カタストロフ・ポイント ‐ Part2
◇結城京也◇
その日は、しとしとと雨が降っていた。
卒業式を終えたばかりの俺は気が抜けて、居間のソファーに座ってぼーっと面白くもないテレビを眺めていた。
燃え尽き症候群、というか。
別にそんなに気合いを入れて高校に通っていたわけではないけど、昨日、卒業式が終わったあとにあったことのほうが大きかった。
俺史上、二人目の彼女ができたのだ。
それも、小さい頃から仲の良かった幼馴染み。
十何年も変えずにいた関係を、ついに変えてしまったのだ――という感慨に、耽ってしまっていた。
これが別の女の子だったら、浮き足立って、電話しようかどうしようかと悩んでいたことだろう。
でも、相手があいつだと思うと、そうはならなかった。
長い長い宿題をようやく終わらせたような、虚脱感があるだけだった。
『兄さん』
声がして、俺はソファーに座ったまま振り向く。
コートを着込んだ妹がいた。
『お父さんとお母さんと、買い物に行ってきますね。何か欲しいもの、ありますか?』
『んー……いや、別にないわ。……雨降ってるぞ。車で行くのか?』
『お父さんが出してくれるらしいです。たまの休みにくらい役に立ってもらわないと』
『ひっでー』
くすくすと笑うと、妹は『じゃあ行ってきますね』と言って居間を出ていった。
続いて、母さんと父さんも戸から顔を出して、『行ってくるわね』『いつまでもボケてるんじゃないぞー』なんて言ってきた。
『おーう』と適当に返事をすると、少しして玄関の扉が閉まる音がする。
そうして、俺はぼーっとテレビを眺めながら、漫然とスマホをいじる作業を再開した。
それから……どのくらい経っただろう。
1時間経ったかどうか。
そのくらいだったと思う。
玄関が開く音がした。
『ただいまー』
妹の声だった。
振り向くと、居間に妹が入ってくるところだった。
『おかえり。……あれ、お前一人?』
『はい。見たいテレビがあったの思い出して、先に帰ってきちゃいました』
『ふーん。この雨の中よく……』
見れば、妹のコートの裾は濡れていた。
帰りは車を使わず、傘を差して歩いてきたんだろう。
妹はコートを脱いで椅子の背もたれに掛けると、俺の隣にぽふっと座った。
『チャンネル変えてもいいですか?』
『いいけど。……こんな時間に何かあったっけ?』
『ドラマの再放送です。結構昔の』
テレビはそんなに見ない。
動画サイトやSNSを見ている時間のほうが圧倒的に多いだろう。
けど、妹は、昔、テレビの真似ばかりしていたアイツの影響なのか、結構テレビっ子だった。
ドラマが始まった。
立ち去るのも何だし、俺もスマホをいじりながらチラチラと見ていた。
刑事もののサスペンスか。
そういえば、こいつの部屋の本棚にも、何冊かミステリーがあったなあと思い出す。
それ以上に、恋愛小説とか少女漫画が多いんだけどな。
30分ほどそうしていると、電話が鳴った。
家電だ。
今時、個人への連絡はスマホに来るし、家電にかかってくるのはたいていセールスかなんか。
無視してもいいかとは思ったが、ドラマ観覧中の妹の邪魔になりそうだったので、優しい兄貴たる俺が出てやることにした。
ソファーを立って、居間を出て、廊下に置いてある電話から子機を取る。
『はい、もしもし。結城ですけど』
興味ありません、という返しを用意しながら言った。
でも、耳に入ってきたのは、セールスの早口じゃなくて――
『結城さんのお宅ですね? 息子の京也くんですか?』
緊張感のある、真剣な声音で――
『は、はい……そうですけど?』
『よかった、繋がって……。私は××病院の者です』
……病院?
なんで、病院の人が?
『落ち着いて聞いてください』
その言葉で、むしろ逆に、自分から落ち着きが消えるのを感じた。
『あなたのお父様とお母様が、たった今、亡くなられました』
…………は?
頭の中が空白になる。
……なん、だって?
亡くなられた?
誰が?
夢を見ているみたいに、現実が遠くなる。
茫洋とした意識の中を、電話から流れてくる声が通り抜けていく。
『今から一時間と少し前に、ご両親が運転されている車が交通事故を起こしました。すぐに救急車が向かい、病院へと搬送されましたが、間に合わず……』
『…………』
『今すぐ病院に来てもらえますでしょうか? ご在宅であれば妹さんもお連れして――』
……そうだ、妹。
妹にも、伝えないと。
………………あれ?
なんか、おかしくないか。
今から一時間と少し前。
交通事故が起こったのは、そんなに前なのか?
