Usually Happiness
◆ジャック◆
―――守りたい。
自分の手で、守りたい人を守れるようになりたい。
そう願ったのは、いつのことだったか。
10年来の親友がペンチで舌を抜かれたとき?
中学のときの元カノがフライパンで顔を焼かれたとき?
高校の部活の後輩がコルク抜きで目玉を抉られたとき?
正確には覚えていない。
ただ、俺は――
絶望の闇の中。
恐怖の檻の中。
ありもしない光に、手を伸ばすように――
願ったんだ。
神様。
どうか、俺に力をください。
大層なものでなくてもいい。
どうか俺に、人並みに幸せになれる程度の力を。
そして俺は、あの真っ白な世界で、本物の神様に出会った。
そんな願望を抱いたことなんてあのときは忘れていたし、出会った神様は想像よりもずっと頼りなかったけど。
神様は、きちんと与えてくれたんだ。
俺に、願いを叶えるチャンスと、そのための力を。
もう、絶望しなくてもいい。
もう、恐怖しなくてもいい。
俺に与えられた、ルーストという反則のような才能は、そのためにこそある。
なのに。
怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い……!
倒したと思っていた。
殺したと思っていた。
もう会うことはないと思っていた!
なのに、あいつは、また……!
大勢の人間を、殺して、殺して、殺して……!!
俺は……。
俺は、これまで、一体、11年も!!
何をやってたんだよ―――――――ッ!?!?
「…………くん! じーくんっ!!」
声があった。
暗く沈んでいた世界が、徐々に光を取り戻していく。
両頬が、暖かな温もりに包まれていた。
顔を掴まれて、間近で、誰かが叫んでいる。
それは……。
――ああ。
「……フィ……ル……」
この世界で一番、大切な女の子の顔が、間近にあった。
「じーくん! よかった、気が付いた……!」
手錠の冷たい感触がなかった。
牢屋の扉が開いてる。
「フィル……お前、が……?」
「そうだよ、助けに来たよ!」
「あいつ、は……? あの悪魔は……!?」
「あくま……?」
ピンと来ていない顔で、フィルは首を傾げる。
「ベニーとビニーなら、他のみんなのとこに行っちゃった。盗賊に攫われたときに一緒だったあの双子だよ! あの子たちが、わたしたちに成長したとこを見せたいとか言って、じーくんを攫ったの! 早くみんなと合流しないと、あの二人が何をするか……!」
盗賊に攫われたときに一緒だった双子……?
俺たちに成長したとこを見せたくて……?
理解が追いつかない。
でも、それは、もしかして……。
「あいつじゃ、なかった……? でも、あいつ、『兄さん』って……」
「……? 男の子と女の子の双子だから、妹のビニーのほうがベニーのほうを『兄さん』って呼んでたけど……」
……ああ。
ははは……!
勘違いかよ。
俺は、あの悪魔に捕まったわけじゃなかった。
それで、情けなく取り乱して……。
フィルに助けてもらった、ってわけか。
「……は……ははは……はは……!」
「じーくん?」
俺は、乾いた笑い声を漏らす……。
笑うしかなかった。
嘲笑うしかなかった。
「なんだよ……。何が『守りたい』だよ……! こんな体たらくで……! ただの影にビクビク怖がって……! 一番守りたかった奴に助けられて……!! これで何が守れるってんだよッ!!!」
俺は頭を掻き毟る。
前世のそれに比べれば、ずっと小さい頭を掻き毟る。
「あのときから何にも変わってねえじゃねえか!! 11年も経ったのに、何にも!! 貰いものの才能に溺れて、調子に乗って!! 成長してるって自己満足してただけの馬鹿じゃねえかッ!!!」
俺は……ただの凡人だ。
エルヴィスやアゼレアみたいな、本物の天才じゃない。
神様から才能をもらって。
大人の精神を保持したままやり直して。
天才の振りをしていただけだ。
『俺』自身が持っているギフトなんて、何にもありはしない。
全部もらい物。
ハリボテの神童。
それでも、やれると思っていた。
きちんとやれば。
真面目にやれば。
ただの凡人でも、誰でも守れるくらい強くなれるんだって、思ってた!
違う。
違う違う違う。
わかるだろ、考えたら!
俺、いま幾つだよ!?
精神だけ見たら、30過ぎのオッサンじゃねえか!!
そんな奴が、今更!
