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転生ごときで逃げられるとでも、兄さん?  作者: 紙城境介
黄金の少年期:貴族決戦編

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The Chirp of Girl - Part4


◆ルビー◆


「かっわい~! ケットシーだったわけぇ!? 早く言ってよ~! そういや昔、ウチにも一匹いたっけな~!」


 一匹?

 一匹って言ったか、ケットシー(あたし)を。


 あたしはベリルの顔を睨み上げたが、向こうは気にも留めなかった。

 おもむろに、あたしのシャツに手を突っ込む。

 そこから、腰に巻き付けていた尻尾を引っ張り出した。


「あったあった! や~ん、ふさふさ~♪」


 尻尾を乱暴に握られた瞬間、背筋に痺れたような感覚が突き抜ける。


「んにゃっ!?」

「おーっ! 鳴いた鳴いた!」


 けらけらと笑いながら、ベリルはあたしの尻尾を強く握ったりこすったりしてもてあそんだ。

 そのたびに、あたしの意に反して、喉から「にゃっ!」だの「んにっ!」だの、猫っぽい鳴き声(・・・)が漏れてしまう。


 昔の記憶が蘇った。

 こうして、同じように、耳や尻尾をいじめっ子たちにもてあそばれたときのことを思い出した。


『こいつ鳴くぞーっ!』

『やっぱ猫だ、猫!』

『ほら、もっと鳴けよ猫女!』


 気付くと、視界がぼやけていた。

 こぼれた涙が、ぽろぽろと地面に落ちる。

 そのこと自体が、情けなくて。

 悔しくて。

 こんな風になりたくないから、あたしは。

 なのにっ……!


「ねえ、もっと鳴いてみてよ」


 猫のほうに耳に息を吹きかけるように、ベリルは囁いた。


「にゃあ~ってさあ。ほら、ごろごろごろ~……」

「ぅ、あぐ……」


 猫にそうするように、ベリルの手があたしの喉を撫でる。

 堪えようもなく襲ってくる快感が、まるで突きつけるようだった。


 お前は人ではないと。

 お前は獣なのだと。

 路地裏でゴミのように死んでいた、あの2人の同類なのだと――


 あたしも、やっぱりああなるのか。


 誰に顧みられることもなく、

 まともな墓も作ってもらえず、

 ネズミに食まれ蛆に集られ、

 人らしい尊さなんて一片もありはしない――


 あんな何の価値もないものが、あたしの末路なのか。


「ぅぐ……あぐっ……!」


 涙の中に、あの雨の日に見た死体が蘇る。

 やがてあたしが至る末路が蘇る。

 それを否定するため、ここまで辿ってきた道が蘇る。

 そのすべてが、情けない涙となって地面に染みて消える――


 いやだ。

 そんなの。

 いやだ!

 それだけは!


「…………ぃ、……や、……だぁああっ!!!」


 絞り出すように叫んだ、その瞬間。

 世界がブラックアウトした。


 気絶した?

 いや、違う。

 瞼を閉じたわけでもない。

 これは、本当の暗闇。

 光を遮断した世界。

 ジジイんとこで修行を始めたとき、よく見ていた世界だ。

 無意識に【一重の贋界】を発動させたんだ。


 普段、あたしは贋界膜の内側から外の様子が見えるようにしている。

 だけど、それを意識しなければこうなるんだ。

 この状態だと、外の様子がまったくわからなくなるが、一方で内側(こっち)からも外へ情報が一切漏れなくなる。


 背中からベリルの重さが消えていることに気付いた。

 あんなに密着してたのに?

 普段なら、あれだけ密着されていたら、贋界膜の内側に巻き込んでしまうのに。

 まるで自分以外のすべてを弾いてしまったような感覚だった。


 もしかして……。

 この状態なら、ベリルに探知されることもない……?


 ベリルがどうやって透明化したあたしを探知しているのかはわからない。

 わからないが、あたしが出す何らかの情報を感知しているんだろうという予想はつく。

 だが、この完全遮断状態なら、あたしから出るあらゆる情報は、贋界膜に遮断されて外にはまったく漏れない。

 だけど、代わりに――


「……う、くっ……!」


 くそ、もう来た。

 久しぶりだ。

 手足が震える。

 喉がひくつく。

 意味もなく叫び出したくなる。


 誰もいない。

 何もいない。

 まるで――

 あの雨の日の、路地裏みたいだ……。


 あたしは、この完全な暗闇が苦手だった。

 少し暗いくらいなら、ちょっと嫌な気分になるくらいで済むけど、この暗闇だけはダメだった。

 せいぜい10秒くらいしか耐えられない。

 それ以上は、頭がおかしくなりそうになる。


 今すぐ解除したい。

 光を取り戻したい。

 だけど、今は――


 あたしは恐怖を噛み殺した。

 周囲の状況を思い出す。

 見えないだけだ。

 恐れるな。

 世界はちゃんとそこにある。


 あたしは這って移動した。

 逐一地面を確認しながら進む。

 気を抜くと、どちらが上でどちらが下かもわからなくなりそうだった。


 ……大丈夫か?

