ある日、薔薇之介は嵐の夜に
「ご指南、ありがとうございましたナリ!東方剣術の真髄に触れることができて感激でしたナリ!」
「いや、礼には及ばんよ。こちらこそ門下生たちに西方剣術を披露して下さって感謝する。次はどちらの道場に?」
「南下して古武術を指南して下さる道場に参りますナリ!」
「それは良いな。しかし野分が近づいておる、しばらくはこの街に留まられるのが良かろう」
「野分、とは何ですナリ?」
「あぁ、西方では“台風”と言うのだったかな?」
「某の国には台風なるものは来ないナリが、凄い嵐になるというのは知っているナリですよ」
「東和ではこの季節はよく来るのだ。慣れておられぬのなら尚のこと気をつけられよ」
「はい!ありがとうございますナリ!」
そう言って桜薔薇之介は事前に父がアポを取って体験指導を予約してくれていた道場の一つを後にした。
薔薇之介は頭上を見上げる。
嵐の前触れを告げるような暗澹たる曇天の空が広がっていた。
───道場主の言っていた通りだわ。嵐が来るのね。
薔薇之介はそそくさと宿屋へ戻るべく足取りを早めた。
しかし薔薇之介の足を早めるのは単に嵐のせいだけではない。
………今朝方、宿屋の中居が言っていたのだ。
今夜の夕食の献立は、アズマ牛のスキヤキだと!!
「きゃっほいナリ!」
薔薇之介は東和へ来て最初にスキヤキを食べてから、すっかりその美味しさに魅了されてしまったのだ。
甘辛で柔らかな肉と野菜。
それを西方ではまずお目にかかれない生卵にからめて食べるのだ!
───たまごのまろやかさと甘辛いお肉が相まって……天国のお味なのよねぇ……そして〆に入れる饂飩がこれまた……(うっとり)
早く、早く帰らなくては……!
夕食までにお風呂に入って汗を流したい!
(風呂は個室に付いている家族風呂也)
気付けば早足で駆けていた。
通り過ぎざまに街の人間に「今の若者、デキる……!」などと言われたが薔薇之介はそれどころではない。
そうして薔薇之介は急ぎ宿へと戻り、ひとっ風呂浴びてアズマ牛のスキヤキを堪能したのであった。
そう、薔薇之介は武者修行の旅という名の東和旅行を大いに満喫中なのである。
東和に来て早や一週間。
剣術指南を受ける道場も宿泊する宿も全て父親が手配してくれているので実に快適にすごしていた。
一日に何度かエクトルの事を思い出してしんみりするけれど、それもきっと時間の経過と共に失くなっていくのだろうと……と思うと余計に悲しくなるけれど、互いの幸せのためだと自分に言い聞かせている。
───婚約解消の手続きは終わっているのかしら……きっともうわたしは…エクトル・ワーグナーの婚約者、ではないのだわ……。
そう思うと寂しくて涙が滲んでしまう。
だって今でも本当にエクトルのことが大好きだから。
───向こうに他に好きな人が出来たからって、こちらの気持ちが変わるわけはないのよね……。
「………早く、」
早く忘れてしまいたい……。
薔薇之介はひとり部屋の中で蹲り、そうつぶやいた。
しかしその時、フッと部屋の灯りが消えた。
「えっ……?」
突然部屋が真っ暗になり、薔薇之介は固まってしまう。
外は既に暴風が吹き凄び、見たこともないような豪雨が雨戸を打ち付けている音がする。
暗闇の中ではそれが却って大きく聞こえ、薔薇之介の不安を助長する。
元々暗がりは得意ではないのだ。
───こ、怖いっ……やだ……ど、どうしよう……!
身を竦めて狼狽えていると、ふいに部屋の扉をノックする音が聞こえた。
そしてすぐに部屋の外から女性の声が聞こえる。
「突然すみません。隣の部屋に宿泊するものなのですが、どうやら台風の影響でこの辺り一帯の魔力供給が停まって灯りが消えたらしいのです。宿の方のお話では自家発力の魔力ランプがある大広間を解放してくれるそうなので、もしよろしければご一緒に行きませんか?」
扉ごしに聞こえる女性の声が優しげで、なぜか親しみを感じた薔薇之介は女性に応じるために扉を開けた。
「一緒に……ナリか?」
扉の前には、三十代くらいの美しい女性が立っていた。
見ると杖をついている。
薔薇之介はその女性に言った。
「どうして某に声を?」
同じ宿屋の隣り合わせの宿泊客とはいえ他人同士だ。
それがなぜいきなり声を、と思ったのだが薔薇之介は女性が答える前に理解した。
───この方、目が……。
「突然不躾にお声かけして申し訳ございません。私、生まれつき目が見えないもので、もしよろしければ大広間まで連れて行っていただきたいのです」
「なるほど、それはお困りでござったナリね。某でよろしければお連れするナリよ。それに某も暗がりで難儀していたナリから、嵐が過ぎ去るまで大広間で過ごせるのは助かるナリ」
「ありがとうございます。助かります。あ、貴重品はご自身で持って管理された方がいいですよ」
「ご親切にありがとうナリ」
薔薇之介はそう返事をして、所持金や通行手形などが入ったポーチを浴衣の懐に入れた。
「さぁ行きましょう。良かったら杖を持たない方の手を某の肩にのせてくださいナリ」
「ご親切に、ありがとうございます」
そうして薔薇之介の目の不自由な女性を連れて宿屋の大広間へと向かった。
大広間には同じように灯りを求めて宿泊客が集まっていた。
そのうちの一人の宿泊客が薔薇之介と女性客の姿を見て声をかけてきた。
「お連れの方は目が?よかったこちらに座ってください。ゆったりとした椅子があります」
五十代くらいの男性客はそう言って椅子を勧めてくれる。
薔薇之介は礼を言った。
「ありがとうございますナリ。たまたま部屋が隣同士のご縁でご一緒してますが、連れというわけではないのですナリ」
「そうなのですね、いやはやそれにしてもこの野分には困ったものですな」
「まったくですナリ!」
薔薇之介が男性客とそんな事を話ていると、宿屋の従業員たちがお茶や軽食を用意してくれた。
「さぁさお客様!よろしければお茶でも召し上がってくださいな!」
生まれて初めて体験する台風のせいで思いがけない一夜を過ごすことになりそうな薔薇之介だが、こうやって宿屋の者や宿泊客のおかげで不安な気持ちが和らいだ。
だがしばらくしても宿全体の灯りが復旧する兆しはなく、暗闇でも諦めてそろそろ部屋に戻るかと思ったその時、大広間に集まっていた宿泊客の一人が大声で叫んだ。
「あ、あれっ!?財布が入った手提げ袋が無いっ!」
「え、わ、わたしも!財布がないっ!」
「だ、誰だっ!?盗んだ奴出てこいっ!!」
「………え?」
どうやら嵐になるのは、外だけではないようだ。
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エクトルはどうした?
さぁ?どうしたのでしょう?




