
急かされるまま、解剖セットを収めたケースを取りにいった。
ケースにはのこぎり、大型ニッパー、ナイフ、ハサミ、留め金付きの鉗子とピンセット、刃交換式と一体型のメスが入っている。
最初の二つは骨を断つ時に、鉗子は大きな血管を切る時に出番がくる。
解剖の時、血管に血が残っていると肉が溢れた血で見えなくなってしまうのでその対策に使うのだ。
ナイフは二本あり、刃渡り十五センチほどで合成皮の鞘に入っている。
両方とも種類としては洋包丁だが、一つは普通のナイフでもう一方は皮剥ぎ包丁だ。こちらはククリ刀を外反りにしたものと例えるのが一番近い。
「ふーん、大人しい顔をして二本も持っているのか。しかも一つは肉を切りやすいエグイ形をしているね」
興味津々に目線を寄せていたリズにそれを差し出した。
が、彼女はころんと寝返りを打つだけで取らない。それどころか手を広げ、格好だけは恋人を待つかのようだ。
「ほら、早くしろ?」
リズは甘い声を出す。
ただ、惜しむらくは狼を思わせる気配だろう。クロエのように無防備だと掻き立てられる欲情もあるのだが、リズを前にすると逆に自分が獲物である気がして込み上げるものがなかった。
むしろ背筋にぞくっとくる。
彼女がいくら綺麗でもそちら側の気分には至らなかった。
「なにやってるんだよ。ほ――どあっ!?」
差し出した手を引かれ、続いて襟元を取られるとベッドへと引き倒された。
ぐるんと一回転した視界。
気付いた時にはリズにマウントを取られており、「動くな」と一言が向けられた。
手にあったはずのナイフはいつの間にか取られ首下に突き付けられている。
リズは大きな身振りと一緒に息を吐いた。
「シンゴ、そんな調子では警護する我が身が思いやられる。誘われるままに食われるなんて虫くらいしかいないよ?」
「それならおのれは食虫植物だろうに」
「そうだね。なら今から食ってやろうか?」
「俺をたやすく消化できると思うなよ」
「やれやれ、口だけは減らないね」
「小うるさい神官様に告げ口をするために残してないといけないからな」
本当に口が減らないとぼやきたそうなリズはあからさまなお手上げをすると座り直してナイフを眺めた。
刀身を指で弾いて音を聞いたり、軽く振ったり、刃を軽く指で押したり。
ふざけ混じりだったさっきとは違って本業の顔になった彼女は一通り確かめ終えると鞘に戻した。
「うん、切れ味もなかなかだし随分と丈夫そうだ。人を刺すのにも使えるし、血管も一度で断ってしまえるだろう。いいものだね」
「リズは本当に物騒だな……」
困った育ち方をした妹を嘆く気分で見ると彼女はきひっと悪者じみた顔をした。クロエの純粋さとは真逆な野性味である。
こんなことでは将来が心配だ。
そんな時、彼女は不意にドアの方向を見ると身なりを整えて直立した。その反応は主人を察知した犬の如く。
どうやらクロエが帰ってきたようだ。
「失礼します。準備をお済みになりましたか?」
右手を左手で隠して淑やかにした様はやはりクロエらしい。
対して彼女に背を向け、「胸当てや剣も着こなせて流石の猊下です」なんてしれっとするリズも通常営業だった。営業スマイルという競技種目があるなら彼女に抜きんでるものはそうそういないだろう。
「ええ、本当に! 風見様は今まで剣を修めておられたのですか?」
「いや、ないない。こっちのナイフは仕事とかで使っていただけなんだ。部活動って言って経験があるのは弓とか格闘技くらいかな。剣道はおふざけのチャンバラレベルにしかかじってないからさっぱりだ」
その言葉でより目を輝かしたのは意外にもリズだった。
武芸の経験がある点に食いついてきたらしく、ほうと怪しく息を吐いた彼女はぎらぎらとした視線で横顔をくすぐってくる。
だが、それには絶対に目を合わせないと風見は心に決めていた。
リズならば試しにと襲いかかられそうな気がしてならないからだ。
無視してクロエの方に歩み寄ると、「なあなあ」と物欲しそうなリズに小突かれたが取り合わない。
相手は狼少女なのだから見かけに騙されたら駄目だ。これは夜の街のキャッチセールスと同じなのである。
下手をするとこの怖い犬っころに骨の髄までしゃぶり尽くされかねない。
「では参りましょうか」
「あ、待った。俺はこっちのお金は持ってないんだけど」
「ご安心ください。その点はドニ様が用意してくださいますし、私にも十分に蓄えがありますので」
クロエはそう言って懐から袋を出してみせた。じゃらりと音がする通りこちらでは紙幣ではなく貨幣が中心である。
教えによると貨幣には金銀銅の三種があるそうだ。
その中で最も信用と価値が高く使われているのは現皇帝が作ったレシオン貨幣というものだそうで先代、先々代の皇帝が作った貨幣も別レートで使われているらしい。
つまり現代の日本でいうと旧千円なら二枚で新千円と同じ価値というややこしい事態が起こっている。
なんでも皇帝の権力の大きさ=皇帝が作った貨幣の価値という認識でいいのだとか。
それを聞いた風見は世界の為替制度を一つの国に収めたようなものなのかということで納得した。
「なあ、クロエ。お金を稼ぐ方法って何かないかな?」
「え、お金ですか?」
「そう。他の人に金銭面で頼りっぱなしじゃやっぱり心苦しいからな」
「ふうむ。それなら猊下ご自慢の武芸で魔物でも狩ったら万事解決だと私は愚考いたしますが?」
散々無視したせいかリズはむくれ、不機嫌そうな声を出していた。
そんな態度に、つとクロエの鋭い目が向けられたが彼女は取り合わなかった。
犬猿の仲とまではいかないが二人の関係は犬と猫の縮図っぽい。
ふーっと猫に牽制されても犬は余裕しゃくしゃくである。
「しかし正論ではあります。元となる職や資本がない以上はそれが早道かと。幸い私とこの隷属騎士もいますからよほど危険でなければこなせることでしょう」
「クロエ。リズな、リズ。そんな中傷じみた言い方はしない」
「う……、はい。リズ、と呼んでもいいでしょうか……?」
「別に構いません。神官殿の声はどうも肌に合わないのでお好きなように呼んでくださればいいかと」
「んなっ。あ、あなたは仮にも騎士の長でしょう! そのような態度で騎士の名を汚していいと思っているのですか!?」
「はは、何をおっしゃいます。私は卑しい身。名声や誉れなんて望める生き方はしておりませんよ」
クロエは肩を竦めるリズに掴みかかるところを何とか抑えているようだったが、それもすぐに限界がきそうだった。
仕方なく風見は間に割って入る。
「ともかく、それならそれで悪いけど二人をアテにさせてもらおうかな。それとこんな格好をしたからには騎士と神官のセットなんだろ? 言葉遣いなんかも自由にしないと不自然だから街では気を配ろうか」
「だそうですよ、クロエ?」
「わた、私だって善処は、します」
声の端々が尖りそうなところを何とか折って回るクロエは非常に判り易い。笑顔もひび割れかけていた。
相手の全てを認める聖母とはいかないが、相手にぶつかろうとも正直でひたむきなところが彼女の聖職者としての在り方なのだろう。
それをからかおうとするリズをどうにかたしなめつつ、一行は街へ向かうのだった。




