鼻から血を噴き出す病でしょうか
ドニの城には使用人が幾人も常駐している。
それは調度品が無数に並んでいるので荒っぽく掃除できず、労力がかさむというのもあるが一番の理由はこの城の広さにあった。
一階は調理室や煌びやかな武器を飾る武器庫、簡単な応接室など。
二階には立食パーティに使う大広間や長テーブルを囲む会食室に加え、いくらかの客室が供えられている。クロエには二階の一室を与えられており、風見には三階にある上客用の部屋を与えられていた。
早朝から夜まで。
このところは連日、彼女の時間の大半は三階で使われていたのだが、今日の彼女はドニや夫人の部屋がある四階にあった。
その要件は風見の言語の進捗状況と、部屋で学ぶばかりでは力がつかないので外出の是非について相談だ。
しかし本来はそんなことも必要ない。
マレビトの管理と指導は教会側が担当し、国や領主は出資する代わりにその恩恵を受けるという上下関係だからだ。
客人として迎えてもらっている手前、話さないというのも不義理な気がするクロエが気を利かせて話しているにすぎないのである。
ただ最近は彼女としてもこの報告が憂鬱だった。
(今回はなければいいのですが……)
以前はタイミング悪く、ドニが村娘を部屋に連れ込んで情事にふけっているところに出くわしてしまったこともあった。
しかも彼はそれを公然の権利として思っているらしく、行為を続けるまま片手間に話をしようとするからクロエとしては赤面どころではなかった。
領主の仕事をこなしている時に向かえばそんなものを見ることもないだろうが、それもまた差し支えが出てしまいそうなのではばかられる。
結局のところ、彼女は今日も真昼近くにしか訪れられなかった。
中で怪しいことはしていませんよね? と、不安な気持ちを視線に込めて警備の隷属騎士を見つめる。
だが彼らは特に何も反応を返してこなかった。
中で何かがあれば苦笑なり、複雑そうな表情なりをしてくるのでどうやら違うようにも思える。
どうやら今日は違うらしいと彼女はほっと胸をなでおろした。
とりあえず風見の勉強もあるので早めに済ませようとノックをしようとするのだが、不意に室内から声が聞こえてきた。
話の邪魔をしてはいけないから――。そんな風に自分に言い訳をしながら彼女はつい聞き耳を立ててしまう。
どうやら中には何人かいるようだった。
□
「今回、貴様らを呼びつけた理由は理解しているだろうな?」
ドニは後ろで手を組み、目の前にいる者達にじっとりと視線を向けていた。
それは威圧を含む視線であり、”躾”を経験した者からすれば小さく震えずにはいられないものだ。唯一の例外と言えば起立の姿勢で特に表情もないままに立っているリズくらいだろう。
彼の前にいるのはいずれも若い女性である。
下は少女と言うべきクイナから、上は二十歳半ばくらいの女性まで。隷属騎士の姿が目立つがメイドもその中に混ざっていた。
彼女らの共通点は風見と幾度かの接触をしたことである。
如何に勘が悪くてもこれだけ揃っていれば要件も判ろうものだ。少なくとも彼女らはすでに要件を理解しているらしく、じろじろと体を値踏みするようなドニの視線をじっと我慢していた。
「そ、それはもちろん猊下のことですよね……?」
一人一人と視線が移っていく中、つい視線が合ってしまったノーラはおどおどとしてしまうところを何とか取り繕いながら答える。
当然だと言わんばかりにドニは大きく頷いた。
「その程度を理解する頭はあるか。なに、今回は貴様らを叱ろうと思って呼んだわけではないから固くなるな。むしろよくやっている。そのまま順調にしてくれれば私も心安らかに見守れるというものだ」
それは実に珍しいことであった。
クイナやノーラからすれば、ドニがふんと見下した風に鼻を鳴らすことくらいしか目にしたことがなかった。
えっ、と呆気に取られるが彼はそのまま彼女らを等しく見つめ、目の前をこつこつと歩いて往復しながら続きを口にする。
「その身分はさぞかし厭わしかろうな。粗末な食い物、ロクな休みも与えられず、危険な仕事や重労働を科せられる。変われるものならば変わりたかろう」
「……」
彼女らは無言だ。
しかし無言だからこそ答えが際立っている。彼女らの表情に滲んだものがそれを如実に語っていた。
そんな時にドニは「だが――」と強調して一言を置く。
