ファンタジー式スライム農法
「……」
天に召されるのはこういう気分かと風見は椅子の背に持たれて放心していた。
この一週間、クロエは寝る間も惜しんで(※読んで字の如く)熱弁をふるってきた。
それはもう、朝は日の出前から夜は月が昇るまでみっちりとである。
寄り添って勉強を教えてくれる少女と不意に肌が触れ合い、それからはお互いを妙に意識し合ってテレテレとしてしまう。
またはペンや消しゴムを落とした拍子に――いや、こちらは羽ペンやインク壺を使用しているので同じようなことをしては後始末に困る。インクを落としては服に絨毯にと大惨事だ。
……ともかく、そういうものは一切合財が存在しなかった。人の夢と書いて儚いと読むが如き幻想だったわけである。期待してはいけない。
食事は勉強の間に軽食を挟む形なので逃げ場などなく、「生きてるー?」とたまにリズが確認に来るくらいの勉強地獄が待っていたのだ。
肉体的には本当に死んでいた。
教材を持ってくる間の僅かなブレイクタイムなので頭を突いてくるのはやめてほしかった。
ちなみに枢機卿のリイルさんはスバラシイ笑顔で「あたしは本山へ戻るから気が向いたら顔でも見せに来て~」と手を振り、去った。
本当に自分の睡眠のため、クロエの世話を押し付けに来ただけだったらしい。
この”怨”はいつか返そうと風見は心に決めていた。
「お疲れ様です、風見様」
「う。……そう、だな」
それでも苦境を乗り越えた風見は基本的な日常会話ならこなせるようになり――その一段落を経てようやく解放されたのが召喚から八日目の正午であった。
「もし、猊下殿?」
体力、精神共にめりめりと削られた彼は今まさにパァーと天へ召されんとしていたところ、彼は部屋にやってきたグレンの声で現世に引き戻された。
「気晴らしに体を動かすのはどうですかな?」
クイナの乱入事件以後、彼と風見は仲良くなっていた。
それも周囲は変に媚びへつらう人間ばかりで気さくに話せる相手がいなかったからだろうか。
グレンは年齢的にも職場で相手にする上司と同じくらいだったので他より増して身近に感じられたのだ。
彼はどうも見るからに血行が悪い風見を気遣ってくれたらしい。
風見にとってこれは異世界で唯一得られる本当の優しさである。感涙しながら二つ返事で答えた。
「そうですか。それなら私は勉強の役に立ちそうなものを揃えておきますね」
にこやかに次の犯行予告をするクロエに引きつった表情で応える風見。
「上に立つ者は辛いですな。まあ、今くらいは休みましょうか」
「あ、ああ……」
そんな風に励まされながら彼らは兵舎の訓練場へやってきた。
そこは城の端に位置し、矢を射るための的や、剣を当て慣らすためのわら人形などがいくつも並べられていた。
非番の騎士の何人かはそこで訓練しており、クイナの姿も見かけたのだが彼女は気付くなり逃げるようにどこかへ行ってしまった。
まるで野生動物を相手にしているかのようである。
どうもあの一件以来、毛嫌いされてしまったらしい。恥ずかしい一面を見たからだろうか。
一緒についてきたリズは風見らについて行くよりも訓練の方が面白いと見たらしく、クイナと一緒に居た子供たちの指導に向かってしまった。
まあ、良き先生としてならグレンがいてくれれば事足りるだろう。
「さて、猊下殿は何か武芸の経験は?」
「格闘技とアーチェリー……こっちで言うと弓か。その二つなら学校の部活で三年ずつやっていた。剣道や柔道も授業であったんだけどほぼ知らないな」
「ほほう、ひとまず剣でも持ってもらおうかと思ったのですが」
戦場を戦い抜くとしたら必然的に彼のような豪傑も敵に回すこととなる。旅をするにしたってどこかで戦闘を経験することにはなるだろう。
それを前に戦わず、周囲に守ってもらうなんて考えられないし、守ろうとしてくれた誰かに死なれても寝ざめが悪い。
こんな剣と魔法の世界だからこそ最低限、身を守る術くらいは必須なはずだ。
「けどグレンみたいなのがもし敵だったらどれだけ修行したって勝てる気がしないんだよなぁ……。年季もあるけど武術的なセンスとか、何より体格とか。攻撃を全て避けるか受け流すなんて無理だし」
現実的な問題、グレンと相対したらどうやっても勝てない気がした。
いくら格闘技を修めたとはいえ足を払うことも、投げることも、関節を極めることも、締めることもこの筋肉の鎧には無駄だろう。
殴打なんてもってのほかだ。むしろ拳を痛める。
実際のところ格闘技によほど熱心に取り組んだ者でもなければ、体格の上回る者には勝ちにくい。
まして相手はずっと技を磨き続けた戦士だ。
風見は技が身に染みるほど鍛錬を積んだわけではないし、今から訓練したところで役に立たないのは目に見えている。
戦争で活躍したという二代目の真似事なんてする気もなければ、到底不可能な話でもあった。
となれば、だ。
風見とグレンの答えはすぐに一致した。
「弓か」
「弓でしょうな」
武器庫に案内され、ずらりと並べられた弓の一つを手に取る。