 ここまで来れば、大丈夫だよな?

 ぅぐ。

 ダメだ、限界だ―――


 周囲が見えるようになった。

 安堵の息をつきたいのを我慢して、すぐ後ろを確認する。

 ベリルがきょろきょろと周囲を見回して、今、あたしに目を留めたところだった。


 あたしは転がるようにして距離を取る。

 ……やっぱり。

 あの状態だと、あの女はあたしの位置を捕捉できない……!


 つまり、あの探知能力は、何らかの超感覚によるものだ。

 それによって、透明化していても発してしまう何らかの情報を感知されている。

 何を感知されてる?

 選択肢はそんなにない――


「おやおやぁ?」


 ベリルはあたしを見ながらにたあと笑った。


「もっと逃げないでよかったのかにゃ~? せっかく見失ってあげたのににゃ~」


 馬鹿にしやがって……!

 瞬間的に沸騰しそうになった頭を、あたしはすんでで押さえつけた。


 煽られてる場合じゃない。

 完全遮断状態が長くはもたないのはわかっているぞ、とベリルはそう宣言したんだ。

 仮にもう一度隠れたとしても、見失ったあたしを探しにベリルがどこかに行ってしまう、なんてことは期待できない。


「いやー、いきなり消えて驚いちった! で・も~、次はきっちり動けなくしちゃえば大丈夫だよね~!」


 ベリルの手のひらで、青い炎が大きく大きく膨らんでいく。

 もう一度、完全遮断状態になれば、一時的にやり過ごすことはできるだろう。

 でも、その次は?

 完全遮断状態は何度も使える手じゃない。

 頻繁にあの暗闇に戻っていたら、炎に焼かれる前にあたしの頭がどうにかなってしまう。


 手がない。

 次の瞬間、迸るだろうあの青い炎を完全にやり過ごす手段が、どこにもない。


 こんなことなら、一人で来るんじゃなかった――

 なんて、そんなことを思っても。

 それは、後の祭りというヤツだった。


「それじゃ、あとでゆ~~~っくり遊んであげるからね、子猫ちゃん♪」


 膨らみに膨らんだ青い炎が、あたしに向かって迸る――

 寸前に。


「チッ、いいところなのに……」


 ベリルが苛立たしげにそう呟いて、部屋の入口を見た。


 なんだ?

 どうした?


 あたしが眉を寄せた、その直後。


 ――ガシャン、ガシャン、ガシャン、ガシャン。


 そんな音が、入口のほうから聞こえてくる。

 ……まさか……。


「ああもうッ、うるっさいなあっ―――!!!」


 まさに、反射的、という感じだった。

 ベリルは青い炎の照準を、迫ってくる足音の方向に変える。


 入口を塞ぐようにして、炎の壁が走った。


 空気すら焼き尽くす、青い業火。

 離れたあたしにすら熱波が届き、肌を焼かれる。

 その火花の一つ一つが、まるで鬼火(ウィルオウィスプ)だった。

 触れるものすべてを爛れさせる、怨嗟の炎―――


 その。

 ど真ん中を。


 鎧をまとったガウェインが突っ切ってくる。


「――ぉおぉおぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!!」




◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆




◆ガウェイン◆


 熱い。

 結界に守られているはずなのに、オレは熱いと感じた。

 命が、削られているのを感じた。


 魂が燃えている。

 端から隅と化し、空気の中へと散っている。

 それでも――

 進むべきだと言っていた。

 オレの中の何かが。

 オレの、奥の奥のほうにある何かが。


 助けるために?

 ――違う。


 救うために?

 ――違う。


 守るために?

 ――違う。


 ならば、何のためだ?

