BIFRONS
◆ラケル◆
それは、不意の出来事だった。
わたしは空を見上げる。
第一闘術場の上空を覆っていた、黒い半球状の膜。
それが、頂点から消滅していく……。
「あら。アーロンったら」
右目を白い仮面で隠したルクレツィアもまた、杭を生む手を止めて空を見やった。
そんなに長い時間戦っていたのか、現れた空は橙に色づいている。
あの黒い膜が消えたということは――
ジャックたちが、倒したんだ。
【試練の迷宮】の使い手であるアーロン・ブルーイットを。
「……花丸」
自然と唇が綻ぶ。
肩も太股も脇腹も杭に貫かれて痛くてたまらなかったけど、それも気にならなくなる。
生徒たちがやったんだから。
先生もぼやぼやしてはいられない―――!
「合霊術『爆塵』……!!」
空気中の塵が指向性を持って舞う。
それに導かれるようにして、紅蓮の爆発が連鎖した。
ルクレツィアは地面から杭を生やして盾にするけど、本命は『爆塵』じゃない。
花魁のような妖艶さのルクレツィアの注意が、ほんの一瞬、爆発のほうに向く。
その隙を突いた。
【絶跡の虚穴】。
彼女の背後に瞬間移動する。
ルクレツィアが気付いて振り返る頃には、わたしはその襟首をしっかりと掴んでいた。
「あら……抜かったわ。まだそんなに動けるなんて」
「さようなら」
大仰な技を使う必要もなかった。
ただただ、掴んだ襟首から、ルクレツィアの身体に電撃を流す。
ビクンッ! と彼女の肢体が痙攣した。
何時間と続いた死闘の幕切れとしてはひどく呆気なく、ルクレツィア・グラツィアーニは白目を剥いて気絶した……。
「はあっ……!」
わたしは荒く息を吐いて膝を突く。
強敵だった……。
無際限に生え伸びる杭、それを正確に操るセンス。
結局、具体的に何の精霊術の使い手だったのかはわからなかった。
物質を操作する類かとも思ったけど、その割には杭が伸びてくる場所から物質が減っている様子がない。
まさに『出現している』という感じなのだ。
好きなだけ、何の法則にも縛られず、杭を生み出しているような……。
どんな精霊術にだってルールがあるはずなのだけど。
……倒した敵について考えている場合じゃない。
肩も脇腹も貫かれて、服も血でベトベトだ。
頭がくらくらする。
さすがにもう気合いじゃ何とかならない。
わたしは治癒の精霊術を使って、身体の傷を―――
「―――え?」
なかった。
身体の傷が。
肩にも脇腹にも太腿にも、大穴が空いていたはずなのに。
治った……わけじゃない。
なくなっているのだ。
さっきまで服についていた血すら、跡形もなく。
まるで、最初から傷なんてなかったみたいに―――
「もしかし、て……」
……幻覚……?
全部幻覚だったって言うの?
ルクレツィアが操っていた杭が、全部……?
だとすれば、虚空から突然現れているように見えたのも納得がいく。
杭を操っているように見せたのはフェイクで、ルクレツィアの精霊術は、幻覚を見せるものだった……?
わたしは倒れ伏した妖艶な美女を見下ろす。
術者が気絶して時間が経ったから、術によって見せられていた幻覚が消えた。
……辻褄は、合う……。
でも、だとしたら。
本当に、幻覚だったのは杭の攻撃だけ?
わたしは走った。
もちろん、トゥーラのところへ。
でも、そう……自分の手で抱き締めて、確認したんだ。
仰向けに倒れたトゥーラの首筋に指を添えても、脈は返ってこない。
トゥーラを貫いた杭は現実だった……?
一体。
どこから、どこまでが。
幻覚だったの……?
