赤のベスティア
「赤のベスティア」と呼ばれていた戦闘奴隷は、敵だった相手の魔法術師、アウレリオ・エスターライヒに拾われ、「ステラ」という新しい名をもらい、アウレリオの養女となった。
魔力によって人体を修復するという、聖魔力とは違う方法で、怪我や病気は治せるようになったステラは、本質を隠したまま、見習い聖女として神殿で働いている。
『獣』扱いされていた少女が、アウレリオと出会い、魔法を覚え、人として生き直す、始まりの物語、です。
眼の前が真っ赤に焼き付いたと同時に、足を払われ、仰向けに倒された。 打ち付けられた背中の痛み。眼の前には知らない男の人の顔。その向こうに、低く重いグレーの空が見えた。
やっと、終わる。目を閉じようとした。
「息をしろ!」
胸に強烈な衝撃を受けて、息を吐き出すとともに、意識が覚醒した。
と同時に、胸に新しい空気が流れ込んで来る。
私の体は、意識に反して勝手に呼吸を再開した。
ということは。
ああ、私は終われなかったんだな、と。頭に浮かんだのはそれだけだった。
「――わかるか?」
頭のてっぺんの方から、もうひとりの声が聞こえた。男の人の声だ。
声は近い。立ってるのではなく、しゃがみこんでるのだろう。視界にその姿は入って来ていない。
何かが首に触れた。多分、その人が首に……性格には首にあるソレに触れたんだと思う。
私を縛り付けていた『首輪』、隷属の首輪と言われるものだ。
「特別仕様だな。今まで見た物の中では一番複雑な術式が組み込まれていたが」
首の右側から、ほんのりと温かい力が体に流れ込んでくるのがわかる。
「応急処置だが、強引に首輪の鎖に刻まれてた術式を上書きした。今の主が誰か、わかるか?」
ギシギシと音を立てそうな体を無理やりねじって、右の方向を見ようとしたが、体が言うことを聞いてくれない。
ひょいと、頭の上から顔が覗いた。
金色の柔らかそうな髪は、おひさまのような色だった。
黒……? すごく深い紺色? 不思議な色の瞳が見ていた。
答えを求められてるのだから、何かを言わないといけない。だけど呼吸をするのが精一杯で、声が出ない。
「前の主人から受けた命令はすべて忘れろ。わかったのなら、頷け。体が動かせないなら、瞬きを二回、だ」
わかったと答えを示せるほどに頭が動かせる気がしなくて、瞬きを二回してみせた。
「よし。いい子だ」
首輪に触れた指が離れて、頭を撫でた。
「今から俺は、最後の片付けに行ってくる。お前は俺が戻ってくるのを待ってろ。ダリラ!」
その人は私から視線を外し、誰かの名前を呼んだ。
声を向けた方へ視線を動かすと、近づいてきたのは女性だった。服装から察するに、ここには最前線へ帯同する聖職者がいるらしい。
「お前は留守番だ。ダリラの言うことを聞いて、寝て、食事をして、俺が戻ってくるのを、ダリラと一緒に待て」
「それは、めいれい?」
ようやく呼吸が落ち着いてきて、言葉を絞り出した。これはちゃんと聞いておかないと。めいれいは、うまくできなかった時に叱られてしまうから。
「お利口さんにして待ってろ。これは、そうだな、今のお前への命令だ」
「じゃあ、まってる」
「いい子だ」
そう言って、頭を撫でられた。
めいれいを聞いて、頭を撫でられたのは初めてだったから、ちょっとだけびっくりした。その時はどんな顔をすればいいのかわからなくて、私を覗き込んでる人達の顔を交互に眺めてただけだったけれども。
「多分、魔力をほぼ限界まで使い切ってるだろうから、なにか食べさせてやってくれ」
「今にも寝ちまいそうな気がするけど」
「もちろん、その場合は起きてからでかまわない。あとは、そうだな、『命令』があるから金魚のフンみたいに付き纏うかもしれないが、うまくやってくれ」
「体調を見てからだぁね。了解」
女の人の返事を聞いて、おひさまの色の髪の人は頷いた。
「なるべく早く片付けて、戻る。待ってろ。いいな?」
「わかった」
私の言葉に、その人は微笑んだ、と思う。
「ダリラ、あとは頼んだ」
「了解。任された」
二人の気配が立ち去って。
私はダリラに抱き上げられて、運ばれて。
寝て起きたら、ひどい高熱を出してしまい、ダリラに心配と迷惑をかけて。
でも、「食べなきゃ治らないよ!」と叱られ、見張られながら食事をして、また寝て。
何日経ったのか数えられなくなってたけど、熱が下がって、ご飯が美味しいって感じるようになった頃。拠点の撤収作業が始まって。
それが終わる頃、あの人は戻ってきた。
「いい子にしてたか?