「勘違いするな。貴様らはすでにモノだ。どう扱われようとそれは所有者の自由だと同意の下で契約されたのだからな。それにモノである以上、自らを買い戻すことなどできるはずもない。明日も明後日も変わらない日を粛々と受け入れ続ける定めなのが道理だ」
そう、それが現実だ。
苦しい生活だが我慢し続ければいつかきっと希望がある。夢に見たような奇跡が自分を助けてくれる。
そんな伝説や言い伝えはそこやかしこに存在していたが、それを掴み取れた人間なんて見たことがない。
今を生きるために自分を騙し続けている儚い嘘を彼女らは揺らされていた。
他愛もないことかもしれないが仲間との傷の舐め合いか、これくらいしか心の拠り所なんてないのだ。それは心をぐりぐりと踏みにじられるように辛いことである。
緊張で萎縮していた彼女らの体はさらに小さくなっていた。
ドニはそれを見ると大げさに首を振る。
今更それに気付いたかのように「おお……」と憐れむような声を出すと、一番酷い顔をしていたノーラの肩に手を置いた。
「いやいや、すまない。今日はそのような顔をさせる気などないのだ」
元気付けるように、ばしばしと肩を叩いたドニはまじめな顔をする。
今までの扱いから一転して深く同情し、気にかけてくれるような態度は何かが違った。いやに芝居じみた動きだったかもしれないが、初めて見せられたそんな表情には、あれ? と心のどこかを騙されてしまいそうになる。
「他の者はともかく、お前達はよくやってくれていると言ったはずだ。私は働きが良い者は正しく評価する。お前達にはそのチャンスがある。簡単なことだ、猊下と親交を深めてくれさえすれば良い。猊下は人柄が良いから見初められればさぞかし可愛がられることだろう。私もそうなるのを望んでいるのだ」
ノーラから一度離れたドニは全員を見回し、はっきりと言う。
「子をなすでも良し。すり寄って寵愛を受けるでも良し。方法はお前達に任せよう。これは真っ当な生き方に戻るチャンスだ。もしそんなことができるのなら私は喜んで祝福しよう。猊下のお相手ならば奴隷身分というのも頂けない。普通の娘に戻るどころか、猊下の傍にきちんとお仕えできるよう、とびきりの援助をしてやろう。お前達は今のまま、これからも励むといい」
前々から命令していたことであったが、さらに念を押して言うのにはわけがあった。
こんこん、と控えめなノックの音が同時に聞こえてくる。これがその理由である。
「失礼いたします。ドニ様、これからの予定についてお話ししたいのですがお時間は大丈夫でしょうか?」
「問題ない。して、何か特別なことでも?」
「はい。ジューイ様にはそろそろ外を見てもらう機会も増やしていければと思ったのです」
それを聞いたドニはふむと顎を揉んだ。
このハドリア教の娘は猊下を国でもこの領でもなく、中立――もしくは教会側に置くために送られてきた娘だ。
マレビトというものはその立場柄、権力者が自分の傍に置きたがる。となれば酒や女などで籠絡しようとするのだ。
そんなしがらみに猊下が捕われぬよう、マレビトを守る役目が付き人だ。それ故にお付きは異性しか選ばれない。
教会が国とは別に人を送ること、歴戦の兵ではなく年頃の娘を傍に置かせるのはそういうことからきている。
教会の助力がなければマレビトが呼べない以上、この付き人を追い返すという無理は通らない。実質的に言えばドニなどにとっては最大のライバルであった。
常に張り付いたこの女をどうすれば出し抜けるだろうかとドニは考えを巡らせ――ふと、あることを思い出した。
彼は執務机に戻ると一枚の報告書を探し出し、改めて目を通し始める。
するとしびれを切らしたクロエが「あの……?」と問いかけ、ドニはようやく紙から目を離した。
表情には余裕たっぷりの微笑みをたたえ、返答が遅れたことを謝ってくる。
「少々頭に引っかかったものがあったものでな。外出したいというのならばちょうどいい。実は近くの村でユニコーンを飼えぬものかと捕まえて世話をしていたそうだが、何でも鼻から血を噴き出してかなり弱っていっているらしい。猊下は飢餓や疫病ならば専門と仰っていたし、折角だから見て頂けないだろうか? この世界とあちらの世界の差を見るにはいい機会だろう」
ユニコーン自体、そこらにいる魔物と違って大変珍しいものだ。