「……様子を確認しよう」
いずれにせよ、ダンジョン化は解かれた。
結界の復旧を待たずとも、避難した人たちを外に逃がすことができる。
わたしは荒れ果てた試合場を出て、観客たちが避難した部屋へと戻った。
扉越しに、ダンジョン化が解かれて魔物も消えたことを伝えて、バリケードを解いてもらう。
真っ先に、カラムさんとマデリンさん――ジャックの両親が出迎えてくれた。
「おお、ラケル! 帰ったか!」
「ジャックは!? 子供たちはどうしたの!?」
わたしは興奮する二人が落ち着くように、冷静に話す。
「ジャックたちはおそらく無事です。【試練の迷宮】を解いたのは、わたしじゃなくてジャックたちなんです。すぐにあの子たちが結界も復旧してくれるはずです」
「そうか……。ああ、そうか……」
安堵と誇らしさが半々の表情で、カラムさんは息をついた。
彼は、本当にジャックのことを愛しているのだ。
こんな父親がいたらって、ちょっと羨ましくなるくらい。
「今なら外に出られます。皆さんを誘導しましょう」
「ああ……ああ、そうだな。早く出てしまおう」
「……何か?」
カラムさんの表情に含みを感じて、わたしは尋ねた。
彼は精悍な顔を難しげに歪める。
「いや、悪いことではないんだけどな――おかしなことがあったんだ」
「おかしなこと……?」
「消えたんです。怪我人の方々の傷が」
訝しげに答えを教えてくれたのはマデリンさんだ。
消えた?
傷が……?
こっちでも?
「傷、というのは……ダンジョンの魔物にやられた傷ですか?」
「だとしたら、【試練の迷宮】が解除されたことによるものかと、俺たちも納得したんだが……」
「含めてなんです。魔物にやられた傷も含めて、逃げる最中に負った打撲や擦り傷、そういった細かい傷まで綺麗さっぱり消えてしまったんです」
「……え……?」
それって。
幻覚だった?
わたしと戦っていたときの杭だけじゃない。
悪霊王による鏖殺宣言があってから負った傷、そのすべてが?
そんなはず……そんなはずない。
だって、魔物の襲撃は実際にあった。
それで死んだ人もいる。
死体をちゃんと確認した。
そうだ、トゥーラだって!
ちゃんと死んでた。
間違いない!
どういうこと?
生きている人間の傷は幻だった。
一方で、死んでしまった人も存在する。
何が起こってるの?
……いや、違う。
何が――起こってたの?
「…………あ…………?」
不意に。
わたしの脳裏に、それは現れた。
このおかしな状況を説明する、唯一絶対の答え。
この第一闘術場で、何が起こっていたのか。
この精霊術学院で、何が起ころうとしているのか。
悪霊王ビフロンス。
最初に宣言を出してからめっきり姿を見せない敵の首魁が、今どこにいるのか。
すべてわかった。
すべて察した。
だから。
「…………そん、な…………」
わたしは、絶望する。
何もかもを知って。
何もかも――手遅れであることを知って。
「ラケル、どうした? おい、大丈夫か!」
「…………だめ…………」
カラムさんの声も聞こえず。
わたしは、届きはしないと知りながらも叫んだ。
「だめ、ジャック――――結界室に入っちゃダメ!!」
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
◆ジャック◆
扉の奥には、不思議な部屋があった。
祭壇、とでも言えばいいのか。
円形の部屋の真ん中に、石造りのベッドみたいなものがある。
それを中心として、床には魔法陣のような紋様が描かれていて、淡く光を放っていた。
俺も、フィルも、言葉を発さない。
それが憚られるような、静謐な空間だった……。
魔法陣を踏んで、祭壇に近付くと、俺は目を見張った。
石造りのベッドのような祭壇。
その上に――
一人の、女性が横たわっている。
20歳を過ぎたくらいの、綺麗な女性だった。
眠っているようには見えない。
豊かな胸元は、呼吸で上下してはいなかった。
かと言って、死んでいるようでもなく。
ただただ、凍りついたように停まっている―――
それを、見守るようにして。
祭壇の傍に立つモノがあった。
巨大な鳥籠だ。
そして、その中に佇む、二足歩行の馬だった。
後ろ足でしっかりと立ち、強靭な胸筋を晒して、横たわった女性を見下ろす馬は、陽炎のように揺らめいていた。
精霊だ。
あの姿は、おそらく精霊序列55位〈誠実なる鎹のオロバス〉。
司る概念は『守護』だ。
ああ、そうか。
あの女性と、そして精霊なのだ。
この学院に、どんな傷も許さない結界を張っているのは。
どういう事情があって、こうなっているのかはわからない。
しかし、あの女性と精霊は、何十年、あるいは何百年もの間、ここで一人と一柱、この土地から傷と死を取り除き続けている―――
しかし、だとしたら、結界をオンにしたりオフにしたりするには、どうすればいいんだろう?