そう言って、私の頭を撫でた。
そして。ゆっくりと時間をかけて教えられたのは、ペルージャ王国の戦闘奴隷、『ベスティア』と呼ばれていた赤い髪の魔術師は、死んだ……ということになったらしい。
つまり、私は。
あの国で『ベスティア』と呼ばれ、首輪をつけられて、戦闘の最前線に居た魔術師は、死んだ、らしい。
「これからお前には、正しい魔術を教えてやる。そのために、戦争孤児として俺の養女になるか……、俺の副官のヴァレリオのところの養女になるか、なんだが」
「養女……?」
「嫌か?」
「いやじゃ、ない。魔法、教えて欲しい」
そうか、と安心したように、その人は笑った。
「名前は?」
「ベスティア」
「そうじゃない」
「……んー? 赤いの?」
「違う。元の名前があっただろう? 以前、違う名前で呼ばれていたはずだ」
「……忘れた」
「そうか」
首輪をつけたやつらのところには戻りたくなかったし。あいつらに私を売ったやつらのところにも戻りたくない。それ以前は、殴られたり蹴られたり怒鳴られたり、いつもお腹が空いてた記憶しかない。そんなところへ戻されるのもいやだ。
名前を呼ばれた記憶もほとんどない。思い出したくないから、思い出さない。
ここで、適当な嘘の名前を名乗るという知恵は、残念ながら私にはなかった。
だけど、その人は私の名前について、それ以上問うてくることはなかった。
「ステラ。どうだ?」
「ステラ?」
「ベスティアを名乗られると、ちょっと困るからな。新しいお前の名前だ。どうだ?」
「ステラ!」
「どうやら気に入ってくれたようだな?」
くすくすと、その人は笑う。
「王都に戻ったら、すぐに養子の手続きをしなければな。ステラ・エスターライヒ。それがお前の新しい名前だ」
「ステラ、えすたー?」
「追々覚えればいい。ステラ・エスターライヒ。アウレリオ・エスターライヒの娘になるんだ」
「アウレリオ……?」
「俺の名前は言ってなかったか?」
その人の問いかけに、こくりと頷く。
「慌てていたからな。すまない。好きなように呼べば良い、と言いたいが、養子縁組をしたら、親子だな。父と呼ばれるのは、いささか不本意だが……」
「ちち?」
「――王都に帰ったら、まずは、その首輪を外そう」
「外しちゃうの?」
あいつらに鎖を握られるより、この人のほうがずっと良いのに。
「勉強もしないとだな」
「勉強……」
「文字が読めるようになれば、魔法の基本書も読めるようになるな」
「魔法!」
「ああ、ただぶっ放すだけではなく、基礎の基礎から教えてやる。それこそ、アウレリオ・エスターライヒが全力で叩き込んでやるからな。頑張れ」
「うん!」
その人――アウレリオは、くしゃりと笑った。
「これから、よろしくな。ステラ」
「よろ、しく……?」
言葉の意味がわからなくて、首をかしげた私の頭を、アウレリオが撫でた。この人の手は優しくて、温かくて気持ちいい、ってことを私は覚えた。
ペルージャ王国がどういう終焉を迎えたのかは、はっきりとは知らない。調べればわかるだろうけど、思い出したくないから記憶の隅に追いやっている。
誘拐、人身売買、人体実験、従属の首輪をつけて子供を戦争へ放り込むなど、めちゃくちゃなことをやったあの国は、今はもうない。
アウレリオが終わらせて、ガルディニア王国が片付けをして、ペルージャ王国だった土地はガルディニアに併合された。
あれから、約五年。
『ベスティア』の名前を捨てた私は、ステラ・エスターライヒとして、聖女ダリラの下で見習い聖女をやっている。父となったアウレリオ・エスターライヒの特訓によって、聖魔法とは違うものの、魔力を使って人の身体の修復ができるようになったからだ。
神殿はいつだって人手不足なのだから、使えるものはなんでも使う、というのがダリラ様の方針であった。
「ステラ様あぁぁぁ、待ってくださいぃぃ」
背後から声が追いかけてくるけど、無視して、父様の執務室へ向かう廊下を、走ってないとギリギリ言い訳ができる程度の速歩で進む。
声の主は、マルコ様。ダリラ様の弟子で、一応私の兄弟子に当たる人である。
私の指導役という肩書きになってはいるが、ほぼ、私の暴走のストッパー兼、監視役、ダリラ様への報告係の方が仕事の比重を占めている苦労人でもある。
執務室の前で髪や服に乱れがないか確認していると、息を切らしたマルコ様がようやく追いついた。
「ステラ様はなんでそんなに歩くのが早いんですかぁぁぁ……」
「だって、父様とのお茶の時間に遅れるわけにはいきませんもの」
そのために、今日は半日よく頑張ったのだ。