しかもユニコーンは普通の魔物と違って人間に対して好戦的ではない。それどころか魔物と縄張り争いをするためにそれが住みついた一帯には強い魔物は近寄ってこないという大きな利点があるために聖獣や守り神と呼ばれるものでもあった。
だがそんな存在以上にクロエが気になったのはその弱った原因である。
「え。あの、ユニコーンはともかく鼻から血を?」
「そのように報告を受けている。今にも失血死しかねないのだそうだ」
「そ、そんなことがあり得るのでしょうか……?」
疑い混じりであったが、手渡される報告書を見ると確かにそのように記されていた。
しかしそれは謎の疾患である。
語り部などが笑い種を話す時に表現の一つとして、興奮で鼻血を出すなんて言葉を使うことがあるが、実際にそれで弱った生き物など見たことも聞いたこともない。
ユニコーンが処女を好むなんていう癖のある特性から言われた冗談かと思ってならなかったのだが、話は本当のようであった。
「わ、判りました。それではことをジューイ様と共に見てこようと思います」
「道中、賊でも出ては敵わない。補助としてこの者達をついて行かせよう。隷属騎士でも腕に覚えがある者達だから心強いはずだ」
「……はい、それではありがたく同行してもらおうと思います」
先程のことはクロエの耳にも届いていた。
ドニは先を越されまいと積極的に女性を侍らせようとしているらしい。
それが彼のみの考えならばいい。けれど女性達はその境遇からしてこの機会にかなり大きな期待を抱いているのが彼女の目から見てもよく判る。
リズやクイナは乗り気ではなさそうな例外ではあるがノーラなどは顕著だ。
改めて考えれば自分にもチャンスが……? と、戸惑い混じりの期待が隠せないらしく顔を赤くして耳まで緊張と混乱がない交ぜになっているらしく動きが不規則になっている。
「では私達は早速用意をしてこようと思います。ドニ様、退室してもよろしいでしょうか」
「よい。下がれ」
命令だけは事務的に受領したリズはドニから許しを得ると隷属騎士を引き連れて戻ろうとした。
が、その列にノーラが混じらないことに気付くと面倒くさそうに振り返る。
「ノーラ、いつまでも呆けるな。行くよ」
「あっ、はい。すみませんっ!」
リズに呼びかけられたノーラはドニに敬礼をすると、慌てて彼女の後を追った。
それを見たクロエも丁寧にお辞儀をすると退室する。
廊下に出るとリズはやれやれとでもぼやきたそうな顔をしていた。
「遠征に行かされるのは構わんが媚を売れというのは面倒極まるね。まったく、なんで私が張り付かなければならないんだか」
「団長はいいんですか? だって玉の輿ですよ? 可愛がられるって言っても領主様みたいな人におもちゃ扱いにされるんじゃなくて、本当にこう……優しいんですよ?」
「私には尻尾を振って腹を見せる趣味はないよ。単に殺し合いができる方が気楽でいい。第一、お隣の神官様がそれを許さないだろうしね」
「あっ……」
リズらの中には入れなかったクロエにノーラは視線を寄せる。
クロエには何か含むところがあるのか敵対する様子ではなく、何か後ろめたいものを持ったような様子だった。
だがノーラとしてはそれ以外のところが目についていた。
自分のそばかす混じりの肌とは違い、透き通るような白い肌。必要な筋肉くらいしかなく、あまり女性的とは言えない自分に対し、クロエは白いローブを羽織っていても女性的なラインが見える。
くすみのない金髪碧眼といい、差は歴然としていた。
敵わないなぁ……と悲しくなり、ウサギの耳まで萎れる。
けれどそれくらいではへこたれなかった。
すぐに顔を振って思考を切り替え直すとノーラは自分の顔をはたいて気合を入れ直す。
「いえ、もう妾でも何でもいいんですっ! お情けでも結構。ウチはそれでも満足なんです。これを逃したら一生後悔しますから、機会があると言うならウチはなりふりを構わないでも掴みに行きたいです!」
「だそうですよ、神官様。ともかく私達は装備と馬車を準備します。用意はすぐに終わるのですぐに行くかどうかを決めてくださいますか?」
「行きましょう。ユニコーンが弱っているという話ですし、人里の近隣にいる聖獣が死ぬというのは大事です。何かしらのことをしましょう」
ノーラのようにクロエもまた自分の意気を取り戻した様子でそう言う。
その言葉を聞いたリズはノーラ達を連れ、準備のために兵舎へと向かうのだった。