多少の人生を与えられた程度のことで!
可能性に満ち溢れた、本物の天才と同等に成長できるって、なんで自惚れた!?
俺なんか。
3つも年下の妹ごときに怯えていた、能なしだろうが―――ッ!!!
「……じーくん」
俺は答えなかった。
「じーくん」
その資格があるとは思えなかった。
「――じーくんッ!!」
不意に顔を掴まれて、我に返る。
フィルの大きな瞳が、俺の顔を覗き込んでいた。
ああ……。
やめてくれ。
やめてくれ、お願いだから……。
俺を、見ないでくれ……。
本当の俺を、見ないでくれ……っ。
「……じーくん」
もう一度、フィルは俺の名前を呼んだ。
そう、俺の名前を。
記憶の彼方に霞んで消えた、本当の名前ではなく――
この世界で俺が得た、ジャック・リーバーという名前を。
「わたしはね、じーくん。じーくんのことが、本当に大好きだよ」
俺はふるふると首を振った。
「違う……違う……。それは、俺じゃない……俺は――」
「ねえ」
フィルは静かに言って。
微笑む。
「舐めないで?」
見惚れるほどの微笑を浮かべながら。
フィルは、静かに怒っていた。
「じーくんがカッコいいばかりの男の子じゃないって、そんなの知ってるよ。
実はあんまり根性なくて、自信ありげなのは振りだけで、根本的なところではいつも不安がってるなんて、そんなこと、わたしはとっくに知ってる!
ねえ、じーくん。もう一度言うよ? もう一度だけはっきり言うから聞き逃さないで」
フィルは――
俺がこの世界で、たった一人選んだ女の子は。
俺をこの世界で、たった一人選んでくれた女の子は。
間近から、囁くように、突きつけるように。
嘘のない想いを語る。
「わたしは―――そんなじーくんのことが、この世の誰よりも大好きだよ」
ああ。
ああ、ああ、ああ……。
その言葉が、胸の奥に染み入ってくる。
ジャック・リーバーという殻を突き破って、奥底に隠れ潜んでいた『俺』にまで届いてくる。
涙が溢れるのを、止めることはできなかった。
……ああ、くそ。
なんて無様なんだろう。
精神年齢で言えば30を過ぎる奴が――
たった11歳の女の子の言葉に、心から救われている。
「だから、ね」
フィルは俺の頭を、優しく胸に抱いた。
彼女の温もりが、俺を包み込んだ。
「甘えてくれていいんだよ。頼ってくれていいんだよ。カッコつけなくたっていいんだよ?
情けないところも、みっともないところも、弱っちいところも、遠慮なく見せてくれていいの。
だって、それが――お嫁さんの仕事でしょ?」
「ぁあ……ぁあぁぁあああぁ……!!」
俺は、フィルの小さな身体に抱きついて、止めどなく涙を流した。
「俺……俺……ずっと怖かったんだ……!」
「うん」
「いきなり知らない世界で暮らせって言われて……! あんな妹につきまとわれて……! なのに、誰にも相談できなくて……!!」
「うん」
「一人で何とかするしかなくて……!! ずっとずっと、一人で……!!!」
「うん」
「だって、誰も信じちゃくれない!! 別の世界から転生して生まれ変わったなんて……頭のおかしい妹が追いかけてきてるなんて……誰が信じてくれるんだよ!?」
「うん」
俺は、心の中に知らずため込んでいたものを、順序も構わずめちゃくちゃに吐き散らかす。
きっと意味不明だっただろう俺の話に、フィルは何度も、優しく頷いてくれた。
俺は……たぶん、その肯定を欲していたんだ。
『こうすればいい』なんて解決策じゃない。
『元気を出せ』なんて励ましじゃない。
ただ、誰かに受け入れてほしかった。
ただ、誰かに寄り添ってほしかった。
この世界じゃ、どうあっても部外者の俺を――
『大丈夫だよ』って許してくれる、誰かがほしかったんだ……。
人並みに幸せになりたい。
ずっとそう思いながら、新しい人生を過ごしてきた。
人並みの幸せ。
簡単に言葉にできるそれが、どういう形をしているかもわからないまま。
でも、今、ようやくわかった。
それは、認めてもらうということだ。
この世界にとって異物でしかない俺を、認めてもらうということだ。
何の気兼ねもなく。
