144 天腸へ至る黒巫女の厄才/眠れる腕は迷夢に揺るる
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現実の宗教組織と、『ストーミング・アイズ』における一大宗教「グノーシア正教会」のいちばんの違いは、僧侶や尼僧に分類される人々自身が子を産み育てる、という事実だろう。彼らはあくまで「神に近付く能力を持つ人々」という立ち位置であり、現実のように、俗世を捨てて悟りに至るという発想はない。いわば、占い師や陰陽師の一族が途絶えずに続くようなものであろうか。
そのため、教会という建物はおもに宿舎と聖堂のふたつからなる施設となり、一般人の目から見ても、生活空間としての印象の方が強い――ショッピングモールほどの大きさがある一大施設を「教会」と呼ぶのであれば、の話だが。
(教妹サナ。お前が寂しさを抱えていたことは知っています……【愚者】や【賢者】のように、心紛らわす探求や悦楽があるでもない。【狂妄】のたくましさも、【常人】の忙殺もない)
基本的に、人は同じか隣り合う意志を持つ男女で結ばれる。その子もまた、両親のうちどちらかの意志と同じになる。しかしながら、ときおり両親のどちらでもない意志を歩む子が生まれることがある。
【賢者】は平均的に子育てが上手く、探求を旨とするゆえ子供自身も人生に迷わない。【常人】は生きるための児童労働も当たり前であり、自らを何者か考える時間はない。【愚者】は享楽に生きるため、寂しさに悩まされるものは少ない。【狂妄】は捨て子となってもたくましく生き延びるか、同じ境遇だった親に拾われる。そういった村が近くにあれば、そこへ預けられる。
ところが、五つの意志の中で唯一……ほかの意志のもとに生まれた【使徒】は、平穏に終わることは少ない。心穏やかに過ごせる時間があり、職能に応じた訓練を受け、潤沢な資金をもとに充実した教育を受けられる。特別であるがゆえに、その特殊性を強く意識する時間がより長引きやすいのだ。
(私もまた両親に恵まれた身。お前の寂しさを癒せたなどとは言うまい、人より力があるからとそこまで驕ることはできません)
単純なステータスでいえば、【使徒】は【狂妄】より一段劣る。しかし残念ながら、人の作れる武器の耐久性はの力に耐えるのが限界である。あの【愚者】の体をやすやすと切り裂いた十字剣は、ところがサナ=クルスには避けられている。風の魔術を使って空中で跳ね回るが、それでもなお届かない。
「人の体のくせにわたしより自由なのね、教姉ゾミア。外へ出て自由に舞えるのだから、私のことなんて放っておけばいいのよ」
「私がここへ来たのは、教父バルワがお前を私の妹と定めたからではない。〈教会騎士〉として、異端の【使徒】を討つためです」
才能があればこそ、それに依存して堕ちていくものもある。教父バルワの説いた言葉を、ゾミアは真剣に聞いてなどいなかった。それよりも鍛錬が大事で、異端狩りやモンスター狩りに費やす時間も多かった。妹は妹で、彼女なりの努力を続けて司祭候補になり、いずれは列聖されるものと考えていた。
ある日、彼女は外出から戻らなかった。歓楽街で、【愚者】が夜にそうするようにふらついていた、という情報だけを残して、蒸発した。明らかに【使徒】の……列聖候補のすべき行いではない。ディーコノジーヴにいないとなればどこか、とデュデットワ、カンデアリート、エーベルにまで捜索の手は伸びたが、発見されることはなかった。
(よりにもよって「沈療死施」になど。それだけはと思っていたのに……!)
惚れた男と逃げたでも、教えに疑問を持ったでもよい。神より現世利益にすがったであれ、生きながら列聖された三司教を見て恐れをなしたであれ、別によかった。それでサナ自身が幸せになるのなら、ゾミアは正教会に逆らって彼女を見逃すつもりでいた。だが、人に死を、世に滅びをもたらすことを是とする「沈療死施」だけは――その構成員だけは、生かしておくわけにはいかない。
「なぜ堕ちた!! なにがお前を堕としたのですか……!」
「うふふふ。ないよぉ、なんにも。何か理由がなきゃ化け物にならないとか、そんなこと考えてたの?」
逆に、と――サナ=クルスは吐き捨てる。
「あんなことする必要あるの? 術理とか歴史とか勉強して、どうでもいい戒律なんか守って。あなたはあれが幸せだったの?」
「考える時間はとくになかったわ」
体を動かすばかりで、勉強は二の次三の次、経文を最後まで暗唱することもできない。人の血を浴びた以上僧侶の資格はないが、ゾミアの頭は決して良くはない。
「私は……あなたよりずっとバカだと思うけれど。それでも、余計なことを考えずに済んだだけ、賢い選択をできたのかもしれないわね」
「なんにも選んでないくせに……! わたしは!!」
「自ら間違いを選んだのならッ!! 教妹サナ。お前の賢さになど意味はなかったのです」
「なら、……なら! わたしの命は何のためにあったっていうの……!」
天に手を掲げる。それが何のサインか、ゾミアはすでに知っていた。
「やめなさい!! 二度と戻れないのですよ!」
「この体でどこに戻るっていうの? 言ってみてよっ、お姉ちゃん!」
とん、とゴーレムに着地したゾミアの剣が、止まる。
そう、戻る場所などありはしない。彼女が生きられる場所は、この世のどこにもない。だからこそ斬ろうとしたというのに……言葉が、腕を縛る。
「来て。視て、このわたしを! この体に宿りたいのなら、好きにしてよ!」
肝のあるあたりを真一文字に切り裂いた亀裂……【使徒】にして【狂妄】である「沈療死施」の証から、真っ赤な線がいくつも描かれていった。偽神のエネルギーが注ぎ込まれ、その体が変形していく前兆である――が。
「ん? どうなってるんです、ありゃ。専門家の意見を聞きたいんですが」
「私にも、何やら……!」
謎かけの好きな術師の作った「パズル」というものにも似た、ひどく細かく分解していくような模様が……サナ=クルスの全身に走っていく。
「か、かみがっみみがっみ、がが、かがみかあががっかがーがががみみみみみ」
柔らかくなった石鹸が、泡立てるための網にぎゅっと締め付けられて変形するかごとくに……サナの全身が、さまざまな色や形を宿して無秩序に膨れ上がっていった。
「がっがぁああっがあががっがあっがあがーがーがが」
黒い人魚の形が限りなく円形に等しくなったところで……
バァンッ!! と、爆発した。
「これは……!?」
「あの子の才能は、……本物だったのね」
望めば、何柱もの神と契約を結び、戦いや祭礼のたびにかれらを降ろすことができたのだろう。十を超える偽神がサナ=クルスの開いた門より現れ出でようと試み、彼女の体に宿ろうとしたが……受肉のためには肉の量が足りなかった。
しかし、考えている時間はなかった。
「みなさん! 止まりませんっ!!」
一芝居打とう、と提案した少女プロミナの声が、巨大ゴーレムの上にまで届いた。
いちおう「天頂」(ゼニス)ってことば自体は実在しています。たしか星図でいう観測者の直上って意味だった気がする。こっちの「天腸」はなんでしょうね……外なる世界の渦巻くなにかがハラワタに見えるとか、そういう意味なんでしょうか。初出のことばなのでわかりません(無能)
そして、巫女が死んでも止まらない触手。眠っていても動く外なる方々、いっぱいいるよね……