治療を求めて神殿に並ぶ人たちの話を聞き、必要な人には治療を施す。金を積めば個人の専属の治癒師になってくれるだろうと舐めた態度で接してくる相手は、神殿のお兄様がたや聖騎士の方々が対応してくださる。
見習い聖女ごっこをして、人体をいじって修復する魔法を展開するのは、私にとっては遊びの延長なのだが、これは父様やダリラ様しか知らない話である。
「父様! ステラが参りましたわ!」
ドアをノックしながら、訪いを告げる。
しばらくしてドアの隙間から顔を覗かせたのは、父様の片腕であるヴァレリオ様だった。
「あー……」
なんだかとても申し訳無さそうな表情ね。事情はうっすら把握できたけれども、かといって理解したくはない。
「父様!」
執務机に向かい合っている父様が、私の声にようやく顔をあげた。
「陛下からの緊急の呼び出しだ。使いをやろうとしたのだが、そもそも呼ばれたのもついさっきでな、入れ違いになっても困ると思って使いを出さなかった。すまない」
「……父様に聞いていただきたい話がたくさんありましたのに」
父様はヴァレリオ様に目配せをした。
ヴァレリオ様はかなり大きな紙袋を、マルコ様に持たせた。
多分、今日のお茶会に備えて用意されたお菓子と、神殿へのおすそ分けだろう。悔しいけれど、ヴァレリオ様の選ぶお菓子はどれもこれも美味しいから、神殿の皆からの評判が良いのだ。
「お茶をする時間はないけれども、少しなら話を聞く時間はあるよ」
「まぁーた、そうやってステラ嬢を甘やかすぅ」
ヴァレリオ様がため息をついて苦笑している。これも、いつものことだ。
「北の方から来た方がね、最近お芝居を見たのですって。呪われた竜を退治して、その呪いを受けてしまった王子様と、王子様を死なせたくなくて呪いを引き受けてしまった魔法士のお話なんですって。ねえ、父様。呪われた竜って、魔力汚染されてたのかしら、王子はその魔力汚染の伝染を受けたのかしら。どうやったら魔法士はその呪いを他人から奪えたの? 汚染された魔力を取り込んだら、人を核にした魔物に成るのかしら。知りたいわ。すっごく知りたいわ。ただの創作話なのかしら。それとも元になったお話があるのかしら。呪われた竜を退治して呪われた王子も、魔法士も、見てみたいわ。体の奥の奥まで。読み解きたいわぁ」
「……と、午前中のステラ様はこんな調子で、ご機嫌に過ごされていました」
「午後に父様とのお茶会を控えていたからよ! 竜の呪いも気になるけれども……」
マルコ様の言葉に反論した私に、父様はくすりと笑った。
「魔力汚染の話は、俺も少し興味があるな。こちらでも少し調べてみよう」
「まーた、そうやって甘やかすぅ」
「さすが父様!!」
抱きついて喜びを伝えたいのに、執務机が邪魔ね。蹴り飛ばして破壊……したら父様に叱られてしまうから、我慢よ、我慢。
「それよりもステラ様! 西からの訪問者の話題を!」
ああ、思い出してしまった。
気になることがあるから、父様に話を通して欲しいと、マルコ様に言われてたのだ。
「西からのお客様がね、なんだか多い気がするの。子供や女性も増えてる気がするわ。無理をして体を壊したとか、熱を出したって子もいた、わよね? マルコ様」
「そうです。居ましたね」
ふむ、と父様は考え込む顔つきになった。
「あと、西からの荷の質が下がっているという噂が。数が多少足りなくても、強引にこちらへ来たという印象があります。あと、加工品の数が極端に減っています。具体的に言うと、染料、布、工芸品あたりでしょうか」
父様はヴァレリオ様と視線を交わし、なにやらうなずきあった。こちらが把握できてない情報が、父様たちの手元に何かしらあるのかもしれない。
「ここで荷を積んで西へ帰るという者が極端に減っている気もします。ずるずると理由を作って居座っているとか。帰ろうとせず、どこへ行くか悩んでるみたいな話も小耳にしました」
マルコ様ったら、いつの間にそんな話まで聞いて来てるのかしら。すごいわ。私はそこまで把握できてなかったわ。
「ステラ。どう思う?」
「西に異変あり、と見ます。できることならば、西門を閉じて。門の外に待機所を作ることを進言します。病気を持ち込まれた場合、聖職者では対応しきれない可能性があります」
「封鎖して、どうする?」
「三日に一度程度、様子を見に行きます。私が見て、状態に異常なしと判断すれば門を通過できる、という事にすればよいかと。一応、待機者には「聖女の判定は週に一度以上」と告知していただければ。原因を探りに行った場合、そう度々戻って来れませんから」