何の躊躇いもなく。
『俺』が『俺』のまま生きることを、許してもらうということなのだ。
そうして、ようやく――
俺は、妹に閉じこめられたあの鉄臭い部屋から、本当に出ることができるのだ。
「……フィル」
涙が止まって、息が落ち着いてくると、俺はフィルを抱きしめたまま呟いた。
「聞いてほしいことがあるんだ。……ずっと、黙ってたことがあるんだ」
「うん。なに?」
「俺の、本当の――いいや、もう一つの名前」
記憶の彼方に掠れて消えたはずだった。
でも、不思議と、今。
失ったはずのそれが、頭の中に浮かび上がってくる。
俺の、もう一つの名前。
俺が初めて世界に生まれて、23年間、呼ばれていた名前。
「俺のもう一つの名前は――――」
気兼ねはなかった。
躊躇いはなかった。
俺という存在を許してくれた女の子に――
俺は、初めて、名乗る。
「――――結城、京也」
何の変哲もない――
けれど、この世界では異質に過ぎる名前を、
「……ユウキ、キョウヤ」
フィルは、噛み締めるように繰り返す。
そして、言うのだ。
いつもと同じ――
俺が好きになった、朗らかな笑顔で。
「それじゃ、じーくんじゃなくてきーくんかな?」
それは、狂おしいほど懐かしい響き。
かつて確かに、俺をそう呼んでいた人がいた。
けど。
「いや、いいよ、じーくんで。今の俺はやっぱり、ジャック・リーバーなんだ―――俺が結城京也でもあることは、お前の心のうちにだけ仕舞っておいてくれたらいい」
「そっか。……うん、わかった、じーくん」
俺の名前は結城京也。
そこにはもう、何の矛盾もない。
ここに、ジャックを、京也を、すべて含めて認めてくれる人がいるから。
「ありがとう、フィル。……いつかまた甘えちゃうかもしれないけど、そのときはよろしくな」
「いいよ、いくらでも甘えて? でも、わたしにもいっぱい甘えさせてね」
「ああ。好きなだけな」
俺たちは唇を交わす。
強く抱き締め合いながら、いつもより少しだけ長く続いたそれは、一足早い誓いのキスだった。
薄暗い牢屋の中という、ムードもへったくれもない場所で交わしたそれを、きっと俺は一生忘れない。
両腕に抱き締める細い腰。
全身に感じる暖かな温もり。
唇に触れる蕩けそうな柔らかさ。
何一つ、忘れはしない。
俺たちは名残惜しみつつも唇を離すと、間近でしばし見つめ合って、くすくすと笑った。
「キス、うまくなったね」
「下手だと思ってたのかよ」
「ちょっとぎこちないのも好きだよ? でも、おっぱいはもうちょっと待ってね」
「ごふっ!? き、気付いてたのか……?」
「そりゃ気付くよ。あんなに触られたら」
「す、すみません……つい……」
「ん、いいよ。お嫁さんなので許したげます」
「ありがとうございます……」
「(もっと大きくなったら、好きなだけ触らせたげるね?)」
「っ!?」
耳元で囁かれた声に、脳みそが痺れる。
ああ、俺の嫁くっそ可愛い。
もう一回キスしたくなったが、今度は『いつもより少し長い』程度では済みそうになかった。
なので断腸の思いで諦めて、フィルから身を離す。
「……そういや、さっき言ってたよな。危ない奴が他のみんなのところに行ったとか」
言葉に出して強引に思考を切り替えた。
フィルも真剣な顔になって頷く。
「そうなの。ベニー君と、その妹のビニーが」
「ベニー……」
その名前には聞き覚えがあった。
盗賊『真紅の猫』に攫われたとき、同じ牢屋に捕まっていた子供。
実は双子で、盗賊の女頭領にこっそり協力していた。
どうしてあの子供が悪霊術師に?
「……とにかくみんなのところに急ごう。詳しいことは移動しながら教えてくれ」
「わかった!」
俺たちは牢屋を出て、遺跡のようなダンジョンを走り始める。
俺は、天才ではないかもしれない。
天才の振りをした、ただの凡人かもしれない。
それでも。
この11年は。
フィルと出会い、ラケルと出会い、学院で過ごした、この11年は。
きっと、無駄ではなかった。
さあ、ジャック・リーバーを見せてやれ。
俺はもう、鉄臭い部屋で怯えるだけの弱者じゃない。