 ――わからない。


 オレにわかるのは、一つだけだ。

 今、オレは、憤っている。

 ムカついている。


 バーグソンに手を差し伸べたあのとき――

 一方的に拒絶されたあのとき――


 自分の中に、確かな傲慢があったことに。


 あの瞬間、オレは彼女のことを、『馬が合わないクラスメイト』ではなく、『助けるべき可哀想な弱者』として見ていた。

 それは、ルビー・バーグソンという、オレと決して無関係ではない人間を否定しただけではない。


 この、2年半を。

 反目し合いながらも、しのぎを削り合った2年半を。

 戦略を探り合い、対策を張り合い、半年ごとに巡り来る一戦を本気で奪い合った――オレと彼女の2年半を。


 ――オレは、否定したのだ。


 それが、腹立たしかった。

 過去に戻って縊り殺してやりたいくらい、ムカついていたのだ。


 だから――

 これは、八つ当たりに過ぎない。


 この堪えようのない苛立ちを、ちょうどいいところにいる敵に叩きつける。

 ただそれだけのこと。

 騎士道にもとる、まったく野蛮な行為だ。

 ゆえに。


 オレは決して、バーグソンを助けたいわけではない!


「おぉおぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!!」


 青い炎の壁を、オレの身体が通り抜けた。

 赤熱して溶けかかっている鎧を、【不撓の柱石】でそのままの形に保つ。

 そうして全身を赤く輝かせたまま、オレはベリルに向かって走った。


 あれほど高火力の炎は、至近距離で使うと自分まで焼いてしまう。

 肉迫さえしてしまえば何も怖くはない! 


 ベリルは忌々しげに顔を歪めながら、後ろに退がって距離を取ろうとした。

 オレには機動力がない。

 逃げに徹されてしまえば、追いつける道理はない。


 ……ならば。

 対策を用意していないはずがあるまい?


 ベリルの足元の床から、赤く輝く触手のようなものが伸びた。


 その正体は、オレが床下に忍ばせた液体化金属。

 青い炎に炙られて赤熱したままだ。

 それがベリルの両足に巻きつき、ただちに固体へと戻った。


 ―――ジィュウウウウウウウウウッ!!


「あッ……づぁああっ!?!?」


 焼ける音と悲鳴が弾ける。

 熱かろう。

 ようやく思い知ったか。

 それが貴様の使っている暴力だ……!!


 同じ熱に全身を焼かれながら、オレはベリルとの距離を詰めようとする。


「こンのおッ……ウドの大木がァあああッ!!!」


 しかしその前に、ベリルがオレを追い払うように青い炎の壁を走らせる。

 もう一度突っ切れるほどの霊力は……さすがに残っていないか。

 赤熱した鎧が空気に冷やされて、徐々に鈍色に戻っていった。


 ひとまず、ベリルとの間を遮ることができた。

 自ら生み出したこの壁が消えない限り、向こうも手を出しては来られまい。

 オレはへたりこんだままのバーグソンに近付いた。


 そこで――

 オレは、初めて気が付く。


 バーグソンの頭。

 いつもは大きな帽子で隠れている頭に。

 耳があった。

 大きな、猫のような耳が。


「あっ……み、見るなっ!!」


 オレに見られていることにバーグソンもようやく気付いて、両手で耳を押さえる。

 しかし、まさに頭隠して尻隠さず。

 腰の辺りからは、細長い尻尾が伸びている。


 まさか……。

 ケットシー?


 そう理解した瞬間――

 あの雨の日のことが、脳裏に蘇った。


「―――は」


 堪えられない。

 喉の奥から、溢れ出す。


「はは、はははははは!! はっははははははははははははははははははははははははははははは―――っっ!!!」


 笑いが、腹の底から止め処なく。

 こんな大声で笑うなど、一体何年ぶりか。


 ああ……そうか。

 そういうことか。

 こんなことがあるものか。

 はは、ははははは!!

 笑わずにいられるか、これほどのことが!


「……な、なんだよ……! そんなにおかしいかよ……!?」


 大笑いするオレを、ルビー・バーグソンは顔を赤くして睨み上げる。

 いや、とオレは否定して――

 笑いを噛み殺しながら告げた。


「貴様、あのときはよくも人の好意を無碍にしてくれたな」

「は? ……さっきの話か?」

「いいや。貴様のせいで、パンが一切れ無駄になった」


 ――え?

