狼さんのお仕事
リズはサーベルを腰に差し、背側のベルトにはナイフを付けてそれぞれ一本ずつ用意すると夕闇が混じる街に出た。
「余分な装備は無粋だものね」
後に訪れるお楽しみを想像して彼女は黒い笑みを浮かべる。
敵の二拠点には他の騎士が向かい、リズは単独だ。久方ぶりの狩りに血沸き肉踊る狼は舌舐めずりをして夜の雑踏に紛れていた。
情報によると相手の数は四。
一年前からとある商家に女が偽装結婚で住み込み、最近になって家族全部が敵の手のものと入れ替わったのだ。表面上の付き合いは女が行うことで周囲の目も上手くごまかしたと思っているのだろう。
だがそれも隷属騎士の多様性には通じなかった。
ドニの弟だけでなく他国の密偵も相手にし続けた騎士団なのだ。亜人を始めとして様々な技能を持つ集団は街に幾重もの網を張り巡らせている。
奴隷の集団と高を括れば後に待っているのは辛酸だ。
リズは音もなく目的の商家に忍び込むと、まずは庭に放し飼いにされた犬二匹をナイフで無力化した。
(ふむ、これも同族殺しになるのかな……?)
血統としては薄い方だが、ウェアウルフとして狼の亜人種に名を連ねている彼女は血を振り払って自問した。尤も、まったく考える気もなかった事柄なので彼女はすぐに忘れて本題へと移行する。
体がうずくお楽しみを待たせているのだ。
きゅうきゅう切なくなって胸にこもる熱さを早く発散させたくてたまらない。彼女ははやる心を抑えて迅速に行動した。
商家はレンガ造りの二階建てだ。一階は調理場とリビングと書斎、二階は三部屋に分かれている。
爪も牙もなく、膂力も人とほぼ変わらないリズだが聴力は亜人特有の鋭さを持つ。足音に耳を澄ませるだけで誰がどこにいるかは筒抜けだった。
一階の調理場には静かな音。恐らくは女だ。
あとは二階に三人。大人の男が二人と子供の軽い音がする。
(ほう、子供のとは珍しいものを用意したね。反応が楽しみだ)
好戦的に微笑んだリズは窓の下まで進んだ。
普通の民家では城のようにガラスを張ることなく、窓は木のブラインドと板で仕切るものとなっている。
ガラスは高価なくせに防衛の観点ではてんで役立たずなのでリズも好きではない。攻める方としてはあればラッキーだが、ここの窓は採光のために木枠も開かれているので逃走経路の一つとして要注意だ。
(律法はあまり趣味じゃないがマーキングしておこうか)
やはり刃物で掻っ切るのが一番心地いい。自分と相手が命を賭して競い合う舞台で“奪う感覚”が手に残らないなんて不完全燃焼もいいところである。
それが彼女の持論だった。
けれど仕事の失敗はよろしくない。リズはナイフの先で指を傷つけ、血を一滴だけ地面に垂らす。
「Leve a cabo Mentira escondida」
虫の声ほどの呟きで補助詠唱を口ずさんだ。
律法とは自分の内に広がる世界で既存の世界を侵食する行為だ。
世界には無秩序な力と法則に満ちている。これはただ単に熱や位置などの“エネルギー”と“物理法則”のことだ。
律法技能者は一節の詠唱を始動キーとして法則を一時的に外し、無秩序な力に自分というフィルターを通して超常現象を起こす……というのが旧時代の理論だった。
この技術は旧時代の宗教が神の力と称したものであり、それを使うものは神言使いと呼ばれた。現代でもどうやってこの奇跡が起こるのかは不明だ。
判っているのは使い方だけである。
律法は最低でも二節、多ければ三節の構造で発現させる。
一節に始動キーとなる詠唱、『Eu escrevo isto』を宣言する。
二節に術の効果を規定する無数の語彙を選択する。これは言語でいう動詞にあたり、『燃える』『爆ぜる』『貫く』など個人によって様々だ。
三節に術の発動を規定する数種の補助を選択する。これは言語でいう形容詞などにあたり、『速く』『遅延して』『潜んで』などあまり種類はない。