「商隊ならば野営には慣れているだろうし。病人が出れば優先的に聖女に診てもらえる、という保証をつければ、門を閉じて待機させることは可能、か」
「可能だと思います。ただ、待機所に護衛を出した場合、聖女の判定がないと戻ってこれなくなるんだよなぁ」
準備が大変なことになりそうだ、とヴァレリオ様はぼやく。
「陛下には進言する。ステラの思う通りになるかどうかはわからないが。門が封鎖されたときは、ステラ、行ってくれるな?」
「ええ。でも、原因をぶっ叩きに行くのであれば、私を置いて行っちゃ嫌よ。父様と一緒に行きたいわ」
一応年頃の娘さんが『ぶっ叩く』って言葉を使うのはやめなさい、とヴァレリオ様が苦笑する。
だって、魔物退治にしろ、汚染にしろ、行きたいし、見たいし。深く深くまで探りたいし。魔法が、魔力がどこから来るのか、奥の奥まで見てみたいじゃない。
そう言うと、だいたいみんな『理解できない』って顔をするけど。
父様だけは、私の本質をちゃんと理解してくれているから。
「マルコ。ダリラに話をして、門を閉ざす方向で準備を始めるように伝えてくれるか? 準備が無駄になる可能性はあるが、備えておくに越したことはない」
「わかりました。貢ぎ物といっしょに、急ぎ戻り伝えます」
「ステラ」
立ち上がった父様は私に近づき、耳元で私にだけ聞こえる声で、言った。
「落ち着け。ベスティア」
父様の声で、ずっとざわざわしていた心が一瞬で凪いだ。
ずっとざわざわしていたのは、私の核の部分。本質、と言ってもいいだろうか。かつての私は赤い獣と呼ばれてた。わたしの中の『ベスティア』は暴れたがっている。
「ステラ。またあとで。夕食のときにでも話そう。マルコ、あとは頼む」
「ダリラ様への伝言、しかと承りました」
そうして、父様は部屋を出て、ヴァレリオ様を伴って行ってしまった。
「いったん、神殿に戻りましょう。ダリラ様への伝言もありますし」
「そうね」
答えながら、ちらりとマルコ様が抱えてる紙袋に視線をやる。
父様と食べたかったなぁ……。
「流行り病や魔物の発生だったとしたら、厄介ですねぇ」
「大丈夫よ。ダリラ様が居るんですもの。魔物だったとしたら、父様がなんとかしてくださるわ」
「確かに。あの方々がいると不安が薄れますね。――人災でないといいですねぇ。ペルージャ王国みたいな事は二度とあってはいけませんから」
わかってる。マルコ様は私がペルージャ王国の者だったことは知らないから。軽く『ペルージャ』の名前を出しただけ。
ベスティアであることを捨てたけれども。
首輪だって外れているけれども。
でも、私の本質はどうしようもなく、『獣』なのだ。
「父様……」
胸の奥が暴れて苦しいの。父様助けて、と言いたいのを、かろうじて飲み込む。
来たときとは全く違う、とぼとぼとした歩調にマルコ様が苦笑している。きっと、父様とのお茶会がなくなって落ち込んでると思ってるに違いない。
――間違ってないけど。
そっと吐いたため息を、マルコ様は気づかなかったふりをしてくれた。
十一月を目前にして、ガルディニア王国の西の国境が閉ざされた。北や東の国境へ向かうルートはあるものの、聖女が一週間に一度以上の頻度で様子を見に来てくれ、国境を通過させてくれるから、その場で待機する者が多かった。食べ物などの支給もあったため、大きな混乱はなかった。
眼の前の大気は黒く淀んでいるように見えた。そこに何があるのかまでは把握できないが、確実にそこに『人の理を外れた何か』が在るのがわかる。
「父様。首輪つけないの?」
「どうしてお前はそう、首輪をつけたがる?」
父様は笑う。
「だって。鎖を握っててくれたら、迷子にならずに済むでしょう?」
「そんなものがなくても、お互いの位置はすぐ把握できる程度の訓練はしたはずだが?」
父様とつながっているというだけで安心できるのに。
あいつらの握ってた鎖とは全然違ったのに。
これだけは、いくら説明しても父様は理解してくれない。
「よし。好きなようにやれ。ただし、刻限は夜。暗くなる前に終わるなら、どう遊んだってかまわない。後片付けは任せろ」
父様の言葉に私は頷く。
「ベスティア。力を解放しろ。思う存分、やっていい」
父様の言葉があれば、私は無敵になれる。
高揚感に震えだしそうになるのを無理矢理押さえつけ、私は地面を蹴り、それにむかって駆け出した。
…………どう考えてもこれ、長編で書くべきですよねぇ。
気がついちゃいたんですが、とりあえず書き起こしてみました。
こんな感じのものが書きたいんだー、というメモ代わりの短編です。