タイミング的には。
父さんと母さんが、買い物に向かったすぐあと。
車で。
妹を連れて。
二人が、車で事故ったって言うなら。
その車に一緒に乗っていたはずの妹が、どうしてここにいる?
背後に気配がした。
『…………っ!?』
俺は電話を取り落としながら振り返る。
そこには。
妹がいた。
妹が、俺の顔を―――
じっ、
と。
無言で、見上げている。
俺は、何も言えなかった。
妹の真っ黒な瞳を、そこに映っている自分の顔を、覗き込むことしかできなかった。
俺には。
自分が、その瞳の中に、囚われているように見えた。
妹は――
にっこりと、笑う。
俺が料理を褒めたときみたいに、嬉しそうに。
そして言うのだ。
言ってはならないはずのことを。
言えるはずのないことを。
『―――ほら、早く病院に行きましょう?』
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
◆ジャック◆
闘術場の外には、さらなる地獄が広がっていた。
アーロンが倒れ、【試練の迷宮】が解除されたことで、学院内外の行き来が自由になった。
それによって、暴徒のようになった人間――
いや、生きているように見える死体たちが、大量に流入してきているんだ。
ふざけてる。
冗談だろ?
王都に、こんな数の死体が紛れ込んでたのかよ?
ありえない。
だって。
半分近くもいるじゃねえか!!
空高くから見渡す限り、学院内に限らず、地獄はどこででも起こっている。
襲っている人間と襲われている人間の数に、差があるようには見えない。
半分。
半分もの人間が、知らない間に殺されていた?
王国最大の都が、いつの間にか死者の街になっていたことに、誰一人気付かなかったって言うのか……。
「……これを……」
あいつが、やった。
フィルの顔をした、あいつが。
……考えるな、今は。
それよりも父さんと母さんだ。
二人はどこにいる!?
空から二人の姿を探す。
どこもかしこも人、人、人。
殺戮と蹂躙の海。
見ているだけで吐き気がした。
意識を手放してしまいそうになる。
でも、歯を食い縛った。
父さんと母さんの姿を探し続けた。
「あっ……!?」
俺は声を上げる。
知っている姿を見つけた。
父さんでも母さんでもない。
あの恰幅のいい体格は……ポスフォードさん!
「お義父さん!!」
思わず叫んで、俺は義父となる人の傍に降り立った。
ポスフォードさんは俺の顔を見てパッと表情を明るくする。
「無事だったのですな、ジャック君!」
「はい! お義父さんこそ……!」
「私のことは構いません。それよりもフィルのことを!」
「いえ、せめて安全なところまで――」
「娘を頼みましたぞ、ジャック君!
君になら安心して任せられる!」
不意に。
会話が噛み合わなくなった。
え、と思ってポスフォードさんを見上げる。
その瞬間。
ポスフォードさんは、まったく表情を変えないままに――
大きな鉈を、頭上に振り上げた。
「娘を頼みましたぞ、ジャック君!
君になら安心して任せられる!」
振り下ろされてくる鉈を、俺は【巣立ちの透翼】を使って反射的に逸らす。
「娘を頼みましたぞ、ジャック君!
君になら安心して任せられる!
娘を頼みましたぞ、ジャック君!
君になら安心して任せられる!
娘を頼みましたぞ、ジャック君!
君になら安心して任せられる!」
二度、三度。
何度も何度も、ポスフォードさんは鉈を俺に振り下ろした。
表情は、柔和な笑顔のまま。
同じセリフを、壊れたロボットみたいに繰り返して。
「……あ……」
俺は、ようやく気付く。
ポスフォードさんの服には、赤い血が滲んでいた。
場所は、胸。
心臓のある場所だ。
そこに大穴が空いているとしか思えないほどの血液が、服をビチャビチャにしているのだ。
なのに笑顔。
なのに動く。
生きているように見せかけた死体。
もはや見せかける必要もないってことなのか。
生者を真似る機能だけが中途半端に残って、ソレは、ただ人の形に似ているだけの怪物だった。
「ぁ…………ぁあぁああああああああああああああっっっ!!!!!」
認めない。
認めない。
俺は認めない!
俺は全力でポスフォードさんは突き飛ばす。
恰幅のいい身体は、けれど子供の力で簡単に転んで、
「娘を頼みましたぞ、ジャック君!
君になら安心して任せられる!」
同じ音を垂れ流し続けた。
俺は逃げる。
背中を向けて、その音が聞こえない場所まで。
俺は認めない。
俺は認めない……っ!!
殺戮の只中を走る、走る、走る。
むせ返るような血の匂い。
頭に染みつきそうな悲鳴の連鎖。
夢だ。
悪い夢だ。
全部全部悪夢だっ、こんなのっっっ!!!!!