これらを世界に記すことから律法と呼ばれ、詠唱の組み合わせに従って己の属性に合った秩序を再現できる。
律法技能者はその威力だけでなくそれぞれが持つ第二・第三詠唱の数から三音魔術師、五音魔術師などと区分けをされる。
リズはこのような律法の恩恵に与る一人だった。
彼女は同様の処置を二階の窓の下全てに施すとナイフを手に正面玄関へ回った。ここが女のいる調理場に一番近い。
ドアの開閉や足音で勘付かれるヘマはしない。
無音で女の背後を取ったリズは背後から口を押さえ、同時に延髄を掻っ切った。
(ああ。こういう、ぷちりと命の糸を切ってやる感覚がないとね)
ぺろりと唇を湿らせる。
延髄は呼吸などを司るだけでなく脳と脊髄を繋ぐ唯一の通路なのだが、軟骨にしか守られていない。そこを断てば全ての命令は途絶え、高等動物ならほぼ即死する。必殺仕事人が針で突いただけで人を殺せるのもこのためだ。
ただし例外はある。
鳥や爬虫類などはまれに頭がなくなっても心臓などが自動的に働いて動き続けることがある。それは人などが失くしかけた機能の一つだ。実録では脳幹を失って十八カ月生きたニワトリも存在する。
手に残った感触をリズが咀嚼していたその時、ふと二階で人が動く気配を感じた。
……どうやら勘付かれたらしい。
最初から女は囮にして窓から逃げ出す算段だったようだ。
察知した誰かには賞賛の念を送る。しかし同時にだが甘いと酷評も付した。
「――Eu escrevo isto. 本当にそれで逃げられるのか試してみるといい」
リズが指を弾くと床には土色の光条が走る。
先程のマーキングは潜伏術式である。起動を命じれば――幻光が消えた時には岩をぶつけ合うような音と共に二つの悲鳴が上がった。
「うーん、乏しいね」
やはり手に残る感覚がないと真に迫った断末魔だろうと別の世界の話のように感じられてしまう。
どちらも大人と思われる男の声だったがリズはどうでもよかった。
なんとなく目をやると一階の窓からは地面から切り立った岩槍に貫かれ、醜い声を上げてじたばたとする四肢が見えた。
「はてさて、こちらはだらしない。子供が一番の手練れとはね……。くははっ、まあいいかな。うん、殺し甲斐があるね、少年っ!」
続けて気配の移動を感じたリズは動いた。
窓から飛び出し、庭の岩槍を踏み台にして隣の家の屋根に飛び移る。
タンっと軽やかな身のこなしはまるで野生の獣だ。二メートルもの高低差も彼女にしてみれば平坦な道と大差はない。
サーベルを抜き、眼前を見据えた。
屋根伝いに逃げようとしていた少年だが見る間に詰められることに焦り、逃走は無駄と悟ったのらしい。
足を止めた彼は苦みを滲ませた表情で向かい合ってきた。
「一応聞くけど投降の意志はあるかな?」
「……、」
「ふむ、なるほどね」
無言でダガーを構えるのが答えだった。逆手に持ち、ゆらゆらとどこを狙うのか定まらせない動きは確かな練度を感じさせる。
けれどそれを前にしても獣の微笑を絶やさないリズと、緊張を戦意で押し殺そうとする少年には埋めがたい実力差があるのは明白だった。
これは命を賭けた勝負ではない。狼による子鹿狩りだ。
「一分もたせたら少年は逃がしてあげよう。できなかったら……まあ言うまでもないか。さ、お姉さんと遊ぼう?」
「……!」
リズがサーベルを肩に乗せて余裕を見せた瞬間、少年が先手を取った。
白銀の閃光が夕陽を斬り裂いてリズに追いすがる。
その攻撃は多彩な上に速かった。喉、手首を正確に狙った切り払い、腹を狙った刺突もランダムに織り交ぜられている。
にも拘らず、どの刃も木の葉を狙うかのように紙一重で捉えられない。
単調な斬撃だけではなくさらに蹴りや徒手を織り交ぜる攻撃を行っても少年にはリズの重心を狂わせることすらかなわなかった。
傾斜で足場の悪い屋根でもそんな状態なのだ。少年は思考を読まれているのかと悪夢のように感じてしまう。