悪霊術師の連中は、どうやって第一闘術場の結界だけを無効化したのか。
ああして精霊のアバターが出ているということは、精霊術それ自体は、今も起動しているはずなんだが……。
「とりあえず近付いてみるね」
悩んでいると。
フィルがそう言って、女性が眠る祭壇へと近付いていった。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
◆ラケル◆
結界は、無効化なんてされていない。
ずっと効いていた。
ずっと守り続けていた。
闘術場に魔物が溢れ、逃げ惑う観客たちを次々と襲った、あのときですら変わりなく。
わたしたちの命を、守り続けていたのだ。
だとしたら、あの惨状はなんだったのか。
結界が守ってくれていたはずなのに、どうして人が死んだのか。
杭に貫かれたトゥーラ。
輪になって首を斬り合った貴族たち。
氷柱みたいに天井にぶら下がった歴戦の猛者。
放送室から墜落死したエミリー・オハラ。
燭台に延髄を貫かれていたアマベルさん。
あの死体は何か?
誰も死なないはずの結界の中で、どうして死体が出てくるのか?
そんなのは――決まっている。
論理的に考えれば。
素直に考えれば。
可能性は、一つきりしか存在しないのだ。
最初から、死んでいた。
結界の中では死なない。
しかし死体は現れた。
この前提条件から考えうるのは、たった一つ、その答えだけ。
つまり。
トゥーラ・クリーズも。
ラヴィニア・フィッツヘルベルトも。
メイジー・サウスオールも。
デンホルム・バステードも。
アルヴィン・マグナンティも。
ホゼア・バーグソンも。
エミリー・オハラも。
アマベル・ベイツも。
その全員が。
生きているように見えるだけの死体だったのだ。
彼らが本当に殺されたのは、この闘術場ではない。
学外でのこと。
学外で殺されて、死体となり、死体のまま動き、歩いて、結界の効いた学院内へと入ってきた。
しかる後に、破壊された。
たったそれだけ。
結界は、命しか守ってくれない。
命の宿っていない、一見生きているだけの死体は守らない。
彼らは死んだんじゃなくて―――
―――ただ、わたしたちが、とっくに死んでいることに気付いていないだけだった。
そんなことがありうるものか。
反射的にそう思いたくなる。
でも、根拠があるのだ。
わたしたち学院の中の人間は、ほとんどと言っていいくらい学院の敷地外には出ない。
内部で生活が完結しているからだ。
でも。
トゥーラは、ついこの間、街で起こった霊王戦出場者同士の小競り合いの現場を視察しに、学院の外に出た。
そして、燭台に貫かれたアマベルさんも、
―― ……信じられない……。自殺なんて……。アマベルさん……。ついこの前、久しぶりの里帰りで家族に会ったって、嬉しそうに話していたばかりなのに…… ――
あのとき、わたしが思わず呟いたように、学院の外に出たばかりだった。
すなわち、結界の外に出たことがあった。
それが、死体になった人たちの共通点。
学院の外に出なければ。
結界の外に出なければ。
どうやったって、死ぬことはできないんだから……。
きっとこれが、悪霊王ビフロンスの精霊術。
死体を生きているかのように見せかけることができる力。
ただのゾンビではなく――
――哲学的ゾンビを作り、操る能力!
……恐ろしい。
恐ろしすぎる。
こんなに恐ろしい力はない。
強いとか弱いとか、そんな次元ですらない!
だって、死体を操れるなんて。
生きているようにしか見えなくできるなんて。
それはつまり、いくら殺人を犯しても絶対にバレないってこと……!
死体が以前と変わらず動いているのなら、事件にすらならないのだから!