 と。

 バーグソンの瞳に当惑が浮かび――

 だが、直後。

 オレの顔を注視しながら、目を大きく見開かせていった。


「おっ、お前っ……あのときのっ……あのときの!?」

「ふん。覚えていたか。まあどちらでもよかったがな」


 幼き日。

 学院に入学する前。

 あの雨の日に、オレたちは一度だけ会っていたのだ。


 お互い、名前も知らなかった。

 身分も、立場も、何もかもがかけ離れていた。

 一度出会うこと自体、奇跡に近い間柄だ。


 それが、こうして再会することになるなど――

 ――まったく、腐れ縁もあったものだ。


 バーグソンは苦々しい表情になって言う。


「……道理で最初っから気に喰わなかったわけだぜ」

「お互いにな」

「あたしは悪くねー」

「それもお互い様だ」

「……だったらほっとけよ。あたしはお前の好意を無碍にしたんだろ?」

「それはできん」


 するりと言葉が出た。

 自分でも意外なくらいに。

 瞬間――オレは理解した。


 なぜ、この女を放っておくことができなかったのか。

 それは―――


「なんでだよ?」


 バーグソンは、怪訝そうな色を浮かべた瞳を、オレに向けてくる。

 あの雨の日。

 オレを睨み上げた、この目に……オレは、自分にはないものを見た。


 強さ、と呼ぶべきなのか。

 芯のようなもの。

 己という存在を規定する、決して揺るがないものを――

 オレは、彼女の瞳の中に見たのだ。


 だから、まあ、要するに……。

 あのときのオレは、不覚ながらも……。


 …………バーグソンの眼差しに、感動してしまったのだ。


「…………」

「おい、なんとか言えよ。なんでほっとかねーんだよ」


 耐え切れずに、オレは目を逸らした。


「……知らん。自分で考えろ」

「はあ?」


 なんと屈辱的な事実だ。

 オレがまさか、よりによってルビー・バーグソンに、感銘を受けていたなどと。

 末代までの恥だ。

 このことは決して口にせず、墓まで持っていくしかあるまい。

 ましてや当人に告げるなど、五体を引き裂かれたとしてもごめんだ。


 オレは巧妙に視線をずらしたまま、座り込んだままのバーグソンに手を差し出した。


「手を貸せ、ルビー・バーグソン。ベリル(ヤツ)はオレ一人の手には余る」


 差し出した手は、座り込んだバーグソンの顔の前ではなく――

 その頭の上くらいに向けていた。




◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆




◆ルビー◆


 見当違いな高さに差し出された手に、あたしは困惑した。

 どこに差し出してんだ、コイツ。

 目ぇ悪いのか?


 だけど――すぐに気が付いた。

 気が付いちまった。


 その手は。

 あたしが立ち上がったときの高さに、差し出されているのだ。


 理解した瞬間、ジジイ――ホゼア・バーグソンと出会ったときのことを思い出した。


 スラムでお山の大将やってたあたしんところに、あのジジイが勧誘に来たとき。

 あたしは誰の手も借りない、と言って断った。


 するとジジイは、フンと鼻で笑って、こう返したのだ。


『阿呆。俺がてめえの手を借りるんだよ。てめえはてめえで勝手に俺を利用しろ』


 ……ああ、そうだ。

 いつまで座り込んでいやがる。

 いつまでこんな、可哀想で不憫そうな、か弱い女の子みたいな格好でいやがる。


 あたしは、誰の助けも借りない。

 だが。

 誰かに手を貸してやることはできるし、その見返りを受けることもできる。


 そう、これは同情でも優しさでもない。

 そんな不確かなものじゃない。


 これは――取引だ。


「……やれやれ。しゃーねーな」


 そんなことを言いながら――

 あたしは、自分で立ち上がった。


「お前だけじゃ頼りねーから、手伝ってやるよ」


 そして、ちょうどいい位置に差し出されたガウェインの手を、力強く握る。

 すると、ガウェインはそれ以上の力で握り返してきた。


 ――ぎゅううううううっ!!


「って痛てーよ!?」

「ふん。オレの勝ちだな」

「何の勝負をしてんだよ!」


 慌てて手を放す。

 女と握力で勝負してんじゃねーよ。

 ないのか、思いやりとか。

 ……いや、ないか。

 ないわな、そりゃあ。


 あたしとコイツの間に、思いやりなんてあるはずがない。

 出会ったときからずっと、気に喰わないヤツだったんだから。


 でも、今だけは休戦してやる。

 コイツよりずっと気に喰わないヤツが、一人いるからな―――!!


「叩き潰すぞ」

「無論だ」


 あたしたちは、消えつつある炎の壁と――

 その向こうにいる、ベリル・エイトキンの姿を見据えた。



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