「ほら、突くよ?」
ぴゅっと空気を切って眼前に突き付けられるサーベル。
露骨な間を置いた刺突を命からがら回避した少年はもう表情を隠すことすらできなくなっていた。
――怖い。怖かった。
リズは冷ややかな嘲笑の仮面を被っているだけ。その下の表情には何の色もなく、何の感情もない。
ただ敵だから本能のままに処理しようとしているだけなのだ。
少年とて刃を持たされてから日は長い。殺人人形と他人から評されることもあったが、リズはそれ以上の“なにか”だった。
それを理解できてしまったことが少年にとって最大の不幸だった。
恐れは刃を鈍らせる。
「遅いね、減点だ」
少年はその声でダガーの操作が疎かになっていたのに気付いたがもう遅かった。手首はリズの手によって掴まれており、動かせない。
そんな状態だ。彼女が放った蹴りを避ける術などない。
直後、蹴りは容赦なく少年の股間を蹴り上げて転倒させた。
「ぎっ!?」
「おいおい少年。男として生まれたなら利点も難点も持つものだろう? 命がけの勝負に卑怯とは言うまいね」
リズは立てなくなっている少年の頭を蹴りとばし、屋根から落下させた。
ロクな受け身すら取れずに木箱に墜落した少年は呻きながら起き、それでもダガーを構え直す。
震える足でも立ち、構えも様になったのは見事だが――それだけだ。ほとんど無音で舞い降りた死神を前に抗う術はない。
「さて、まだ二十秒やそこらだがどうする?」
「……っ、」
少年は懐に隠していた短刀を投擲する。
それも一本のみではない。先を行く一刀の背後には艶消しの黒い第二刃が潜んでいる。普通に弾くならば避けきれるはずがない必殺の技だ。
だが狼はそれをもあざ笑う。
一刀目を体捌きで避けると二刀目はわざとらしくサーベルで弾いてみせたのだ。
「くっ!」
しかし体勢は崩れた。
そう言いつけるように少年はリズの懐に飛び込むと、がむしゃらにダガーを振り回して一刀だけでも届かせようとしていた。
けれどそんな攻撃も屋根での攻防をもう一度再現したにすぎない。
終いにはダガーの軌道を見切られ、くるりと刀身を回されると器用に巻き上げられてしまった。
カランと音を上げてダガーが落ちる。
「レイピアでなくて良かったね。あれなら指環に指を通すから折れていた」
少年の横を悠然と歩いて過ぎたリズはダガーを拾うと投げて返す。
それも手ではなく、拾えと命じるように彼の足下へ。
獣の表情には嗜虐の楽しさもあったが、徐々に飽きの色も見え始めていた。
「うっ、あああぁぁぁっ!」
「よし、せめてもの礼儀だ。全力で相手をしてあげようか」
少年の突進に合わせ、リズは自らも突進を合わせる。
この突進は言わばチキンレース。勢いを緩めた方の負けだと覚悟した少年は激突も覚悟でダガーを打ち合わせようとした。
如何に相手が手練れでも体重差はほぼない。なら腕力に物を言わせれば――彼はそう楽観視していたのだ。
「――――!?」
だが、現実は違った。
刃を打ち合わせた瞬間、サーベルは水を切るような無抵抗で抜けてきたのだ。
気付けばリズは正面から半身横にずれた位置取りを取っており、そのまますり抜けたサーベルで横に一閃。
それは狼の爪が鹿の腹を裂いた瞬間だった。
「はぁ、いかんね。いまいち満たされない」
ぴっと血のりを払い、リズは一人ぼやく。
這って逃げようとする少年の髪を無造作に掴んだリズは背を踏み付け、首を反らせると刹那のためらいもなくナイフで頚部の大血管を切り裂いた。
ホースのような気管も、さらに奥にある脊髄も断ってしまえば確実な処理であった。流れた血が広がっていく。
これにて掃討終了だ。
リズは犬笛によって配下の騎士に連絡する。流れた血の処理は面倒なのでそちらに任せるが、遺留品などを盗られるわけにはいかないので彼女は少年の死体を引いて元の家に戻るのだった。