俺は走る。
どこまでも走る。
どこまで走ればいい?
どこまで行けば、この悪夢は終わるんだ。
覚めろ。
早く覚めろよ。
いつまで寝てるんだ、俺。
さっさと起きて、フィルを起こして、授業に行く支度をしないと。
廊下で隣の部屋のアゼレアと挨拶を交わして、食堂で朝食を食べて、三人連れだって登校するんだ。
きっとまたフィルが突っかかって、アゼレアとやり合い始めるだろう。
それを適当に仲裁してるうちに、校舎に着くはずだ。
全力で名残惜しむフィルを宥めて、別れることになるだろう。
アゼレアと二人でSクラスの教室に入って、先にいる誰かと挨拶をするんだ。
それで、担任の学院長と副担任のラケルが来るまで。
適当な雑談や、級位戦の話題で時間を潰して……。
そんな日常が。
そんな毎日が。
目を覚ませば戻ってくるんだ。
戻ってくるんだよ!!
「あぁあぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッッ!!!!!!!!!!!!!!」
赤い血が見える。
鉄臭い匂いがする。
終わらない。
終わらない。
悪夢がいつまでも終わらない。
だったらそれは。
同じじゃないか。
現実と同じじゃないか。
終わらない悪夢。
そんなのただの地獄だ!
どうして。
どうしてこうなるんだ。
俺は、そんなに多くを望んだか?
人並みに、幸せに。
それがそんなに分不相応か!?
ただ、血を見たくないだけだ。
悲鳴を聞きたくないだけだ。
苦しむ人が目の前にいなければそれでいい!
たったそれだけなのにっっ……!!!
「…………誰か…………」
もういやだ。
もういやだ。
もういやだ。
「…………誰か……助けて…………」
「―――ジャック!」
「―――ジャック!?」
声がした。
ああ、懐かしい。
なんで懐かしいんだろう?
ああ……そっか。
初めて聞いた声だからだ。
この世界に転生して。
初めて聞いたのが、この二人の声だったからだ……。
「父さん……? 母さん……?」
顔を覆っていた手をどけると。
……ああ……。
父さんと、母さんだ。
この世界での、俺の両親だ。
二人が駆け寄ってくる。
安堵と心配がないまぜになった表情で―――
「大丈夫か! 一人なのか!?」
「何も言わずに飛び出していって!」
「とにかくよかった……! さあ避難だ!」
「他の子はラケルさんに任せて、早く!」
―――父さんが、俺の首に手をかけた。
「ここは危険だ! 一刻も早く離れるべきだ!」
「心配したんですよ! いくら戦い慣れていると言って!」
「まあマデリン。説教は後でいいじゃないか」
何事もないように話しながら――
父さんの手は、俺の首をぎりぎりと締め上げていく。
……ああ…………知ってた。
なんとなく、そんな気がしてた……。
今更、父さんと母さんだけが無事だなんて……。
そんな幸運、俺に限ってあるわけない……。
でも、いつから?
いつから、死体だったんだろう。
この状態になってからなのか。
それとも―――
……ああ、いいや。
もう、何も、かんがえたくない。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「はあっ……はあっ……はあっ……!」
気付くと、俺は荒く息をしていた。
足元には、大きな肉の塊が二つ。
右手には、血に濡れたあかつきの剣。
「うッ……ぇぇえぇえぅぅっ……!!」
赤い血だまりの中に、ビチャビチャと吐き散らかす。
苦しくて、苦しくて。
少しだけ理性が戻ってきた。
二つの死体は、動かなくなっている。
心配と安堵が織り交ざった顔のまま。
糸が切れたかのように。
なんだよ……。
なんだよなんだよなんだよ……!!
血で汚れた左手で、頭をガシガシ掻き毟った。
全身に渦巻く感情に、名前をつけられない。
怒りなのか。
憎しみなのか。
悲しみなのか。
ただ、俺は後ろを振り向いた。
そこには、天を衝く白骨の大樹があった。
俺の脳裏に、遥かな過去の光景が閃く。
両親が事故で死んだと聞いた直後。
なんら悪びれることもなく浮かべた、嬉しそうな笑み。
「……あいつだ……」
零れたように呟く。
「あいつだ、あいつだ、あいつだ、あいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだあいつだ―――――――――――――――!!!!」
絶叫しながら地面を蹴った。
徐々に骸骨の傘に覆われようとしている空に、一気に舞い上がった。
目指すのは、白骨の大樹の頂上。
そこで高みの見物をしているはずの、あいつ。
血のように赤い空を、俺は裂くように飛ぶ。
夕日が、地平の彼方に沈もうとしていた。