ロングボウと呼ばれる1.2~1.8メートルほどの弓は風見にとって見慣れた大きさだ。持てば手にもしっくりと馴染む。
アーチェリーに使われる弓は1.7メートル前後で、弦は40ポンド前後――つまり20キロ未満の力で引けたのだが、
「なんだこれっ、重すぎる!?」
「ロングボウは元より訓練した者でなければ扱えない代物ですからなぁ」
「おいおい。半分も引けないってことはドローイング重量が40キロ近くはあるぞ……」
「その単位は知らんのですが、100ポンドほどあります。だから素人向きの武器でないのは確かでしょう。それを引かせる兵には日頃から専用の鍛錬を課してます」
「む、こっちにはポンド表記は伝わっているのか」
英語や日本語が伝わっているのだし、別におかしなことではない。
グレンに改めて聞いてみると重さはポンド、距離はマイルが一般的らしい。もしかしたら歴代の誰かがイギリス人だったのかもしれない。
ともかく、風見はもう一度全力で引いてみるが体勢が崩れるばかりで引けそうになかった。
実際のところ、ロングボウは100ポンド――つまり、45キロの重さに耐えなければ引ききれない。
それでようやっと200メートル先の的も狙えるようになる。名手でも300メートル先の的も射るのが精一杯なのだ。
その話をグレンに聞かされた風見は銃の凄まじさもさることながら、現代科学の凄まじさを改めて思い知った。
アーチェリーは弓道とは違って90メートルまで射る。
慣れればその距離でも人から外さないくらいは狙えるし、やろうと思えば300メートル先も狙えるだろう。
それも引く重さは20キロほどで、だ。ロングボウとは大きな差である。
ただし、それと実戦を同じに考えてはいけない。ここまでは的相手の話だ。
記録では引き重量が166ポンド(約75キロ)の弓でも殺傷有効射程は約187~274メートルほどだったそうだ。それを考えればロングボウもアーチェリーも150メートルくらいが有効射程だろう。
「なあ、グレン。弓はここにあるのが全部なのか?」
「そうですな。とりあえず一通りの種類は揃えてあるので多少の質が違うのみでしょう」
「作っているのはやっぱエルフか?」
「質が高い一部は。しかし人の方が量産できるのでそちらが主です。剣の場合はドワーフと人という感じとなっておるのですよ。ドワーフは細工が得意で大工などもしばしばやっております」
どうやらその辺りも想像の枠から外れないらしい。
エルフは美男美女で自然を愛する狩猟民族。ドワーフはビール腹で細工や武器作りが得意なのがステレオタイプだ。
どこかの誰かは逸脱している気がしたが風見は忘れることにした。あれはエルフではないと思っておく。
風見は周囲の弓を見回しながらあるものを探した。
どれもただ弦を張るタイプであり、クロスボウみたいな見かけをしていても弦を引っかける突起とトリガーが備えられているのみで、アーチェリーで見かけた“アレ”に近いものはない。
それはちょっともったいない話だった。
人は知恵で戦う生き物だ。風見の強みはそこなのだから使わないのは惜しい。
彼は早速、問いかけてみる。
「ちょっと頼みなんだけどドワーフに弓を注文できないか?」
「できることはできますが、弓ならばエルフの方がよっぽど上手く作りますぞ?」
「いいんだよ。ちょっとした細工のある弓を頼みたいんだ。それまではこいつらで弓を引く体力をつけないと。25キロ近くは引けるようになりたい」
弦をつけては引き、風見は手頃な弓を探そうと具合を確かめていく。
グレンはそんな彼の様子を不思議そうに見るのだった。
「うーむ、それならどうしましょうか。猊下には弓の基礎知識があるのならワシが教えるまでもないでしょうし時間が余ってしまいましたな」
「確かにな。一時間や二時間くらいはクロエも許してくれるだろうし」
今から弓を引く鍛錬をしてもいいのだが、それはほぼ筋トレと変わらない。
彼がアーチェリーで習ったことでは最初の鍛錬として素引きという、矢をつがえずに弦だけ引く練習があった。
それである程度引けるようになると矢をつがえて的の目の前で射る練習に入り、弦の放し方・背の筋肉の使い方・力の抜き方などを覚えていく。
そして最終的に18、30、50、70、90メートルの距離から的を狙う練習に入るのだ。
基本のフォームが崩れていないか定期的に確かめるくらいをしておけばあまり指示がいらないと彼はもう知っている。
となるとそれは余った時間にでも回せばいい。
今しかできないことに走る方がずっと有意義だった。
「んー、じゃあ魔物とか見てみたいなぁ。生活に密着したやつっていないのか?」
「残念ながら。魔物は人を見れば襲ってくる野生動物の総称みたいなものですからな」
「そっか。ファンタジーな世界なのに残念だな……」
犬、猫、鳥、馬など。風見が思い浮かべる動物らしい動物はこちらも同じらしい。
ただしその他に幻獣、魔物、魔獣などと呼ばれるものがいる。