そして。
最大の恐怖は。
自分に近しい誰かが、いつの間にか、知らない間に、ビフロンスの操る死体にすり替わっているかもしれない、という事実。
例えばの話。
夫であるクライヴさんを先んじて殺しておき、その死体を操って刺客とすれば、最強の精霊術師であるトゥーラだって簡単に殺すことができる。
そうすれば、今度はトゥーラの死体を操って、彼女に近しい人間を殺すことができるようになる。
一説には、知り合い、知り合いの知り合い、知り合いの知り合いの知り合い――という風に交友関係を手繰っていけば、わずか6人の知り合いを介するだけで世界中の人間と繋がってしまうらしい。
だとすれば。
誰かを殺し、その知り合いを殺し――と続けていけば。
わずか6回で、世界中のあらゆる人間を殺せる体制が整うことになる。
六次の殺人。
広がる暗殺の輪。
その舵を、ビフロンスというたった一人の人間が握っている!
何が悪霊王だ。
何が悪霊術師だ。
ビフロンスは、最凶にして最強の死霊術師だ!
……そして。
何よりも最悪なのは、ビフロンスがこうまでしてわたしたちを欺いた理由。
これほど大規模な幻覚精霊術を駆使してまで、結界が無効化されたと思い込ませたかった理由だ。
わたしは、すぐに思い当たった。
思い当たってしまった。
現実がすでに説明している。
結界が無効化されたと知れば、わたしたちはそれを復旧させようと思うだろう。
そのために、結界制御室に入る。
わたしたち学院側の一部の人間にしか開けられない鍵を開ける。
開けてしまう。
それに乗じれば、結界室に入れるのだ。
本当に結界を無効化できてしまうのだ。
ああ……。
ああ、ああ、ああ……!
なんで今頃気付いた!
全部誘いだった。
全部罠だったんだ!
悪霊術師たちが、結界を復旧させようとするわたしたちを止めようとしていたのも……!
きっと、真の目的を知っていたのは、悪霊王本人と幻覚を担当していたルクレツィアくらい。
他は全部撒き餌だ。
わたしたちに疑問を抱かせないための。
わたしたちに結界室を開かせるための!
敵が大事そうに守っていたら。
敵が本気で阻んできたら。
誰だって、そこを攻撃すればいいんだと思う。
誰だって、そこに行けば勝てるんだって思う!
どこの誰が考えるって言うの!
相手を誘い込むためだけに、あえてその場所を守らせようと考える奴がいるなんて―――!!
あるいは、異常なほどの信頼とも言える発想。
こちらがどんな障害を用意しても、きっと乗り越えてくるだろう―――
そんな常軌を逸した信頼を、悪霊王はわたしたちの中の誰かに抱いているのだ。
そして、結界を無効化し。
学院内のどこででも殺人が可能となれば。
結界の外に出たことのない人間も殺せるようになれば。
――そう、悪霊王は宣言した。
目的は、皆殺し。
わたしたちは、すでにその目的は開始されていると思っていた。
でも、現実には違う。
悪霊王はただ、事前に用意した死体を披露しただけだった!
そうだ。
そういうことだ。
皆殺し。
殺戮。
鏖殺。
堂々と宣言された、その目的は―――
―――これから、始まろうとしているのだ。
……そして。
ここまでの真実があってすら、それは最悪ではなくて。
本当の。
本当の。
本当の。
最悪にして最悪の真実が―――
―――この先に、存在する。
できれば、気付きたくはなかった。
できれば、何も気付かないまま、トゥーラみたいに死んでしまいたかった。
それでも、わたしは。
勇気をもって、立ち向かわなくちゃいけないんだ。
だって、わたしは……。
……あの子たちの、師匠だから。
悪霊王ビフロンスの目的は、結界室を開けさせて侵入すること。
結界室の鍵はジャックに渡した。
だとすれば。
結界室への侵入がジャックの次に容易なのは、誰?
悪霊王ビフロンスの精霊術は、生きているようにしか見えない死体――哲学的ゾンビを操るもの。
そんな精霊術の存在を、わたしたちは知らなかった。
つまり――
――別の精霊術に偽装していた。
死体を操る精霊術。
それによって偽装可能な精霊術の持ち主は、誰?
認めたくない。
信じたくない。
そんなこと、あるはずないって思いたい。
それでも。
答えは、一つしか存在しなかった。