それらの定義はこちらの言語を覚える際にクロエから聞いたのだが、律法を扱う生物や明らかに生物の範囲から逸脱したものを人への害の度合いで区分けしたものだそうだ。
例えばペガサスやユニコーンなどに代表される基本的に害がないものを幻獣や聖獣。
スライムやゴブリン、スケルトン、ゴーレムなどあまり強くないものが害のあるものを魔物。
サイクロプスや鬼、バンパイア、ドラゴンなど特に強く人に害があるものを魔獣という。
あとは例外として妖精や精霊、魔物と人のハーフの魔人などの区分けもあるそうだ。魔人の代表格というとダムピール、サキュバスなどが入る。
こちらは人と共生することもあれば魔物と共生している場合もある。
「にしてもさ、それって例外はないのか? 俺の世界でもトラみたいな猛獣はいるんだけどお腹がいっぱいだったら案外何もしてこないこともあるんだよ」
「ほぼ懐かないですな。鞭で強制的に従わせることなら一部はできるそうですが草食の魔物ですら大抵はいきり立ってきますぞ」
「縄張り意識が強いとか? それはそれで面白いな。何でなのか気になるし調べてみたくなる」
「猊下殿は熱心ですな。ワシらはもうそういうものとして受け止めとりますよ」
「ちなみにこの周囲にはどんな魔物が生息しているんだ?」
「人里近くなので襲われればとりあえず狩りますし、いるのははぐれのゴブリンくらいです。雨の時はスライムがひょっこり現れたりもしますな」
「おお、そうなのか!?」
血色の悪かった顔は花開くように色を変えた。
その突然の変わり様にはグレンも驚く。
たかがゴブリンやスライムなど、こちらではどこにでもいる。人に怪我させたりと厄介者にしか見られていないのでこんな反応は思いもしなかった。
多くの人を見てきたグレンでもやはり異界の人は変わり者だと思ってしまう。
「じゃあさ、機会があったら倒したゴブリンは見せてくれないか? あともし大丈夫なら生きているのも観察したい。特にスライムの方がいい」
「は、はぁ。スライム程度なら竹の柵で囲えば飼えるでしょうがまたなんであんなものを?」
「あれってものを溶かしたりするだろ? 草なんかも分解してくれるんだったらミミズみたいに農業にも役に立つかもしれないし、どんなものにでも興味を持って調べてみるってのは大切なことだと思うんだよ」
「ですがスライムですよ?」
あんな嫌われ者なのにと疑る目が向けられる。
だが風見にとってはそれほど変だとは思えなかった。
むしろこちらなら○○産地鶏の炭火焼き(コカトリス)、牛ヒレステーキ(カトブレパス)なんて風にモンスターをハントしてこんがり焼いていてもおかしくないと思ったのだが。
「スライムだって自然界で食ったり食われたりしながら生きているだろ? だったら農業みたいな別のサイクルでも使える可能性はある。例えば生物農薬って言って薬に頼らず、合鴨とかダニとかテントウムシみたいな害虫の天敵で害虫を退治する農法もある。何がどこで活用できるかは判らないさ」
専門的にはIPM、総合的病害虫管理と言われるものの一つで天敵農法などとも言う。
生物を参考に何かをするのは昔から今もなお続くことだ。学べるものは数え知れないほどある。
「よく判らんのですが、料理人の食材探しみたいなものですかな」
「似たようなものかもな。だから俺が知らなそうなものがあったらぜひ教えてくれ」
「了解。しかしそれはすぐにはできませんし、今は何をしますか?」
そういえば議論がてんで進んでいなかったことに気付かされた。
まだ外に出てからそう経っていないし、今すぐ戻るのは御免こうむりたい。まだ体力的に死ねてしまう。
かといって一時間やそこらでできることはそんなにないだろう。風見はしばし考え込んだ。
「よし、じゃあこっちの人のバイタルを知りたいし隷属騎士の人に会わせてくれないか。あと医療器具と痛み止めの麻薬も確かめておきたい。争いが多いみたいだし、何かが起こる前にできるだけ用意しておかないとな」
「おお、それは心強い。ワシらにはにわか知識しかありませんし頼り甲斐があります」
「あ、でも俺の専門は動物。特にニワトリや豚、牛とかで人が中心じゃないんだ。過度な期待はしないでくれよ?」
「構いません。軍馬を診てもらえるだけでも大助かりですよ。なにせ上は奴隷を騎士代わりに用いる領主です。そちらの予算はさほどくれなくて購入もできないし、増やすにしてもワシらは馬任せになってしまいますから」
隷属騎士には馬番や衛生兵はいてもちゃんとした知識を持っている者はいない。
例えば怪我をしたなら薬草や軟膏を塗って包帯を巻くくらいだ。病気や、大出血を伴う怪我にはお手上げである。
しかも薬の効能はちゃんと根拠があるわけではなく、効くと言われているから使っているだけだ。
もしかしたら何の効能もないものを煎じてつけている可能性もある。
それに比べれば獣の医者だろうと何がどうして効くのかを知っている人間は心強かったようだ。
風見はお願いしますと深々と頭を下げられ、恐縮気味に了承するのだった。




